離婚   作・蜂蜜飴

お互いがお互いのことを嫌いで別れられたらどれほど幸せだろうかと思っていた。ただ、それは恋愛が遊びだった時に限って言えることなんだと思い知った。別れたくないと泣かれ、アパートのドアを叩かれ迷惑したこともあるし、逆に別れたくないと相手に泣きすがったこともある。私の事なんか嫌いになってよ。私もあなたのこと嫌いになれればいいのに。そんな風に思ったことが何度かある。そして、お互いが同じタイミングで好きになることが滅多にないように、同じタイミングで嫌いになることも滅多にない。七年間お互いに「好きだ」と伝えないまでも、今後一生この人しか愛しませんと内外にアピールするための共同生活を送っていた二人が、円満に離婚できるなんて普通の結婚なんかよりもよっぽど奇跡だと思う。お互いがお互いのことを嫌いではないから、冷静に話し合いができるし、きれいさっぱり別れることができる。離婚は結婚の7倍のエネルギーが必要などと言われるが、結婚の時と同じようなエネルギー量で離婚が成立しようとしている現状に、私の感情は感謝しかなかった。


七年間、結婚生活を送ってきた。自分の人生の中で最も続いた物事かもしれない。中学高校でやっていた吹奏楽は延べ五年弱だったし、小学生のときに習っていたスイミングと習字はそれぞれ三年と二年で辞めた。そもそも小学校にすら六年間しか通わないのに、七年も続いたことはこの結婚生活以外は何もなかった。


付き合い始めた当初は、彼が何を考えているかわからないことが多かった。映画のデートをするときは自分では気にも留めない洋画のラブストーリーを選んでくるし、


「感想を言えるようにしないといけないと思ったから」といって、デートの前に一人で二回も予習していた。私には思いもよらないようなことを考えているが、そんな彼の考えていることで私が不快だと思うことは一つもなかった。


一年と半年、彼の考えることに笑ったり一緒に悩んだり呆れたりしながらこんな日々が幸せなんだと思うようになっていった。プロポーズをされるときには、「あ、今日プロポーズされる気がする」と感じていた。実際にプロポーズされた嬉しさよりも、彼の考えがわかるようになっていたことに喜ぶ自分に気付いた時、私もよっぽど変人に毒されていると思いながら了承の返事をしていた。


結婚した後になっても、何を考えているのかわからないことも多々だったが、彼が晩ご飯にカレーを食べたい時の気分を当てられるようになり、記念日にサプライズをしようとしていることに勘付くようになっていった。彼の会社では、年に一回海外の支社に行くための選抜があり、それを勝ち抜くとニューヨークで仕事ができるのだが倍率が高かった。彼は結婚前から選抜に挑戦し続けていて、海外転勤をしたいと言っていたが決まって二言目には


「まあ、たぶん無理なんだけどね」と笑っていた。


「私は海外での生活なんて怖いから、日本から出たくないな」と本音と彼への気遣いを合わせて、そう言った。


そんな彼が、結婚七年目にして、選抜を勝ち抜いた。


「海外勤務の選抜、合格しちゃいました」とおどけながら、だけどちょっとだけ困った顔で報告してくれた。合格した喜びと、妻である私への申し訳なさが混じったような表情をしていた。


「おめでとう」と精一杯の晴れやかな顔で彼に笑いかけると、


「離婚、しよっか?」


「うん。そうだね」


海外で勤務して自分のスキルを高められることが嬉しい。夢だった海外生活を送りたい。妻である私にもついてきてほしい。海外で暮らすのが怖いと言っている妻を無理やり連れて行くわけにはいかない。三十二になったばかりの妻を日本に残して、何年も海外で単身赴任というわけにはいかないだろう。妻の今後の幸せを考えたら離婚する以外に方法はないんだろう。どうせ、この人はこんなことを考えてるんだろうな。私もずいぶんとこの人の考えていることをわかるようになっていたんだな。もし私が「離婚なんてする必要ないじゃん。いつまでだって日本で待ってるよ」なんて言ったら、最短の二年で帰ってくるだろう。彼がそんな風に自分の優しさをあらわす人だということは、七年経った今だからこそわかる。彼が離婚を切り出したのが私の為であることは私が一番よくわかるし、私がそれをわかって受け入れているということをきっと彼自身もわかってくれていると思う。七年間で二人の間にはそれだけの理解が深まっていた。


 そして、お互いを理解するには十分なようでいてあっという間だった七年間の結婚生活を公的に終わらせるための一枚の紙を提出してきた。


「苗字、戻さなくてよかったの?」そう優しく聞いてくる彼に


「いいの。私にとっては勲章みたいなものだから」


「君の考えていることは理解できないことばっかりだよ」


「そう言うと思った。じゃあ、私こっちだから」そう言って、一度もふり返ることなく私は川沿いの道を歩き始めた。きっと今、彼は歩き出さずに私の背中を眺めているんだろうなと思いながら


「相手のことがわかるようになればなるほど、魅力を感じなくなるものよ」と小さい声で呟いた。

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