26 天使の酒盛
緊張の糸が切れたかのように、ルツィアは深い眠りについた。
三日三晩祈り続けた末に、呼ばれた天使があれで、更にはこの場では中和出来ないと言うのだから仕方がないだろう。
魔力も体力も限界だったのだろう。静かに寝息を立てる彼女を自室に寝かし、ゼトアは一人、教会の裏に出る。息子達の夕飯は連日お世話になっていたという店にまた用意してもらった。四人分のセットを持って帰って来た二人の笑顔が、やけに痛々しいと思えてしまった。
月の見えぬ夜。もうおなじみになったこの空間に、まだ見慣れない男の背中がある。強大な魔力を有する魔族や天使は、食事を必ずしもとる必要はない。長期間の絶食は流石に生命の危機に瀕するが、数日程度は活動に何も問題はなかった。
世界に流れる魔力に全身を浸す。今目の前の背中は、この地上の魔力に順応しつつある。
「人間の身体には慣れたか?」
百年以上前のことだ。このクソ天使はあろうことか魔王が居住する首都への直接攻撃を強行した。上空からその偉大なる翼をはためかせ、魔王の首を狙ったのだ。
そんな無礼なる行為を許すことなど出来はしない。信仰心の対象であるその翼を叩き折り、魔王の元へと引き摺り下ろした。我らが魔王を見下す等、どんな存在でも許されない。
魔王は至極楽しげに、奴に向かって言葉を投げた。
『貴様は二度と空は飛べない。俺の視る未来は絶対だ』
残酷な笑みを浮かべ楽しそうにそう言う魔王に、奴はその未来を否定し続けていた。魔力を削るために身体を刻まれ、その器から魂を削ぎ落されるまで、ずっと……
――俺はお前が羨ましい。
絶対の未来を前に、それでも否定を言い放てるその口が。身も心も文字通り切り刻まれて、それでも折れない精神の大翼が。『絶対』に足掻くにはもう、身も心も捧げ過ぎた。絶対は『全て』になってしまった。
「ほんま嫌味な奴やなお前は。俺のこと嫌いなんわかってるから、俺のことなんか見てんと息子でも見に行ったらええやん」
「……べつに、嫌いじゃないさ」
たまには本心を言葉にしてやるのも悪くはない。魔力を辿れば心の深い揺らぎ等、お互いに簡単に見通せる。
「……わかっとるわ、それぐらい」
振り返った奴の眼には、聖堂では感じられなかった感情が浮かんでいる。ちゃんと、人間らしい表情を浮かべている。
「酒でも一緒にどうだ? 地上にいる間は問題ないんだろう?」
天に仕える者の戒律を思い起こしながら提案する。天使はその言葉に暖かい笑みを返した。
「思い出の、赤ワインを希望するわ」
翼を叩き落した功績を称えて、その天使は俺の目の前で斬殺された。長い長い時間をかけて、愛しい魔王の手によって、天界では禁忌とされる魔族の――魔王の血をかけられながら、その聖なる身体を闇の魔力に焼かれながら、俺の目の前で絶命した。
「もちろんだ。息子達が店で貰ってきたものだから、あまり良いものではないが」
狂おしい程求めてやまない、『全て』の血に溺れながら焼かれ、切り殺される。絶命するまでの長い時間、俺から魔王の視線を奪ったお前を、俺は絶対に許さない。そして同時に、その『全て』の視線を一身に受けたお前のことを俺は――
甘い魅惑的な香りを放つワインが、流れ出る血に深く混ざり合う。淫らな水音が響くなか、俺は絶命する奴の身体に闇を溶かし込んだ。その時に流れ落ちた血の混ざったそのワインは、今でも魔王アレスのお気に入りだ。
「それでも禁欲な天界からしたらご馳走やわ」
癖の強い短髪を揺らしながら、ストラールはゼトアの隣に座った。天使らしい聖なる衣に包まれただけのその体躯に、一瞬目を奪われる。抜けるような白い肌に、いつか見た朱が流れ落ちるのを夢想してしまう。
「……待ってろ、持ってきてやる」
立ち上がろうとしたゼトアの腕を天使は強く掴んで引き止めた。
「お前らのせいで、俺まで歪に歪んでもた。愛しい男性≪ヒト≫が愛する相手の腹を引き裂くんに、異常に興奮するようになってもた。それに――」
「――天使共の性癖が理解出来んのは昔からだ。心配しなくて良い」
「……なぁ、あのステンドグラス造らせたん、俺やねんで?」
十字架の背後に映された奴の欲望に満ちた歪な姿。女性の腹に刺さった得物により、その十字を示す。
「初めて見た時からわかっていたさ」
絶命した器をこの地に放り捨て、周辺の敵軍を一掃したのは自分だ。この地ならば、天界への扉も、後釜も用意出来るのは予想出来た。その後釜となる器は、あまりにも若すぎたのだが。天界への供物となったのは、口減らしの子供であろう。
白い腕に力がこもり、その端正な顔が近付く。グレーがかった瞳には、情欲の炎が燃える。
息子より、もしかしたら若いかもしれないな。
「お前の息子引き裂いたら、お前はどんな顔するんや? 天界の門まで、我慢出来るかわからんわ」
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