20 見せつけられた彩
兄弟のような恋人のような、そんな甘い幸せな日常。
甘い香りに起きることを躊躇わせる朝を迎え、朝食をとって午前中に訓練を行う。昼飯の後には教会内の清掃を行い、あ、明日にはそろそろ溜まってきた洗濯物を干さないといけない。
二人きりの甘い時間は、日常生活の全てに幸せの光を与える。こんな気持ちは初めてだ。お互いがお互いを常に求める。狂ったような歪な依存。
教会からは強い聖の魔力が溢れている。聖堂への扉は固く閉ざされたまま、光を取り入れるための大きなステンドグラス――側面の両方にも背の高い彩を何枚か取り付けていた――からも、人の気配は感じさせない。そんな矮小な存在等かき消す程の魔力なのだ。
祈りのために寝食も奪われた母親のことが心配でないことはないが、元より聖職者として振舞ってきた母親だ。きっと今回も上手くやるだろうという信頼の気持ちの方が断然強い。
それにきっと、何かあったらゼトアが飛んでくる。きっと、それは間違いない気がした。
グロッザは一人、教会の外にいた。
夜の闇に包まれて一人、ステンドグラスに背を預ける。
夜の風は冷たく、心の芯に届きそうなほど冷徹だ。その冷気から身体を守るようにして掻き抱く。今は寝巻に防寒用の薄いカーディガンを羽織った軽装だ。薄い布地越しに更に冷たいガラスの感触が触れる。
強大な聖の魔力に紛れて確かに母の存在を感じる。自身のなかにも脈々と受け継がれる神聖なる光を。
昨日の朝にはこんなことはなかった。いや、今日までこんなに――大気のなかに含まれる魔力の流れを意識出来たことはなかった。まるで気配か匂いのように、人それぞれにそれは異なり、敏感にその存在を主張してくる。
母の姿を何故か急に見たくなり、眠るグリアスの隣をすり抜け、足音を、気配を殺してここまで来た。
腰の高さから身長の遥か上まで細長く伸びているステンドグラスに向き直る。右手がガラスにそっと触れる。十字架を掲げた正面のステンドグラスから放たれた天界からの光をあしらったもので、外と同じく闇に囚われた教会内の様子は窺いしれない。
空気が揺らぐ。今日は漆黒の闇夜。昨夜の月はまるで魔力を使い果たしたかのようにかき消えた。
背後から強き力が近付いてくる。振り返らなくてもわかる。ゼトアだ。
「明日まで、近寄らないんじゃなかったのか?」
少し、いや冷たく――出来ない、拗ねた声しか出せなかった。背後の彼はそんなグロッザの言葉に小さく笑い、そのまま後ろから抱き締める。
「お前の顔を見たくなった。あれから――変わりはないか?」
顔だけ少し振り返って、答えようと開いた口があっという間に塞がれた。強引なぐらいの口づけに、ステンドグラスの上で指先がその大きな手に覆われる。
顔の向きは中途半端に横を向いたまま、身体はステンドグラス――教会内に向いたまま。同じ闇のなかの出来事ならば、母からはきっと見えることはない。母はこの薄い薄い美しいガラス越しに、天への祈りを捧げている。
色とりどりのガラスに自分の痴態がでたらめに映る。鈍い朱の差したその顔は、闇夜のなかでも隠し通すことなど不可能で。
「かわ、った……」
目の前のダークブルーから逃げるように目を背け、小さく小さくそう告げた。
「そうか……」
彼は短くそう答えただけだった。暫しの沈黙。風すらも今は止んでおり、グロッザの意識のなかに彼の存在だけを感じさせる。
「お前はいつも流されるな」
大きな手に力が入り、頭のなかを彼の魔力が押し入ってくる感覚に襲われる。足の先から頭のてっぺんまで一気に走り抜けるような快感は、繋がれた右手から捩じ込まれた。暴力的なその魔力は、労わるようなこともせず、グロッザの心を、身体を蹂躙する。
ガクガクと震える腰を彼に支えられ、更に強く抱き締められる。ステンドグラスが熱を帯びた。聖なる光の感覚に、流されそうになる心が叫びを上げる。
「か、母さんが……」
この薄い薄いガラスの向こうに母がいる。闇夜に塗りつぶされ姿は見えなくても、存在を感じ、心の根っこを感じられる。魔力を感じる能力の高いエルフと魔族は、魔力の波長で相手の感情をある程度なら読み取ることができる。
今までの自分にはわからなかったその動きが、今は手にとるようにわかる。彼も母も、少年だって、きっと平然と感じ取れていたに違いない。そうじゃないなら、こんなにも、心が乱されるわけがない。
母はこの男を想っている。誰にも取られたくないという醜い――自分とよく似た感情が、ステンドグラス越しに熱となって感じ取れる。
「ルツィアがどうした?」
ゼトアは何もかもわかっている。なのにオレの心をかき乱して、オレに欲望にまみれた声を上げさせようとしている。
支えられていた手に力が入り、身体ごとステンドグラスに全身を押し付けられる。ほとんど襲われているような強引で屈辱的な姿勢なのに、流れ込む魔力に息が上がっていくだけだ。
「お前はもう逃げられない」
いつか聞いた、枷のような言葉に絡めとられる。後ろから覆いかぶさる彼の声が耳元で何度も繰り返される。もう、逃げられない。
「母さんが、いるだろ?」
「ガラスの向こうにルツィアがいるな。声を上げれば聞こえるだろうな」
抵抗の声は、喉の奥で笑われる。
「母さんは、あんたのことが好きだ」
「……どうしてそう思う?」
押し付けられる力はそのままに、彼は少し意外そうに聞いた。ダークブルーの瞳に一瞬逡巡の光が宿った。
「今朝から魔力の流れがわかるようになった。あんた達はこんな感覚のなか生活してたんだな」
こんな、世界に押しつぶされそうな、世界の全てを感じることが出来そうな感覚で。溢れる魔力に乱される、愛しい者への情欲すらも感じ取れる感覚で。
「怖いか?」
「怖くないって言ったら嘘になる……あんたの気持ちがわからないのも不安だけど」
「俺の心はもう、感じ取れているんだな」
魔王に対する絶対的な忠誠、信頼、尊敬そして――愛情。見せつけられた。月夜の『全て』に。
知らず知らず、涙が出た。滲む視界にエメラルドグリーンが映る。それはステンドグラスの差し色の一つで、親指の先程度のそんな小さな彩だった。
大きな手に包まれた指先をそこに当てる。指の腹でなぞり、爪の先を引っ掛ける。キィっと耳障りな音がグロッザの――ゼトアの耳を刺激した。
押さえつける手に力が入る。頭が割れそうな頭痛に襲われる。爪先ごときでガラスに傷をつけることなど出来るはずがない。それでもその行為すら許さない彼の態度が腹立たしい。
涙と嗚咽を止めることもなく爪を立てることを繰り返す。
「魔王にも、母さんにも勝てない」
急激に流し込まれた魔力に気を失いながら、そう譫言のように繰り返していた。
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