寝覚め   作・奴

 ベランダは降りこんだ雨がそのまま乾いたのか砂と雨染みで黒く汚れていた。空調の室外機とサンダルだけ置かれた殺風景な広いベランダを広岡は洗濯物を干すときも使わず、風に当たるときのためだけに使っているらしかった。「もったいないのに」と藤川はからかうように笑ったことがある。本当に、これだけ広いなら何だってできそうだった。洗濯はもちろん、園芸も、ブランチも、あるいは野宿すら快適にやれそうなベランダ。藤川はそこに、柵を乗り越えて入った。地階にあるためか防犯を考えて高さのある柵が設えてあったが、表面のわずかな凹凸に足をかけて這うよう跨げば柵の上から中に侵入できた。実際そうやって、藤川は広岡の部屋のベランダにいる。その柵の上の隙間から月明かりが窓に当たっていた。けれども夜とあってカーテンは閉められていた。寝ている時間だ。藤川は独りごちた。むしろ寝ているときを狙って来たのだと思い直した。もし昼のままなら、窓の鍵は開錠されたままで、あっさり部屋に入れるはずだった。それでもし入ることができたなら、と藤川は何度もその後の情景を反芻した。広岡が用心深く閉めていれば、何もせず、あるいはここで一服だけして帰ればよかった。しかし、もし鍵はかけられていないままで、簡単に侵入できてしまうものなら、そのときは慎重に、思うまま、行動したかった。今、一本だけ吸ってもいいかもしれない、とも思った。広岡は普段、日付が変わるころには床に就き――この事実は日常の何気ない会話の中で手に入れた、この計画を実行するための最重要の情報だ――朝まで目覚めることはない。地震があったって夜に寝覚めないのだと広岡は笑って話した。それがいっさいの誇張なしに語られた決定的な事実なら、今ここで、もしベランダに面している眼前の窓が開錠されていて容易に入ったとして、その後に、すぐそばにある彼のベッドに忍び寄って、眠っている彼の顔をまじまじと見ても、決して彼には知られない。まずここで緊張をほぐすために一度だけたばこに火をつけ、それから彼の寝顔を気の済むまで眺めても、誰にも自身の悪態が知られることなく、日の出より先にある社交を行える。藤川はそこに吸い殻と、空き箱すら残して、音を立てるような立て付けの悪さまで考慮して、いやにじりじりと網戸を空けてから肝心のガラス窓の枠に力を込め横に押した。一瞬、窓は重たく、すぐには動かなかったので、やはり広岡はそうしたところまで気の廻っている人なのだと、悔やみつつも安心したが、じきに窓は音も立てずすうっと開いた。風はなかった。カーテンは翻らず、月の光を受けて白く見えた。冷気だけは固まりきったように場にあった。藤川はまたそおっとカーテンの隙間から室内に足を伸ばした。


 広岡の寝息が聞こえた。


 そんなふうに状況を細かく話せば、藤川の話は喜二男にも現実のことのように思われた。いや、現実だった。現実に藤川は広岡を慕い、求め、彼の生活を暗に貪った。週に四回も五回も彼と彼の部屋(まさに今、藤川の話に出てきた部屋!)でくだらない話をするのに、それでは欲求は満たされないから、時折り深夜に広岡の顔を見に行っているのだ。それも許可なく、不法に。広岡なら許してくれるかもしれないと藤川は口元ばかり歪ませた。もしうまくいけば、そのまま自分の本意を察して、願うところの関係へと現在の間柄から昇華してくれるかもしれない。喜二男はこうした一連の話を前から聞いていて、それでも今日まで信じず、何も咎めず、黙って藤川の話を耳に入れていた。本棚のいちばん上にカメラを仕掛けたとか、壁にあるコンセントには盗聴器があるとか、そんな、何だかありきたりな話をあくまでも冗談として、それくらいの感情を広岡に向けているのだという比喩として受け取った。それで昨日までの彼女の話を消化した。しかし今日、この場で聞き入れた新しい話は、どことなく犯行供述じみていて、生々しかった。頼んだハイボールは氷が溶けきって薄くなり、まずかった。それすらもはやどうでもよいような気がした。騒がしい路地裏の居酒屋で、終電の時刻を気にしながら酒を飲むだけの数時間は事情聴取に移り変わった。「どうしてそんなことしたんだよ」とまで尋ねた。藤川は「好きだから」としか答えなかった。女の性で満たされた藤川葉子の、紅色の頬! 湿った人いきれのせいばかりではないはずだ。喜二男はそう呟いた。この女のうちに成熟していく、実際的な熱すら帯びる情動がここに発現している。喜二男は広岡をよく知らないから何も言ってやれないが、男のしばしば荒ぶる性に女がどう立ち向かうかは心得ているつもりだ。全員がそうというわけではないにせよ、広岡の内側にも類似の性質が備わっているだろうと推測して、それに対しての立ち振る舞いを指南した。とはいえ現に本人が語るような事態が起こっているなら、どうにかしてここで打ち止めにしてもらわないと後が怖かった。これからどういう方向に藤川が進むか、それ自体があまりに非現実というか、空想的であっても、ここに際してはどれも奇なる現実として映ってしまう。もはや現実の視点と映像とが複雑に折りたたまれてしまい綺麗に分離することは不可能だった。注文した串焼きは冷めきった。口に含んだときの、わずかに硬くなったような食感も、あるいは藤川の口から語り継がれる神話体系の一描写ではないか? ウィスキーの味は遠のき水が先行するハイボールで流し込んだ。あるいは人と異形の者の混血としての酒。


 遠いざわめき。


 藤川の話は早いうちに終わって、大体の時間は隣席の騒がしさが颪のごとくになだれ込んでいた。二人の沈黙をやんわりと打ち流してはいた。食事に集中して、どういう答えを導き出して言い放っても不適当であるような気のする現状を一旦は押しのけられる騒々しさが一帯に漂っている。しかしそんな間に合わせのつなぎも、喜二男が藤川を自宅のそばまで送ってやるときには、ざわめきがあまりにも遠く離れて役に立たなかったけれど。


 「よく考えたほうがいいよ。多分それ、よくないことだから」とだけ去り際に喜二男は言った。


 その夜は広岡の元には行かなかった。従来の彼との間に構築された、どちらかの家で何かつまみながら他愛ない話をする関係によって、つまり個人が友人の宅を訪ねることで、相手の部屋に入り、会話しつつもベランダに面した窓の施錠がおろそかであることを見抜き、夜中に侵入できると判断できたときに限っては、その夜、彼の元に非合法的に訪ねるのだけれど、そんな状況は本当に偶然にしか起こりえなかった。だいたい地階に住んでいる人間が、ベランダの窓の鍵を閉め忘れるなんてそうそうあり得ないと誰だって分かる。藤川がこの状況に遭遇し、実行できたのはまだただ二度だけである。この二度も、大学以来のあくまでも親友としての関係が育まれて手に入れた、自宅訪問の権利を行使し続けて久しい藤川がようやく発見した、広岡の偶たる不手際のもたらした奇跡でしかない。次に同じことが起こるのはいつかなんて、誰にも分かりえない。それに藤川は喜二男に咎められている。こうした窓からの訪問が、広岡の許可なしに行われた犯罪行為であることも了解している。けれど寛容な広岡なら、結局は自分を赦してくれるのだと甘んじて次の法外な訪問はいつできるかと想像している。そうして喜二男に、自分の広岡への愛がどれくらい成熟していて、また男にしばしば内在し、ときに顕示される荒ぶる性は、実のところ女も内包していると言ってやりたかった。喜二男のうちにある、ますらおとたおやめの対比を打ち破りたかった。ここに荒ぶる性を発する女がいて「お前は知らないだろう」と言い放ちながら喜二男を殴ってしまいたかった。そういう強い衝動はいつまでも胸に留められている。


 ところで、藤川の家と広岡の家とは徒歩で十五分くらいだけ離れていた。だからいつだって訪ねようと思えば、気軽に訪ねられた。もとは三つの地下鉄駅が二人を隔てていたけれど、藤川のほうから広岡の家のそばに引っ越した。家と言ってもアパートメントの一室で、間取りもそれほど広くはない。とはいえだからこそ、本棚の上にある一つのカメラで広岡の部屋を見回せたし、一つの盗聴器でだいたいの物音を聞くことができた。仕掛ける日のための丹念な練習の末に、藤川は視覚と聴覚においてのみ広岡の生活に介入できるようになった。向こうは察知しないにせよ、というよりはそうであるからこそ、藤川は広岡の生活の一部を盗んでしまえた。いつまで気づかないのだろう? もし本棚の上にたまった埃を取り払いたいと思って除けば、あっさり見つかってしまいそうな位置にカメラはあった。盗聴器はそうそう見つからないだろうけれど、木目調の、棚の装飾のごとく見えるそれは、注意深く観察すればカメラレンズまでも分かってしまうくらいの安物だった。藤川はそんなものしか買えないし、設置せず彼の暮らしぶりを夢想するくらいなら、いつか知られてしまったとしてもカメラを設置したかった。それで半年経った。広岡はこの半年のうちに一度もカメラの存在に気づかず、しかも友人の不法侵入を三度も食らっている。あるいは、それすらも知らず平生を過ごしている。


 広岡はその日、どういうわけか深夜に寝苦しくて目が覚めた。立春を過ぎたばかりのまだ凍える深夜で、その日は寝覚めると全身に汗をかいていた。身体は熱をため込んだままで、ベッドから出ても体の中心にある熱源が燃えるようだった。夜風に当たりたかった。死に絶えた空気に触れて、行き過ぎたくらいの生を抑えたかった。それではじめて、ベランダの窓の鍵を閉め忘れいると気づいた。不用心な、と苦笑した。誰かに部屋へ上がられても文句は言えない。たとえ何か盗まれても、と思いベランダに出て発見した。たばこの吸い殻と空き箱が、何かを表すように落ちていた。それはミステリー・サークルほどに難解さと不気味さを抱えている。わざわざ上から誰かが投げ入れたのか、あるいは藤川がここに来たときに、ベランダで吸ったきりか? しかしどちらも考えにくかった。捨てるならそこらの道端でいい。藤川がベランダに出ている姿は、それが小用の間に成されたごく短いものだったらともかく、見ていない。ここで自分の不注意を思い返した。そうだ自分は、だとすれば、本当に……ぞおっとした。財布を開いた。通帳を入れている棚を見返した。もしやと思って下着を入れている棚すら見た。しかしすべては通常のままだった。ただ吸い殻と空き箱ばかりが、意味を持っているようにそこにあった。


 朝はずっと冷えた。日は照っていたが地温はいつまでも上がらず、足から凍えた。空気は肌に刺さった。目も開けられなかった。甘い眠気が内々に残っているのを感じ、もう少し寝てもいたかった。しかしすでに予定より一時間も寝過ごしていては家を出て歩を進めるしかなかった。それにあのたばこが何だか深い意味をうちに折り込んでいるようで家にいるのも怖かった。一見するとゴミでしかないあれらが、この先、厄を呼び入れるのではないかとすら思った。この日は藤川に朝から会う用事があった。


 「そのスニーカーいいね」と挨拶より早く藤川に言った。でしょ、と藤川は足を擦り合わせている。後ろで緩く結んだ髪は、手を付けていないのか染まった髪と地毛とが混じっていた。すぐに終わる用事ではあったけれど、昼過ぎには別の用事で地下鉄駅を何駅も乗り継ぐ必要があったし、一度自宅に戻るのも気が引けたので藤川の家に入って紅茶を飲んだ。用事というのはビスケットだった。いったいビスケットごとにどれだけの違いがあるのか、広岡には分かりえなかったけれど、藤川に頼まれて買っておいたのだった。そのあたりでは広岡の出先にある百貨店でしか買えず、また藤川は開店時間内に行ける暇がなかなかなかったので、これ幸いと思って広岡を頼った。もちろん藤川は、他人の飼い猫を自宅に連れてきたごとくの百貨店の紙袋に入ったビスケットが広岡の部屋の机に鎮座しているのをカメラ越しに視認した。それにその紙袋を持って広岡が部屋を出る姿も確認した。彼がこれから自分の家に来るのだと藤川は胸を躍らせ、しばらく部屋に腰を落ち着かせたい旨を受けて湯を沸かし紅茶の準備をした。そうするうちに広岡が来て、玄関で挨拶より先に偶然足をかけた買ったばかりのスニーカーを褒めた。スニーカーは藤川の足よりずっと大きく見えた。


 「これってそんなにいいやつなの?」と広岡が口を開いた。


 「うん。大千でしか売ってないし、それにいまだけらしいから」


 少し間を置いて「食べよう」と藤川は言ってみた。「本当にいいの?」とばかり返された。


 「全然。どうせなら二人で食べたかったし。紅茶の茶請けにはちょうどいいでしょ」


 「ティーパックの紅茶の茶請け?」広岡は笑んだ。


 ティーパックの紅茶であっても味は上等だった。外袋の裏に書いてある「おいしい飲み方」にならって広岡は飲んでいた。藤川は何も考えずティーパックを湯の中で泳がせ、しだいに姿を変える湯を見た。ビスケットは卵とかバターとかの風味が立っていて、甘すぎない味わいが紅茶に合った。相性は悪くなかった。


 「目に隈がある」と藤川は広岡の顔を見た。いつもの時間に就寝する広岡を見てから藤川は眠った。深夜に目覚めることはないと話す彼の目元にあるそれはいやに目立った。「なんでもない」と広岡は言った。ごく真面目な顔を作っていた。「本当に、何もない?」と尋ねても「大丈夫」としか言わなかった。


 広岡は二つだけビスケットを食べて藤川の家を出た。ビスケットはまったく減っていなかった。昨日自分が寝た後でどうしても目覚めてしまうような何かがあったのだと藤川は思った。広岡の生活を今以上に見守らなければならない。彼が目覚めるのと同じころに起き、彼の所作を逐一観察して広岡が眠るのを見てからベッドに潜る生活では足りない。あるいは、深夜中、彼の寝姿を見なければならない。毎日でも広岡の部屋に行って、彼が眠っているのを横で見てやらねば彼の安寧はない! 「私がいるから」と呼びかけるように言った。今日の夜から、たとえ窓の鍵が開いていなくとも、ベランダにいて広岡を守らないと彼は安心して眠れないだろう、かわいそうに! そのときは、自分がいたことを知らせるためにも、また吸い殻なんかを落としていったほうが彼も安心するかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る