九州大学文藝部・初冬号

九大文芸部

商店街、冬   作・蝶美偽名

 労働、労働、帰路。商店街を抜けてパチンコ屋の裏手に回ると、パチンコ屋の立体駐車場の上から、怒鳴り声を上げている男の声が聞こえた。電話の相手は彼の顧客だろうか。彼もまた労働している。


 帰宅後、今日の出来事を日記に書く。今日という日は、放っておいたら明日には白紙になる。だから無理をしてでも、今日という一日を5行に集約しておく。


 「10月28日。商店街でバイオリニストを見た。日本人ではなかった。砂漠の人という感じがした。若い制服のカップルと老婆が聴き入っていた。彼は個性的な出で立ちだった。美しいバイオリンだった。」


 私の労働は手段であり、演技である。すなわち食い扶持であり、客の求める振る舞いを要求される場である。


 


 労働、労働、帰路。商店街を抜け、冷たい空を仰いだ。パチンコ屋の立体駐車場の上は静かだ。


11月に入り、師走を待たずして転がり出した今日は、天手古舞の一日だった。朝食抜きで家を出た。寝坊したからだ。ぎりぎりで出勤した。コンビニにパンを買いに走り、帰ってきて予定を確認すると、今日が後先数週の中で一番忙しい日であることを思い出した。はきはきとした口調、大きく低い信頼に足る声、そして笑顔。私にとって頬を緩めるとは即ち無表情に戻ることだった。私がその日出勤してから初めて頬を緩めたのは、昼休み前最後のクライアントがスタッフに連れられて部屋から出ていくのを見送った時だったが、同僚の渕上は私の些細な所作を見逃さず、隣に立って私を小突いた。


 「名演技だったよ」


 余裕ぶっている当の本人も、その実無理をしているところもあるようで、つい昨日の夜には、酒を注入しながら延々と悪口街道を突っ走る彼女の隣で、彼女がエンストするのを待ったものだった。彼女は大体一時間半くらいでエンストして口も身体も動かなくなる。その日もそうだった。二人で商店街の居酒屋を出たのは10時頃で、私はいつものように、彼女を家まで送った。羨ましいことに、彼女の家は職場のすぐ側だった。今日慌てふためきながら職場に滑り込んできた私を、彼女はケラケラと笑ったが、彼女に限って私を嘲笑する資格などないのだ。


渕上の家に行くのはそれが3度目だった。それ以前の2度の内の1度は、その日と同じく介抱要員として、もう1度は別の人として玄関を跨いだ。


私は一時の中断を経て、午後から演技を再開した。会議、会議、そして新人の八村圭への指導。優秀な後輩・八村は覚えが早いが、やや賢すぎる。私の教育能力の乏しいことをそれとなく察知して、私がいないところで色々、他の優秀な先輩に話を聞いているらしく、私が教えていないはずのことまでよく知っていた。人と関わることには随分慣れている様子だ。時折水を与えてやりさえすれば、独りで生育するサボテンのように、八村圭は勝手に成長するだろう。彼に企画書を試しに作らせたが、私の新人の頃より遥かに上出来だった。そのことを素直に伝えると、八村は謙遜した。


 「そんなことないですよ」


 八村は微笑んだ。実にナチュラルな微笑みだった。


 帰宅後、今日の出来事を日記に書く。今日という日は、放っておいたら明日には白紙になる。だから無理をしてでも、今日という一日を5行に集約しておく。


 「11月13日。今日も商店街に背の高い彼は現れなかった。寒くなり、長い時間外へ出ているのが辛くなったのだろうか。やっぱりあの時、名前を訊いておけば良かったと思う。また彼の演奏を聴きたい。あのバイオリンは、彼の人生だろうか。」


 5行目まで書き終えたところで、私は今日会社に遅刻したことを思い出した。




 12月。


 何を話したのかはよく覚えていないが、その日の夜、私は渕上を飲みに誘って、珍しく愚痴ったらしい。


 「サボテンだって、水をやらないと枯れてしまうのよ」


 店の前で別れ際、渕上は意味深にこんなことを言うので、恐らく愚痴ったのだろうと思った。実際、酔っていてあまり覚えていない。多分に、なかなか格好悪い愚痴り方をしたのだろう。


 応援どうも、と私は言った。


 「ねえ、今日は金曜日だよ。うちに来ない?」


 渕上は私を誘った。その時、私は格好悪い愚痴を聞いてくれた渕上の包容力に格別の安らぎを感じていた。だからその時点では、私に断る理由はなかった…。


 不意に、バイオリンの音色が聞こえた。


「行こう」


私は、彼女の家とは反対方向に歩き出した。彼女も、あら、バイオリン、と言ってついて来た。


私は興奮していた。


彼は、我々がいた居酒屋のある商店街の、以前と同じところ、パチンコ屋の騒音が絶妙に届かない場所、シャッターの閉まった何某かの店の前で、バイオリンを弾いていた。バイオリンのケースを足元に置いて。


 雑踏と喧騒と、街灯の灯り、アスファルトの表面の冷たさ、すべて彼のバイオリンのためにあるものだった。彼はどこで生まれ、誰に育てられたのだろう。彼はどうしてこの国にいるのだろう。彼には大切な人はいるのだろうか。大切な人を失ったことはあるのだろうか。バイオリンは彼にとっての何なのだろう。今この瞬間は彼にとっての何なのだろう。そして。


 「あなたの名前を訊きたかった」


 演奏が終わり、居合わせた人々の短い拍手が終わるや否や、私は彼の元に歩み寄った。


 彼は驚いて腰をかがめ、恐縮した様子で、ゆっくりと何か一言発した。それが彼の名前らしかった。私が一度も聞いたことのない響きだった。それは伝説のようで、神話のようだった。


 私が祈るように彼に問い掛けると、彼は答えた。


「音楽は、手段ですか」


 「音楽は、手段。音楽がないと食べていけない。音楽は手段」


 「音楽は、演技ですか」


「音楽は、演技。音楽の中には主人公がいる。彼を演じる。音楽は演技」


 「音楽は、哲学ですか」


「音楽は、哲学。役に立つか立たないか、生きるか死ぬかを超えた問い。音楽は哲学」


私は唇を震わせた。そして言った。


 「音楽は、あなたの人生ですか」


 彼は息を堪えた。一時考え、そして言った。


 「音楽は、僕の人生じゃない。僕の人生は音楽に捧げるもの、というわけじゃない。僕の人生は、僕のものであって、音楽のものじゃない。僕の音楽とは、僕ではない。音楽と僕は、別のもの。ただ、人生が、僕の音楽のようである、とは思う。そういうものに出会えて良かったと、そう思う」


 私はあらゆる感情を押し込めて、いくらかのお金をバイオリンのケースに放り、そして足早に去った。後ろから彼が、ありがとうございます、と言うのが聞こえた。


 渕上は隣に追いついてきて、素敵なバイオリンだったねえ、と言った。


 「私、先に帰るね。お疲れ」


 彼女は早口でこう言って、私が頷いたのを確認すると、一人去っていった。


 私は商店街を抜け、パチンコ屋の裏手に出た。男の怒鳴り声が聞こえた。私は声を抑えながら、数年ぶりに泣いた。


 帰宅後、今日の出来事を日記に書く。今日という日は、放っておいたら明日には白紙になる。


 「12月10日。渕上と飲んだ。」


 私はパタンと日記帳を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る