紫電の如くー百魔剣物語・外伝ー

せてぃ

第1話 駄目だ

 がちゃん、と音がして、何かが腰の辺りにぶつかった。クラウス・タジティは振り向いたが、そこに見えたのは前を向いていた時と変わらない闇だった。


「も、も、申し訳、ありません、騎士長様!」


 床に倒れている女性の気配がある。ここは大聖堂内だが、毛足の長い絨毯が敷かれた場所であるはずなので、怪我はないだろう。ただ、いまぶつかった時に聞こえた音は陶器のもの……恐らくは茶器だ。それは落として割れてしまったかもしれない。


「いや……こちらこそ、すまなかった」


 倒れているのは大聖堂仕えの女給だろう。怯えている気配があるのは、相手が自分であるからか。『鬼の騎士長』『一刀必殺』……様々な二つ名が一人歩きをしている。半分は本当だが、噂というのは尾鰭も背鰭も腹鰭も、悠然と広げるものである。

 怯えて動かない女給の代わりに、落ちた茶器を拾い上げようとした。闇の中で手探りに探すが、人や動物と違って気配が動かない物体に対して意識だけで掴み上げることは、難しい。


「あ、あ、いえ、大丈夫です、大丈夫ですから!」


 女給は言いながら慌てて動いて、その場に散らばった茶器類を片付けた気配だった。全ては闇の向こうから感じるだけだ。


「ああ、わたしも大丈夫だ。すまないことをした」


 謝る言葉を繰り返しながら、クラウスは立ち上がった。知らず知らずに、小さく舌打ちをしてしまったらしい。また女給が怯える気配を感じた。

 これでは駄目だ。

 剣を握れば、相手の気配がはっきりわかっていれば、見えないこの目でも、遅れを取ることはない。その力は戦いに於いてのみ、既に遺憾無く発揮されている。実際、模擬試合では目が見えていた頃と変わらぬ戦いができるようになった。

 だが、戦いから離れてしまえば、相手の気配が読めなければ、こうして日常生活にも支障を来す。それでは駄目なのだ。クラウスが求めている『聖女シホの騎士』としてあり続けるためには。

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