花 作・茶歩太
砂利を踏み続ける単調な音が、履き古した靴の裏で鳴っている。
午後十一時。既に辺りは夜の暗闇に沈み込み、月の光だけが川の水面を泳いでいる。
夜の散歩は、もう習慣になった。絵のテーマに行き詰まった時、何となく筆が進まなくなった時、修二は決まって家の近くの河川敷に足を運ぶ。夜の静かな空間の中でひっそりと息を潜めるこの見慣れた川だけが、いつも描くことに煮詰まった自分の感性を溶かしてくれる。
ただ、時折心の奥底に塞ぎ込んでいたものが、修二の頭に溢れ出てくる。
どれだけ見ないようにしようと、どれだけ考えないようにしようと、それはゆっくりと修二の思考の端から滲み出てくる。例え自分が決めたことだとしても、意を決して振り切ったものだとしても、それは反吐が出るほどにしがみついてくる。一日の中で唯一の癒しの時間に何を陰気臭くなっているんだと、修二は心の奥で密かに苦笑いを浮かべた。
ふと吹き抜けた春の夜風が、修二の頬を寂しそうに撫でる。これ以上悩んでいても仕方ない、今日はもう引き返そうと思った、その時だった。
砂利道から川に続く緩やかな芝生の斜面に、その女性は横たわっていた。
「大丈夫ですか!」
気付けば反射的に足が地面を蹴っていた。背筋に走った悪寒を振り切り、その力なく横たわった彼女のもとへ一心不乱に走る。
目に映っただけでも、その人が女性であろうことは分かる。暗がりではっきりとは見えないが、遠目から見てもかなりクラシックな服装だ。こんな切羽詰まった状況でどこかそう冷静に考えている自分がいることに、少し驚いた。
傍にあった大きな木の籠のようなものを押しのけ、彼女の肩を抱きかかえる。繊細なその身体のように、月明かりに照らされた少女の顔は修二の目に儚げに映る。
「すぐに救急車を……」
一瞬、息が止まる。抱きかかえたその彼女はまるで小さな氷が溶けるようにすっと目を開くと、徐に上体を起こした。
どこか外傷があるわけでもなく、衣服も全く乱れた様子が無い。まるで彼女は周りの何の干渉も受けず、ただずっとそこにいたかのようにも思える。それに……。
(綺麗だ……)
ようやく気付いたのだろう。薄闇の中でも映える丸みを帯びた白い帽子を被ったその少女が、ゆっくりとこちらを向いた。
「あなたは……」
「偶然そこを通りかかった者です。それより、怪我はありませんか。あなたがここで倒れているのを見つけて、急いで駆けてきたんです。すぐに病院に……」
しかし、彼女は言い終わらないうちに目を逸らしたかと思うと、そのまま目の前に流れる青黒い川を、しばらく見つめ続ける。不思議と言葉が出せないでいる自分の目には、彼女の目が何となく、哀しさを帯びているように見えた。
はっと我に返り、すぐに意識を立て直す。
「……とにかく、救急車を呼びましょう」
ポケットからスマホを取り出し、緊急用の電話画面を開く。
着信ボタンを押そうとした、その時だった。
「……それは、何ですの?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。……それは、何ですの……?
「何って、スマホ……携帯じゃないですか」
静かな川の流れが、耳の奥でじんわりと反芻する。スマホを持った修二の片手を見つめ続けていた彼女が、ゆっくりと、その小さな顔を上げた。
「……けいたいって、何ですの?」
目の前に、一人の少女が座っている。
部屋に女性など入れた事の無い自分の目には、何となく彼女がふんわりと朧気な存在のように映る。
「あの、お茶でも大丈夫ですか?」
先ほどから物珍しそうに部屋の中を見ていた少女が、ふいに微笑を浮かべてこちらを向いた。
「あ、どうぞお構いなく」
街中では、あまり見ない服装だ。全体が薄黄色っぽい上品なワンピーススタイルのプリーツスカートに、ボブカットほどに短く綺麗に切り揃えられた頭には、小さな白いリボンのついたクロッシェ。その細長い両腕には、オペラグローブだったか、二の腕まで伸びた吸い込まれるような白色の薄い長手袋をつけている。昔の女性を描く時に何度か資料で見たことはあったが、実際に見るのは初めてだ。居慣れたはずの自分の部屋が、どことなく落ち着かないように思えてくる。
「すみません、塗料の匂いで少し不快になるかもしれません」
「構いませんわ。むしろ、この匂いに浸っていると、何となく落ち着く気がします」
一旦口を閉じ、それから不思議そうにはにかみながら、彼女が小さく首を傾けた。
「それにしても、この時代の部屋は見たこともないものでいっぱいですわね」
麦茶を入れたコップを、彼女の前に差し出す。白っぽい化粧に真っ赤な口紅が浮かんだその小さな顔は、心なしか妖艶な雰囲気を醸し出す。ごめんあそばせと上品に微笑んだ彼女の瞳に、少し息が詰まった。
彼女は、記憶喪失ではなかった。道で転んで頭を打ったわけでも、ふいに意識を失って倒れたわけでもない。記憶もしっかりあるみたいだし、至って健康ですわと、彼女が諭すように笑顔を浮かべたのを覚えている。
彼女は、この時代の者ではなかった。
藤宮花。明治三十二年生まれの、齢二十二。自分が二十一歳だから、彼女は一つ年上ということになる。
河川敷でそう告げた彼女は、しばらく夜に染まった川の方をじっと見つめていた。まるで何かを残してきたかのような、今にも消え入りそうな目で、川の水面を眺めていた。
大正十一年。彼女は、その時代から来たと言う。ほぼ百年前の年の近い女性が、今目の前にいるのだ。未だに信じられず、無意識に空いていた口に気付いてはたと閉じる。
この時代の女性は、こうも肝が据わっているのだろうか。綺麗な正座で凛と佇んでいる彼女と対照的に、まだ脳が追い付かないでいる自分の動揺が、少し情けなくなった。
「春成、修二さんと申しましたか」
「はい、……年下ですので、修二で大丈夫です」
あまりに現実味の無い状況と年上の女性ということもあり、固かったのだろう。可笑しそうに目を細めて、彼女は柔らかく笑った。
「あまり気を張らなくて大丈夫ですのよ、わたくしのことも花とお呼びくださいな」
そう言うなり、彼女は繊細そうな両手でコップを掴み、ゆっくりと口をつける。
さすがに、自分の家に入れるのは躊躇した。当然だ。例え助けられた人だとしても、男、ましてやほぼ百年後の人間だ。怖がらないでいる方が無理な話だ。
しかし、誰に頼めるだろうか。警察? 家族? 友達? 大正時代から来た女の子を保護して下さいと言って、どこの誰が信じる? このまま時代から外れた一人の女性を放っておくことなど、曲がりなりにも二十一年間生きてきた自分にできるはずもない。最後は、あなたの家に泊めてもらえないかしらと申し出られたこともあり、心を折った。
ひとしきり、彼女は部屋の中を物珍しそうに見渡す。多分、異世界にでもいる気持ちだろう。テレビ、パソコン、デジタル時計、電子レンジ、CDラック、バイク用のヘルメット……。例え自分が大正時代に行ったとしても、おそらくこんな反応になる。
ふと、彼女が部屋の中に場違いなほど不自然に鎮座しているものに目を止める。そう言えば、さっきまで描いていたままだった。……片しとくんだったな。
「あなたは、絵を描かれるのですか?」
無意識に、キャンバスから目を逸らす。長い間書き溜めて積み重なった画用紙の束に目を遣りながら、小さく溜息をついた。
「ええ、人物画を少し」
修二の目線の先にある紙の束に目を移し、彼女がふいに呟く。
「少し、拝見させて頂いてもよろしいですか?」
それから彼女は黙りこくり、熱心に紙の束をめくり始める。久しぶりに自分の絵を人に見せたこともあり、その真剣な目で絵を見つめる彼女の透き通るような横顔に、少し気恥ずかしくなる。
しばらくじっと見つめていた彼女がふと、穏やかに微笑んでこちらを向いた。
「どの人物画も、素敵な絵ですわね」
心臓の奥が、少しだけ熱くなる。
昔から、絵を描くことが好きだ。
幼稚園の頃、母に買ってもらった画用紙に初めてクレヨンを走らせたのが、絵の世界と出会ったきっかけだった。それから毎日飽きることなく、街で出会った人や想像上の人物、本に出てきた人々を、その無限に広がる紙の中に表現し続けた。
テーマになる女性像と色々な服装を頭の中で組み合わせては、頭の中で繋いだ線の輪郭を、真っ白な紙の上に落とし込む。形を持ったその偶像に、様々な絵の具を混ぜ合わせては色を与えていく。筆が紙を撫でる感触、思考が形となって表れる快感、濃淡とグラデーションを思い思いに掛け合わせていくことの愉悦。その悦びは、初めてまっさらで広大な世界が広がった画用紙に自分の世界を写したあの頃の感動と、何も変わらない。ここまで自分を魅惑的に引きずり込み、その広大な海にどっぷりと浸かしきったものは、絵だけだ。絵がこの世から無くなってしまうとするならば、多分、自らの命を賭したとしても惜しくない。
それでも、周囲の人からは理解されなかった。
描く対象が、女性ばかりだからという理由もあるかもしれない。学校でも、暇を見つけては教室の隅で画用紙に女性の絵を描いていたような子だ。小学生の頃は周りからいじめられ、中学生になってからはもう、声をかけられることすらなくなった。やれスポーツだやれ遊びだ。嬉々として一人の世界に没頭する存在は、周りと戯れたい年頃の人たちにとっては、奇異に映ったのだろう。高校生になってからはさすがに分別がつくのか、それなりに友人もできた。それでも、唯一の身近な存在だった家族にまで、煙たがられた。
他でも無い、父親だ。
いつもは大学で研究に没頭している、珍しく休日に家に帰ってきた父に、当時中学生だっ
た自分の描いていた絵が見つかったことがある。
一瞬だった。
全てが詰まったその一枚の紙は、目の前で見るも無残に破られた。
教授になるくらいなのだから、他人の価値観を理解できて当たり前なのだろうと、楽観的
に考えていた自分がばかだった。
典型的な、亭主関白だ。男がこんな女々しい絵を描いているとは何事だ! 子どもは勉学に励んで、外で身体を汚しながら走り回るもんだ! 将来俺のような教授になれるよう育ててきたつもりだったが、こんなみみっちい男になったとはな! 恥を知れ!
母とまだ小さかった妹だけが、呆然と佇む自分を哀しそうに見つめていた。絵こそが自分の世界だったあの時、心の中で何かが崩れ去ったのを、今でも覚えている。
父が自分を学問の世界に連れ出したかったのは、十分理解している。特に、この家系に生まれた男はこれまで皆大学の教授、専門家など学問に身を捧げることが代々受け継がれてきた春成家の大切な系譜であることも、嫌になるほど分かっているつもりだ。ここらでは有名な話なので、近所の人たちからは顔を合わせる度に、あんた春成さんとこの息子か、これは将来が楽しみだなと、吐きたくなるほど期待の声を聞かされ続けてきた。聞きたくなくても、その偉大さの評判と重圧は、耳が痛くなるほど体に染み込んでいる。
かつて父は、小さい頃からお前はこれから立派な人間になるんだと、その大きな手で頭を撫でてくれた。だから、あれから、俺は絵を捨てた。
でも、捨てきれなかった。父に見つからないよう、学校だけで描くようにした。進学校の過密なスケジュールと塾の合間を縫っては、情けなくとも細々と描き続けた。こっそりと、最近家で描かないのねと心配そうに声を掛けてくれた母と妹だけが、唯一の理解者だった。
しかし、それも無駄だった。高校三年の時、自室の引き出しの奥に保管していた絵の束が、父に見つかったのだ。
なぜばれたのかは覚えていない。信じられないくらいの怒声を浴び、俺は殴られた。思い通りの道に進もうとしない、定められた境遇を受け入れようとしない出来損ないの息子を、怒りのままに殴りつけた。
それだけなら、まだ良かった。まだ高校生だ。自分の将来くらい、自分で決めたい。理不尽な要望を押し付けてくる父の存在が、今は大きく見えるだけだ。それに、唯一同情してくれる母と妹もいる。尻が青いと言われようが何だろうが、言わせておけばいい。一生父の示す道を歩き続けるなど、御免だ。
しかし、その直後に母から聞こえてきた小さな呟きに、俺は色を失った。
「あなたももう良い年頃なんだから、そろそろやるべきことをわきまえなさい」
もう、どうでもよくなった。
子どもだと言われようが関係ない。高校卒業を機に、春成家の恥さらしが! どこへでも行け! とまくし立てる父の大声を背中に浴びながら、俺は引き留める母と妹の手を振り切り、家を出た。大学なんてどこでもいい。絵さえ描ければ、生きている実感が得られるのだから。
縛られるのは、もう、うんざりだ。
ふと、熱心に画用紙を見つめ続ける彼女の横顔に目が行く。仄白い化粧に澄んだその肌が、どことなくこの世のものでないように思える。
これ以上目の前で自分の描いた絵を見続けられるのは耐えられそうになく、修二はそのまま徐に立ち上がった。
「あの、僕は先に寝てますので。何かあったら起こしてくださいね」
シャワーやトイレの使い方は、先程一通り教えた。着替えや身支度用の道具は、河川敷で見たあの大きな木の籠の中に一通り入っているらしい。後で調べたことだが、今では大正バスケットと言うみたいだ。どこか旅行にでも行くつもりだったのだろうかと、何となく思う。
「ええ、おやすみなさい」
無造作に敷いた布団の上に横になる。来客用の布団を離して置いてあるので、彼女も直に寝るだろう。
目を瞑った自分の耳に、彼女の静かな吐息と一枚一枚の紙がめくれる音が響く。
熱心に自分の描いた絵を見つめていたその澄んだ目が、眠りに落ちるその時まで、頭から離れなかった。
二
「コオヒイと、それから紅茶をお願いしますわ」
日中、絵のアイデアに行き詰まった時によく立ち寄る、行きつけの喫茶店。この時代の街を見てみたいという彼女の要望で午前中は都心の建物を散策し、昼食がてらここに寄った。
よほど珍しかったのだろう、馴染みの店長が見知らぬ女性を連れている自分を見るなり、信じられないくらい大きく口を開けた。別に間違ってはいないけど、それほど女性に縁の無い男だと思われていたとは心外だ。席に促される途中、彼女に気づかれないようにニヤリとした店長を見遣り、そっぽを向いた。
午前中の彼女の高揚は、まるで雪が降ってきた時の小さな少女のようだった。様々に林立するビル群、コンクリートで固められたマンション、近代的な車や電車、空を突き刺さんばかりのタワーに目まぐるしいほど立ち並ぶ娯楽施設の数々。どの目新しいものを見ては、彼女の目は好奇心と興奮の光に溢れていた。ヒールが歩きにくそうだったので靴屋に行くのを提案したが、彼女はヒールのままがいいらしい。「まだ見ぬ未来の時代をかつての時代の足で歩くなんて、粋じゃありません?」といたずらっ子のように微笑んだその表情は、本当に楽しそうだった。
「それにしても、この時代の料理の美味なこと。あちらの時代ではこんなに美味しいもの、食べたことがありませんわ」
物珍しそうに彼女を見る若い店員からごめんあそばせと、彼女が食後の紅茶を受け取る。自分もコーヒーを受け取り、まだ湯気を立てている白いカップにゆっくりと口をつけた。
やはり、彼女の服装は目立つらしい。白いクロッシェに真っ白なワンピーススタイルのプリーツスカートと昨日とさほど外観は変わらないが、いつ見ても上品なクラシックさだ。街中を歩いていても、通りすがりの若い男女や家族連れの人たちが、こぞって奇異の目を向ける。多分、コスプレか何かだと思っているのだろう。
一度三人組の低能そうな男たちにナンパされた時、彼女は「……三越ね」と白けたように呟き、静かに通り過ぎた。後でその言葉の意味を聞いてみたが、あまり人に使う言葉ではありませんわと流された。おそらく皮肉を言ったんだろうが、不思議と嫌味の無い彼女の振る舞いが可笑しくなって、少し笑った。
店内のゆったりとした音楽が、二人のテーブルを柔らかく包み込む。飲み終わった紅茶をことりと置いてから、ふいに彼女が修二の目を見た。
「わたくし、よく美術館に行っていましたの」
絵が好きなのだろうか。自分の書き溜めた女性の絵を見ていた時の彼女の横顔を、ふと思い出す。
「絵画、よく見るんですか?」
「ええ。日本人の作品はもちろんですが、わたくしは殊に、外国の絵画が好きですの。エドヴァルド・ムンクの『思春期』には、自身の思春期の頃の混沌とした心が抉り出されるようで惹かれますし、オディロン・ルドンの描く独特の作風は時折不気味で震えてしまうほどですが、彼の描く草花は幻想的で何かを訴えているようにも見えて、つい見入ってしまいます。」
彼女が、一息つく。
「中でも、わたくしはエゴン・シーレの描く、心の奥底で何かを抱えているような、厭世的で幽遠な女性が好きですの」
修二の背中の髄に、痺れるような感覚が走った。
「エゴン・シーレ、花さんも好きなんですか。僕も、彼の描くどこか悲観的で憂鬱な作風に、心が惹かれます。彼は、僕を絵の世界に引きずり込んだ、良い意味で罪深い画家です」
「あら、わたくしたち、もしかしたら気が合うかもしれませんわね」
「まさか、同じ画家が好きだとは思いませんでしたよ」
ひとしきり二人で小さく笑い合い、お互いの好きな絵画について語り合った。自分の価値観を理解してくれる存在と好きなことについて語り合える大切な存在の両方を得られた気がして、修二は胸の奥に何か甘く温かいものが流れ込んできた気がした。
話が一段落付き、修二は残りのコーヒーをすっと飲み干す。
何気ない自然な感じで、彼女が口を開いた。
「修二さんは、画家を目指されているのですか?」
……少しだけ、胸の奥がもやりと疼く。
それは、何度も自分の中で繰り返してきた自問でもある。別の世界から来た目の前の彼女に、修二は自嘲気味に笑いかけた。
「ええ、できるならあの大好きな人物画を、一生極めてみたいと思っています。僕の、唯一の生きる意味でもありますから。僕たちにとってのエゴン・シーレのように、自分の描いた絵で見た人の心が動されたり豊かになったりすれば、どんなにいいだろうと思います。ですが……」
躊躇ったが、その凛とした彼女の真剣な目に抗えなかった。家系と父親に縛られ続けてきたこと、周りから理解されず、時には嘲笑や蔑みを受けたこと、全てを放り出して、逃げるように家を飛び出したこと。そして、このまま画家を目指し続けることと脈々と受け継がれてきた春成家の伝統を引きちぎった罪悪感との間で揺れ動く、葛藤。ありのままに、修二は心の中で絡まり合った心情を吐露し続けた。
正直、甘えている。仮にも成人を迎えた一人の大人だ。公私の分別など、大人にとっては常識だ。
本音と建前で、この世界はできている。その世界に生きるほとんどの人々が、各々の内に抱く本音を上手い具合に隠しながら、建前という虚構の世界に自己の歯車を押し込めているのだ。その理に見て見ぬふりをする甘ったれた自分こそ、紛れもないただの子どもだ。きっと、目の前の彼女もそう思うだろう。河川敷で出会った時から感じるその凛とした芯の強さが、少しだけ羨ましくなる。
どれくらい経っただろうか。昼食時もピークを過ぎ、他のテーブルには数人ほどの客がまばらにくつろいでいる。
それっきり黙りこくる修二の前で、真剣な目を浮かべていた彼女が、ゆっくりと腰を上げた。
「シネマ、見に行きません?」
三
久しぶりに、映画を見た。映画など、小学生の頃に母親と妹の三人で見に行ったきりなのだから、かれこれ十年ぶりだ。今の時代の映画が彼女に合うだろうかと心配だったが、それも杞憂だった。初めは恍惚と、そして真剣にスクリーンを見つめ続ける彼女の横顔に、内心少しほっとした。
「どの時代も、恋愛の形は変わらないものですわね」
既に辺りを茜色に染めている夕日の中、都心のコンクリートで固められた道の上を歩きながら、彼女がぽつりと呟く。
よくある、有り体に言えば一種の純愛ものだ。田舎出の青年と、都会で育った少女。ふとした時に知り合い、それから何となく一緒に時を過ごす。それぞれの育った境遇の違いは、二人に新鮮さと好奇心を与え、やがて二人の距離は縮まっていく。しかし無情にも、二人の間には青年の許婚の存在と、少女の海外への夢が立ちはだかる。最後は二人の間に確かに存在した刹那の愛を確かめ合い、別れを告げる。
出会いと、別れ。この図式ほど、恋愛という一つの営みを端的に表せるものはないだろう。二人の境遇の正反対さが今の自分たちの事を言っているようで、途中少しだけ気恥ずかしくなった。
「花さんの時代も、こういった物語が多いのですか?」
「大方、そのようなものですわ。いつの時代も、本質は同じなのですね。どんな形だろうと、最後には必ず別れがやってくる。……きっと、それが恋愛の面白い所でもあり、決して逃れることのできない、因果なのでしょうけれど」
そう言って、彼女はしばらく口を閉ざす。心なしか、少し歩幅が小さくなった気がする。
おそらく、嫌なことを思い出した自分を元気づけるためにも、映画に誘ってくれたのだろう。彼女と一緒にいれるのなら正直どこでも良かったが、その場限りで当たり障りのないアドバイスなんかよりも、気分を変えられるような提案をしてくれた気遣いが、少しだけ嬉しい。
出会いと、別れ。それは、どの人間にも等しくやってくる、定められた因果。どれだけ愛そうが、どれだけ友情を育もうが、行きつく先は一つしか無い。
もちろん、生きていれば再びどこかで逢えるかもしれない。少なくとも、時と感情の変遷によって細長く擦れていくその糸が途切れない限りは。だが、一つだけその糸が完全に断たれることがあるとすれば、その逢瀬は永遠に叶うことはない。
紛れもない、死だ。
自分の友達や想い人が亡くなった経験は、自分にはまだない。いずれその時が来るのだろうかと時折ふと考えることもあるが、それも考えるだけ無駄だ。小説や映画で表現される大切な友人や恋人との別れを見ても、自分にとってはいつも別世界のように、非現実的に映る。
もし、今すぐに隣にいる彼女がぽつりと姿を消したらどうなるのだろうかとふと頭をよぎったが、それもすぐにかき消した。できるなら、もう少しだけこの奇妙な関係に浸っていたい。
それでも、一人だけ大切な人を失ったことがある。唯一、たった一人だけ、自分が父の鎖に抗っていることを知っていながらも、亡くなるその直前まで自分の絵とそれへの想いを肯定し続けてくれた。
感謝してもしきれない、大切なおばあちゃんだった。
母方のおばあちゃんであることと、相変わらずの多忙な父ということもあり、遊びに行く時はいつも母と妹の三人だった。小さい頃から、画用紙いっぱいに広がる世界に目を輝かせる自分を、温かい目で見守ってくれた。最後は、泣きじゃくる自分を薄く開いた目で見やりながら、「あなたにとって、一番大切なものは何かを考えなさい」と言い残し、息を引き取った。人生で、一番泣いた日だった。
絵を描く自分の隣に寄り添い続けてくれた大切な存在は、もういない。父の示した、春成家の一族が築いてきた重苦しいほど窮屈な道に進まなくとも、自分が一番価値を感じる絵という世界に突き進むことを肯定し続けてくれたおばあちゃんには、もう二度と会うことは無い。
これからは一人で、立ち続けなければならない。
さすがに一日中見ていれば慣れてきたのだろう。林立するビル群に目もくれないまま、彼女は淡々とヒールの音を鳴らしている。
また辛い思い出でもやもやとするのは彼女に悪い気がしたので、無理矢理笑顔を作った。
「花さんは、さっきのような映画はよく見るんですか?」
ひたと、彼女が足を止める。音を鳴らすのを止めたヒールの踵が、行き場を無くして戸惑っているように思えた。
「……ええ、以前は、先ほどのような心躍る物語を求めて、街のシネマを歩き渡っていましたわ」
眩しそうにその繊細で小さな手をかざしながら、彼女が夕日の方を見上げる。夕日に照らされるその姿が、少しだけ神々しくさえ見えてくる。
「シネマは、わたくしたち女学生にとって憧れでもあり、自分を創るための手段でもありましたの」
小さな風が、彼女のクロッシェに添えられた白のリボンを揺らす。夕日に仄赤く染まるその白いリボンが、まるで何にでもなれる人間としての自由を表しているように映る。
「シネマだけではありません。このような服装や化粧、音楽やウイスキイ、それにあなたが描くような、芸術も。わたくしを含めて、都会の女性たちはみな近代的な、それでいて魅惑的な多くの文化に心惹かれたのです。多くの男性や家族には、冷ややかな嫌悪の目で見られていましたけれど」
自分も、不思議に思っていた。昔の、それも昭和以前の日本の女性にこんな斬新な姿をしていたイメージなど、あまりない。着物を着て、慎ましく、家で裁縫をしながらおしとやかに過ごす。それはステレオタイプな女性像だと頭では分かっているが、如何せんそのような情景しか思い浮かばない。最初に大正時代から来たと言われた時、すぐにはとても信じられなかった。
「……モダンガール」
彼女が、ぽつりと呟く。
「わたくしたち近代女学生にとって憧れの言葉であり、侮蔑の言葉でもある。モダンボーイであるモボに、モダンガールの、モガ。街行く人々は、そう言ってわたくしたちを冷たく指していたのです」
「……あまり、良く思われていなかったんですね」
再び、彼女がゆっくりと歩き出す。
「父親には、特にです。女は家で静かに家事をしてるもんだ、着物を着て、縫物でもしながら嫁入り修行をしてるのが女にとって一番の仕事だ、って。本当に、笑えますわ」
修二のスニーカーの底が、すりすりと音を立てて地面のコンクリートを撫で続ける。
「恋愛なんて以ての外だ、慎ましく許婚の男にもらってもらうのを待っているのが女のあるべき姿だ、と。わたくしの家庭は中流階級の古風なお家柄でしたので、伝統を重んじる父親の頭も、叩き割れない岩窟のように固かったのです」
……そうか。
……彼女には、許婚の存在がいたのか。
いや、むしろ当然と言えば当然なのだろう。許婚や見合い。今でこそほとんど耳にしないが、昔の日本ではそれこそが当たり前の社会常識だったはずだ。ましてや古風の家柄だったのなら、尚更のこと。
「……花さんは、その許婚を受け入れたのですか?」
一瞬間をおいて、彼女は修二を向くなり、無邪気に微笑んだ。
「もちろん、毛頭従う気などありませんでしたわ」
二人で少しだけ、笑い合った。
親の意思からの逆行。それは、いつの時代でも変わらないのかもしれない。
自分が育ってきた価値観を子に押し付け、まるで操り人形のようにその生末を縛る。自分には理解できない逸脱したものを、その理解できない範疇の中で勝手に押し込める。それは周囲の人たちにとっても同じことだ。価値観の合わない者は、その理解のできなさ故に侮蔑、嘲弄の対象となる。その鎖から解き放たれるためには、その縛られた腕を断ち切るくらいの覚悟が無ければならない。きっと彼女も、色々なものを犠牲にしたことだろう。
「何だか、似てますわね、わたくしたち」
そろそろ夕日も沈み始め、次第に二人の影もコンクリートの地面に薄く溶け始めている。
……もう少しだけ、一緒にいたいなと思った。
「狭い、縛られた価値観から抜け出そうとするわたくしたちは、きっとモダンなのです」
艶やかに白く映えるクロッシェを片手で抑えながら、彼女がそう、静かに微笑んだ。
四
せっかくならと、夕飯を済ませた帰り道に見つけた、小さなバーに寄った。
初めてくる所だが、ジャズの流れるゆったりとした雰囲気が非日常感を演出してくれて、何とも心地いい。一人じゃ絶対に来ないだろうが、彼女にはこういう場所が似合うなと、改めて思った。
「こちらの時代のバアは、とても綺麗ですのね」
受け取ったロックのウイスキーをテーブルに置いて、彼女が困ったように苦笑いを浮かべる。
「あちらの時代のバアはどこも埃と灰だらけで、叶いませんわ」
「僕としては、そちらのバーも心が惹かれますけどね」
「あら、でしたら今度、わたくしが大正時代をご案内して差し上げますわ」
「はは、御冗談を」
グラスに入ったジントニックを、ゆっくりと口に含む。清涼なレモンと度数の効いたアルコールが、喉の奥にじんわりと響く。女性と一対一でお酒を飲むなど、成人しておいてなんだが初めてだ。上品にウイスキーを嗜む彼女の姿に、少し胸の奥が熱くなる。
二人でしばらくアルコールの気持ち良さに浸っていると、ふいに、彼女がしっとりとした声で、呟いた。
「自分の選んだ道に、後悔しているのですか?」
まだ半分ほど残っているジントニックの氷が、カランと音を立てる。ふんわりと聞き流していたジャズの音楽が、急に鮮明に耳の周りを支配した気がした。
「……正直、自分でも分かりません」
グラスに口をつけながら、彼女が静かにこちらを見ている。その凛とした目は、まるで自分の心の内を見透かしているようにさえ思える。
「このまま本気で絵を描き続けていきたいのか、自分が進んだこの道は、本当に正しかったのだろうか。絵を描いていても、たまにふと頭をよぎります」
ただじっと、彼女はその艶やかな瞳で修二を見つめ続ける。
「家を飛び出した手前、覚悟の無い甘ったれた考えだとは百も承知です。それでも、何度自分の選択を信じようとしても、その煩悶が自分の全てを包み込むんです。自分が本気でやりたいことは何か、自分にとって本当に大切なものは何か。それは、家族を突き放してまで縋るだけの価値があったのだろうか、と。いつもの、答えの無い禅問答です」
昨夜会ったばかりの、それも別時代からきた目の前の彼女に、俺は何を話しているんだろう。修二は自分の甲斐性の無さに嫌気がさし、ぐいと掴んだグラスを一気に傾けた。
「……一年前、唯一自分の絵に寄り添い続けてくれた祖母が、亡くなりました」
ジャズの落ち着いた音色は、もう耳に入ってこない。目の前にある空のグラスが、自分の心の空っぽさを静かに突き付けてくるように思える。
「亡くなるその時まで、祖母は自分の絵を肯定し続けてくれました。家系のレールに乗らなくていいとも、画家になりなさいとも言うわけでなく、ただ、優しい目で、ずっと見つめ続けてくれました」
見ると、彼女のグラスも空いている。お酒に強いんだなと、何気なく思った。
「誰かが背中を支えてくれることの有難さが、今になって分かります」
しばらく、二人ともなく口を閉ざす。少し酔いも回り始め、頭の奥がふわふわしてきたなと何となく感じていると、ふいに凛とした姿勢で佇んでいた彼女が、上品に微笑んだ。
「シガレット、吸ってもよろしくて?」
意外だ。シガレットと言えば、煙草だろう。モダンガールは煙草も嗜むのかと、彼女の時代の女性が何となくシックに思えてくる。
「ええ、僕も喫煙者ですので、構いません」
絵に煮詰まった時、自分の将来を案じる時、時々煙草に身を委ねる。周りに喫煙者はそうそういないので、こんな風に酒を飲みながら二人で一服できるこの時間が、少しだけ嬉しい。
さり気なく、彼女が服のポケットから紙が擦れる様な音を立てながら小さな紙箱を取り出す。
……初めて見る銘柄だ。昔の煙草は初めて見るが、ケースのデザインに日本の情景を感じる。名前は……。
「……朝日」
じっと見つめていたからだろう。修二の視線に気づいた彼女が、煙草を取り出しながら柔らかく微笑んだ。
「少々お高いのですが、わたくしはこのデザインが好きですの。近代的なものに憧れはするものの、やはり日本の和を取り入れたこの箱を見るたび、何となく落ち着くのです」
さり気なく火をつけ、上品に煙を吐き出す。その透き通るように艶やかな仕草が官能的とさえ思えて、つと目を逸らす。自分も愛用の赤マルを取り出して火をつけると、ふいに、彼女が目を閉じて呟いた。
「敷島の、大和心を人問わば」
ゆらりと空を舞う彼女の煙が、名残惜しそうに消えていく。
「朝日に匂ふ、山桜花」
ゆっくりと目を開いた彼女が、小さく微笑んだ。
「わたくしは、この歌が好きですの」
どこを見るでもなく、彼女の顔には遠い目が浮かんでいる。大正時代の事を思い出しているのだろうかと、何となく思った。
「日本人の心はどのような心かと問われた時、かの有名な本居宣長は、こう答えたそうです。煌々と照らされる朝日のもとで、気品高く、それでいて純粋で優雅な花びらと艶やかな香りをなびかせる、あの山桜花のようなものです、と。日本人の愛国心を謳った、素敵な歌です」
吸い込んだ煙を、静かに吐き出す。何となく、いつもと違う味がする気がした。
「わたくしはこの歌の、山桜花が好きですの」
河川敷でよく桜の木は見るが、山桜花は直接見たことはない。朝日に照らされて輝く花々の情景が、ぼんやりと頭に浮かぶ。
「もちろん、咲いた花びらも美しいですわ。ですが、わたくしはその多様な咲き方に、心惹かれるのです。開花時期や色の濃淡の違いだけでなく、新芽から広がり始める若い葉には、褐色や赤紫色、緑色に黄緑色まで。その多種多様な彩に、わたくしはモダンガールとしての在り方を、重ね合わせますの」
煙草を持った繊細な手が、彼女の小さな口元に重なる。煙草の先で赤く光るその火が、まるで彼女の芯の通った心を表しているようにも見える。
「わたくしは、自分で自分を創ることに、価値を置いています。決められた、世間の風潮や伝統などに縛られるのは、快く思いません。女性だって、お化粧したり、華美な服装を着てみたり、外で優雅に娯楽を嗜んだり、夜のバアでシガレットを吸いながら、お酒を嗜んだりしたいですもの。もちろん、恋愛も……」
ゆっくりと煙を吐き出した彼女の目が、少しだけ陰った気がした。
「母は、それでもわたくしを温かく見守ってくれました。何度も父に叱られ、時には手を上げられた時でも、母だけは後で、優しく抱きしめてくれました。あなたはあなたの生き方を大切にしなさい、お母さんはあなたの味方だからねと、その淑やかな手で頭を撫でてくれました。母には、申し訳なさと感謝の念で胸がいっぱいです」
彼女は、ただ憧れに身を委ねてモダンな振る舞いをしているわけではない気がする。新しい女性観、古臭い伝統や価値観に縛られない自由な女性らしさを体現し、その自分の在り方の根底を確かめるためにも、モダンを追っているのかもしれない。
気品に溢れるその高潔な彼女の姿勢が、そう告げている。
「女性の纏う色は、女性自身が決めるべきものです」
彼女の煙草から、最後の灰が落ちる。
「朝日に照らされて光り輝く、あの玲瓏な山桜花のように」
……彼女は、自分とは違う。
少なくとも、縛られた鎖にがんじがらめにされ、振り切って尚もうじうじとしながら日々悶々とし続ける自分とは、全く違う。世間の冷ややかな目にさらされようが、実の父親から手を上げられようが、彼女は、自分を貫くことを選んだのだ。
そんな自分の芯を通すまだ若い彼女の目の前に、自分がいる資格なんて、ないのかもしれない。
「……花さんは、素敵だと思います」
彼女の手に持っていた煙草の火が、ぽつりと消える。もっと早く彼女と出会えていれば良かったと、何気なく思った。
「あちらの時代では何と言われようが、花さんの振る舞いとその姿は、僕の目には上品で、鮮麗で、美しく映ります。花さんは、素敵です」
修二は小さく、自嘲気味に笑った。
「……自分の選んだ道に悩み続ける、僕なんかと違って」
灰だらけの無骨な灰皿に、彼女の煙草が落とされる。
修二の最後の一吐きから出た煙が、行き場を失ったように、天井に吸い込まれていった。
五
砂利を踏みしめる二人の足音が、静かな河川敷に淡々と響き渡る。
彼女とここで出会って、ちょうど一日。何日も一緒にいたわけではないのに、不思議と彼女とはまるでずっと昔から知り合っていたように思える。そう感じるほどに、隣で歩く彼女の存在が、何となく落ち着く。
春の夜風が、少しだけ冷たい。夜の闇に染まる目の前の川を見やりながら、二人で何となく、斜面の芝生に腰を下ろした。
「昨日、わたくしたちはここで出会ったのですね」
彼女の目は、眼下に広がる青黒い川の方を向いている。その可憐な瞳に、隣にぼうっと座っていると吸い込まれてしまいそうで、つと目を逸らした。
「ええ、まさか大正時代の人だとは思いもしませんでしたけど」
「ふふ、わたくしにも自分がなぜこんな時代にいるのか、さっぱり分かりませんわ」
一際強い夜風が、暗がりに広がる芝生を揺らす。彼女がそっと、小さな頭に被せた白いクロッシェを抑えた。
「……わたくしも、家を飛び出したのです」
つと、隣に座る彼女を見る。多分、大正時代のことを見ているのだろう。正面を見据えるその目にはおそらく、目の前を静かに流れる川は、映っていない。
「わたくしは、ある一人の男性を愛しておりました。年の離れた無骨な人でしたが、わたくしはその方を、人生をかけて愛しておりました」
暗い視界に、白く施された彼女の化粧が、儚く映る。今目線を外せば、彼女がふいにいなくなってしまうのではなかろうかと、自分の鼓動が早まった。
「何に関してもずぼらで、着る洋服にも無頓着で、その上幾ばくか考えすぎてしまう癖のある、内向的な方でしたわ。それでも、いつも穏やかに微笑みかけてくれて、その知的な話でいつもわたくしを陶酔させてくれて、時に無邪気な笑顔を見せるあの人に、わたくしは、心底惚れたのです。その方はわたくしの通っている大学の、若い教授でしたの」
遠くでぼんやりと照っていた電灯の一つが、ふいに消えた。その場所だけ、この河川敷からひっそりと取り残されているように見える。
「お付き合い、されていたんですか?」
小さく微笑みながら、彼女がこちらを向いた。
「ええ、ずっと。わたくしが大学一年生の頃から、ずっと」
少し、夜風が冷たくなる。羽織っていた薄い上着を彼女の肩にかけると、ありがとうと、彼女は柔らかく目を細めた。
「もちろん、父には反対されました。今すぐに別れろ、どこの誰とも分からん馬の骨なぞうちの娘に近づけられるか、即刻縁を切れと、散々に言われましたわ。わたくしこそ、どこの誰とも分からない許婚などという人と一緒になるなど、甚だ御免ですのに」
だから、家を出ましたのと、彼女は地べたの芝生を優しく撫でた。夜風にさらされる芝生が、喜んでいるように揺れた。
「行く当てもありませんでしたので、わたくしは彼の家に厄介になりました。母とは何度か連絡を交わし、戻ってきなさいと諭されもしましたが断りました。もう縛られるのはうんざりですし、鋳型にはめ込まれ続けるのも願い下げです。駆け落ちする覚悟で、二人で肩を寄せ合い続けました。一生、添い遂げる覚悟で……」
彼女が、月を映す夜の川を、静かに眺めている。
一つの滴が、彼女の儚い横顔からぽつりと、修二の視界を落ちていった。
「……彼は、心臓の病で、亡くなりました」
月の光で仄白く照らされた水面が、ぼんやりと揺れる。水面の下に広がる真っ黒な世界が、二人を飲み込まんばかりに、ひっそりとこちらを覗き込んでいる。
「何も、わたくしに仰って下さいませんでした。ただ淡々と、その武骨な手で自身の胸を抑えながら、孤独に自室で息を引き取りました」
小さく、彼女が溜息をつく。
その心情は、察するに余りある。大切な存在がいなくなることの悲しみと苦しみは、修二にも痛いほど分かるつもりだ。
しかし、彼女は一生を誓った恋人を失ったのだ。たかが一他人である自分がその気持ちに同情するなど、筋違いにも程がある。
何も、言葉を発することができなかった。
「ただ何も考えることなく、わたくしは彼の遺品を整理し続けました。その時、生前絶対に開けるなと釘を刺されていた彼の引き出しから、見たことも無いような大量の薬が出てきました。行儀の悪い事でしたが、悔しさと絶望のままに握り潰しましたわ。今思い出すと、本当に、笑えますわね」
露ほども、笑えない。
「それから、そのまま無心で引き出しを整理していると、一枚の紙が出てきましたの。……彼の、最後の手記ですわ」
多分、今でも持っているのだろう。彼女が煙草を取り出した時の音を、何となく思い出す。
「彼は、こう書いておられました。もしこれが君の目に入った時は、多分、僕はこの世にいないと思う。僕は、君の事を愛していた。一生、添い遂げるという言葉では足りないくらい、愛していた。だから、もし僕がそれを叶えられなかったのなら、君は別の所で、幸せになって欲しい。僕の事は考えなくていい、君は君の好きなように、僕を忘れて生きてくれと。あれほど一人で泣きじゃくった日など、他にありませんわ」
自嘲気味に、彼女が笑う。笑う気になど、なれなかった。
「当てもなく、ふらふらと歩きました。自分の人生の全てが、彼の存在だと言っても嘘ではありませんでした。わたくしが家を飛び出してまで自分を貫いた結果が、これだったのです。一人残された自分に生きる価値など、露ほども残っているとは思えません」
その先は、聞かずとも胸の奥を締め付けた。エゴン・シーレの描く残酷なほど陰鬱な女性の絵が、彼女の面影に重なる。彼女が川の縁に立ちすくむ情景が、ぼんやりと脳裏に浮かんだ。
「後悔はしておりませんわ。わたくしは、自分にとって一番価値のある選択をしたと、今でも思っています。……例えそれが、世間的に許されないことだとしても」
しばらく、二人とも口を閉ざす。虫の鳴き声一つ聞こえてこないほどの静寂が、悲壮感を滲ませてあたりを他人事のように包み込んでいる。
再び肌寒いくらいの夜風が頬を撫でた時、彼女が唐突に、ぽつりと呟いた。
「わたくしの名前は、母がつけてくれました」
藤宮、花。
何度頭に思い浮かべても、その名前は彼女の全てを表しているようで、麗しく映る。
「どのような環境に置かれたとしても、あなたが望む、あなた自身の立派な花を咲かせて欲しいと、産声を上げ続ける小さなわたくしに、その思いを込めてくれました」
彼女が、小さく微笑む。そのいたいけなほどの小さな微笑みに、見るのが辛くなる。
「わたくしはその名に恥じないよう、周りにどう言われようと、父の価値観に縛られ続けられようと、自分の信じる価値を貫きました。自分の在り方も、人生をかけて愛した、あの方のことも。わたくしに別の道など、ありません。だから、わたくしは自身の命を持って、最後に花を咲かせることを選びました」
花を咲かせられたかはわかりませんがと、彼女は胸の痛むような苦笑いを浮かべた。
彼女は、絶対に叶うことのできなくなったものを、自身の死をもって尚掴もうとした。人生における一番価値のあるもの、生涯愛することを誓い、しかし無慈悲にもこの世から消え去ったたった一人の男と一緒にいることただそれだけのために、彼女は、川の奥底に広がる無の世界に、身を投げた。
彼女は枯れることを選ぶのではなく、死をもって花を咲かせることを選んだのだ。
その男が望むかどうかは問題ではない。彼女の生き様と選択こそが、彼女自身の全てだ。そこに他人の意思など入り込む余地はない。彼女は死をもって、藤宮花という一人の在り方を、貫いたのだ。
ぼんやりと考えていると、ふいに、彼女がこちらを向いた。上品な、しかし挑戦的な、いたずらっ子のような表情だった。
「あなたは、どうされるのですか」
肩に、重苦しい圧がのしかかる。多分、自分でも取るべき選択は分かっている。ただ、その先に広がる未知の世界に飛び込む自信が、ないだけだ。
「あなたのおばあ様は、亡くなるその時までずっと、あなたに寄り添い、見守るというかけがえのない肥料を与え続けて下さったのです。あなたの心をしっかりと地に根付かせ、水や光をその温かい目にのせ、養分を施し続けて下さったのです。……あとは、あなたの意思だけです」
ふんわりと、優しい目で彼女が微笑む。
「あなたの花を咲かせられるのは、あなただけなのですから」
どれくらい時間が経っただろう。既に遠くの民家の灯りは消え、静寂のみが河川敷全体を包み込む。
修二の頬を撫でる夜風が、一瞬だけ、温かくなった気がした。
「……花さんは、きっと素敵な花を咲かせられたと思います」
徐に、その場に立ち上がる。彼女が怪訝そうな顔をこちらに向けている気がしたが、青黒く染まる夜の川を見遣りながら、修二は静かに口を開いた。
「……花さんが咲かせた花は、凛として、気丈に、そして幸せに花びらを開いていると思います」
恥ずかしさを冷たい夜風に乗せ、修二は真っすぐに正面を見据え続けた。
「花さんにしか、咲かせられない花です」
少し、夜風が強くなる。水面の揺らぎが、音もなく静寂のまま修二の視界を揺らす。
聞き間違いかと思うほど小さな彼女の声が、夜風に乗って、聞こえてきた。
「……ありがとう」
しばらく、その場に立ち尽くす。そろそろ日も変わる頃だろうと、何となく思う。
少し強くなった春の冷たい夜風が、彼女が座っていた芝生を小さく揺らしている。
煌々と光を滲ませる満月が、修二の目に綺麗に映りこんだ。
ぽつりと、部屋の明かりをつける。
一日しか一緒に過ごしていないにも関わらず、まるで久しぶりに一人になったような気がして、胸の奥が何となくわびしくなる。
早朝までは彼女がここにいたことが嘘であるかのように、いつもの部屋が佇んでいる。部屋に染み込んだ塗料の匂いがいつもの自分を思い出させて、少し笑った。
ふと彼女が座っていた所を見遣ると、あの大きな木の籠はなかった。彼女と一緒にいなくなったんだろうなと、勝手に思った。
我が物顔のように佇むキャンバスが、修二の視界に入る。
描きかけの少女が、白い画用紙にほんのりと浮かんでいる。今見ると何となく心の不安が表れているようで、その描写が自分のものではないように映る。今日は徹夜で書き直しだなと、「孤高の女」と題したその絵をそっと取り去った。
静かに、ベランダの引き戸を開ける。先ほどの肌寒い夜風が、部屋の中にするすると入りこんでくる。
ベランダに立ちすくみながら、煙草を一本取り出し、火をつける。暗闇の中を這うように煙が昇っては、星が降りしきる春の夜空にじんわりと消えていく。
ふと前を見ると、向かいに据えられた花壇の真ん中に、一輪の綺麗な花が咲いている。一輪の花を愛でる彼女と一人の男の情景が、ぼんやりと脳裏に浮かんだ気がした。
何も変わった所など無い、いつもの部屋。塗料の匂いにまみれた、世界で一番落ち着く、いつもと変わらない自分だけのアトリエ。一時の夢は、そっと煙草の火が消えるように、幻のように終わった。
静かに、煙を吐き出す。夢を見ているようだった短い記憶と少しの寂しさが、流れるように煙に乗っては消えていく。
慣れ親しんだはずのその煙草は、少しだけモダンな味がした。
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