流行病 作・奴
今日び私の心を侵しているのは、自分の抱える重篤な病気や、昔に失った恋人ではない。そういうどこか美しいものの裏に隠れて見えない、もっと普遍的で人間みたようなもの、あえてより正確に言うと、それはいろいろに漂う不安だ。卑近なもので言えば将来の不安。やや限定的にすれば対人関係の不安というふうに。
前に医者に不安障害だと言われたことがある。その人の言うことには、何かしらに忙殺されてゆっくりする暇をなくすか、あるいは情に激して軽挙妄動し、気の済むのを待つか、だという。ははあん、そういうものなのかとその時ばかりは思ったが、よくよく考えると、いいかげんに扱われたような気もする。しかし、腐っても医者は医者であるから、とにかく実践してみないことには簡単に非難することも出来ない。的確な指示であるかもしれないのだ。
しかし気の向くまま町に出向こうと思うと、最近の世界の大勢のために、あるいは身近な世間の大勢のために、いよいよ此岸にある火炎のために、部屋からの出立が無謀の行いになって、玄関の三和土で足踏みしてまた引き返すしかなかった。それだけ恐ろしい、実体ある幻影が、現実世界の大気をも、精神世界の大気をも、満たしていた。
部屋にこもって白湯を飲みながら、外ばかり眺めていた。窓は決まった景色しか映さない。たまに来る鳥も、息を殺して静止する人間の何を恐れるか、窓のそばに寄りつかないで瞬時に飛び去ってしまう。景色の隅で、高い声調でさえずるのに、こちらにはその矮小な姿も見せないで、ふいに消え去ってしまう。私は、膜が一枚余計にあるような、こもった音しか通さない耳で、遠くに鋭い声を聞いて、それでやっと生き物の息遣いを感じ取った。けれどもいかにも刹那的なその者は知らず識らず霧散する。
朝過ぎの精力にあふれる光も、昼の生命の断片がある光も、夕にいよいよ弱まる青暗い光も、山向こうに落ちた太陽の置き残した光も、それから夜の白々とした月明かりも、何も変わりなかった。雲の加減で、それが鋭利な光線になったり、柔和な光線になったりするだけであった。その光の狭間に、季節ごとの移ろいのない常緑樹と、捨てられた田園がままにしてあって、春の時分も秋の時分も、緑の葉と茶の土を見せている。本当は無辺な地平の、まったく一部でしかない小片だけをいつまでも見ている! 田園に沿い続く道も、山の向こうの町も、この窓を蹴破って走駆しなければ見られない。現在はかような状況であった。
私のできるのは、その無変の景色と、なお無変の部屋を見渡して、ただ光の具合と、示される時間に急かされながら、音楽を聴き、小品を書き、読み、合間に食事する以外になかった。私はこの自主的な隔離の期間に、小品一個と、いささか大きな小品を一個、つまり二つを作った。まったくの戯れであるし、いかにも気休めであった。けれども私にこれしか残っていなかった。新地平に立ったばかりの私は一つの窮理もままならずに、立っている地点のあたりをさまよった。そうした安易な彷徨が、ここではかえって高貴であった。むしろ宝物であった。舶来の品として過去に受け取った、別な方角に進むための「がな」の羅針盤を後生大事にしている。
何も遊戯の途上を離れない小品は、言ってしまえば可算無限個あった。幻のうちに消失する前に掬い取ったいくつかが、もはやどうしても消失しえない奔放な具体に移り変わっている。私はこうする間にも、そうした意図された奔走を、またも意図して見逃しているのであった。しかしわざと霞のごとくにぼやかす理由もなかった。
ここにある、まさにこれ自体、そのうちの一つに計上される。もっとも純粋な意見が、物質的な物の上に落ちていく以上は、奔走もやむなしと言えた。
けれども、ついに接近する異常が、ようやく我が身を冒す危険と知れると、私は卒然に体をこわばらせて、家に籠城した。高い城の中でかように小品を作っているのも、一般に近い大恐慌と、それを危険と諒解できる良識のおかげであり、尋常を通そうとする者を指弾できるのもそのおかげである。私は城にいて泰然としていた。
無意味に小品を積み重ねながらも、こう考える。けだし疾病ほど平等を主義にできるものはなくて、極めればいくらも露見する人間の浅ましさを知らないで、純粋に伝播して人を床に引きずり込む病は、選り好みのない中に人間とは別な残酷さを抱えていると。
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