第18話 ファンタジー:『地下墳墓カタコンベ』

★カタコンベ:

 ゲームなどの舞台となる地下構造物には、ダンジョン(地下牢) 、ラビリンス(迷宮)、カタコンベ(地下墳墓) などがあるが、本来カタコンベとは、特定の地域の特定の時代の遺構である地下の墓所のことを指すので注意すること。


▼カタコンベとは:

 初期キリスト教時代の地下墳墓。

遺構はローマ近郊に多いが、2世紀末~4世紀後半にかけてローマのほかにナポリ・シラクサ・マルタ・シチリア・北アフリカ(アレクサンドリア)・小アジアなど古代ローマ世界の諸所に広がっている。


 カタコンベに適していたからであろう加工が容易で耐久性の強い火山灰の地質で幅約1メートル、高さ2~3メートルの通廊(つうろう)の壁に、長方形あるいは上部が半円形の壁龕(へきがん)をつくり、そこに遺体を安置し、レンガまたは大理石板でふさぎ、石灰で密閉する。

そこには死者の名前、年齢、死亡の日などのほかに、ときには象徴的な絵や祝福のことばが刻まれている。


 これは死後の魂の救済を願うキリスト教徒たちによって壁画や天井画が描かれたもので、弾圧者の目をごまかすために暗示や暗号(モノグラム)や、異教美術のモチーフを使った間接的な表現になっているのだ。


 また、通廊の所々に壁龕のついた四角な墓室が設けられ、儀式や会食にも使われた。

壁沿いに石造りの腰掛が置かれ、墓室や通廊には採光、通風のために縦穴(たてあな)もあけられている。

大きなカタコンベは通廊が縦横に網の目のように走り、5層からなるものもある。


 なお、かつては313年コンスタンティヌスによるミラノ勅令で信仰の自由が認められたのを機に、教会の先駆けとなるドムス・エクレシアエ(私宅教会)の上に教会堂が建設された、と考えられていたが、教区教会の発掘調査の結果、各教会堂は必ずしも私宅教会から発展したものではないことがわかっている。



▼歴史:墓所から巡礼地へ

 19世紀以来、

古代のキリスト教徒が迫害を逃れ、カタコンベに集まって秘密の礼拝を行ったというイメージが定着しましたが、カタコンベが実際に有する機能は、本来遺体の安置所すなわち墓所に限られていました。

キリスト教徒が殉教者の墓に詣でることはありましたが、カタコンベが夜な夜な秘密の教会として、また日常的な礼拝所として機能することは基本ありませんでした。

(ただしあくまでも、夜な夜な日常的にやっていないだけであり、 また地下の潜伏場所と利用していないとは言っていない。)


 313年、ローマ帝国はそれまで迫害していたキリスト教を公認します。(ミラノ勅令)この313年より前、迫害されていた時代の初期キリスト教美術を「カタコンベの時代」といい、公認後の313年以降を「教会勝利の時代」と呼ぶそうです。

カタコンベの時代では、弾圧を避けて地下に作られた墓所や葬礼美術が特徴。

帝政期のたびたびの迫害時にも、本来は共同地下墓所だった為官憲が破壊できなかったので、時折訪れる巡礼のキリスト教徒の礼拝の場ともなったのでした。


 しかしキリスト教の公認後、地下の埋葬が行われなくなったことで、地下の潜伏場所は秘密の教会・礼拝所として使われなくなり、カタコンベはただの巡礼所となった。



▼最古のカタコンベの成り立ちと歴史:3世紀初頭から5世紀初頭のカタコンベ

 ミラノ勅令以前、2世紀にまで遡る。

ミラノ勅令以前からカタコンベがキリスト教徒の墓所として用いられていたが、これは、すでに作られていた地下の坑道を再利用し、拡張させたものも多かった。

大部分のカタコンベは使われなくなった採石場・砂の採取場・貯水場・水道設備などを再利用し、地下にトンネルを延長して、ポモエリウム外の地下墓地として利用しています。


 3世紀初頭カタコンベへの埋葬が盛んになった時代は、ローマ市域が拡大した時代と重なります。

市域が拡大して土地の需要が高まると、地価が上がります。

さらにこの時代には火葬ではなく土葬される死者が多くなったことも、土地不足に拍車を掛けました。


 このように古代ローマの埋葬形式は2世紀前半に火葬から土葬形式に移り、地上の墓地のほかに小規模の地下墓室であるヒュポゲウムhypogeumや、地下に広範囲に通廊で連結した墓室をもつカタコンベ形式の墓所があった。


 この結果コルンバリウム(COLUMBARIUM 遺灰安置所、納骨堂)やマウソレウム(MAUSOLEUM 貴人の霊廟)の建設用地が確保しづらくなり、火山灰土や凝灰岩など掘削が容易な地区において、カタコンベの規模が拡大しました。


 このようにローマの墓所の不足問題から地下墓所が盛んに作られるようになるが、

キリスト教徒の多くはここに埋葬された。

これは地下室の使用は迫害から逃れるためではなく、すでに存在した異教やユダヤ教の地下墓所を利用したもので、言わば庇を貸して母屋を取られたのである。


 そもそも現在カタコンベと呼ばれるものは本来地下共同墓所であり、特定の文化や宗教の産物ではありませんでした。

主要なカタコンベと呼ばれる物は、キリスト教徒専用墓地の様相を呈していましたが、ローマ古来の多神教徒のカタコンベ、フェニキア人のカタコンベ、ユダヤ人のカタコンベ等、キリスト教徒以外のカタコンベも多くありました。


 また、キリスト教が未だ公認されていなかった時代、信徒たちは殉教者を葬る独自の墓所を持ちませんでした。

それゆえ初代教会の最重要人物である使徒ペトロや使徒パウロも、一般市民と同じネクロポリス(地下の公共墓地)に埋葬されました。


 当時のキリスト教徒たちは殉教者の近くに埋葬されることを望みましたから、殉教者の墓所は自然とキリスト教徒の墓所となりました。

殉教者の墓所として知られるカタコンベがキリスト教徒専用の墓所のようになっているのは、このような理由によります。


 こうしてカタコンベは3世紀から5世紀初頭まで墓所として用いられ、その後はラノ勅令以前の迫害期に殉教した殉教者の墓所が巡礼地となり、殉教者の墓所に至る坑道や墓所の周辺が整備されたり、地上のバシリカ型教会堂建築の形態を模した礼拝所が地下に設けられる場合もあった。


 4世紀には殉教者への崇敬が高まるにつれ、その墓に記念碑的墓銘(ぼめい)を取り付けたり、通廊を広げるなどして、カタコンベの改修がなされた。

ローマのラティーナ通りには4世紀後半のものが残る。


 313年、キリスト教を公認するミラノ勅令が発布されると、新しい場所に聖堂を建てて殉教者の遺体を移葬することが可能になりました。

未だ弱小であったキリスト教会にとって聖堂建設は大きな負担でしたから、第三十七代ローマ司教ダマスス一世(Damasus I, c. 305 - 366 - 384)は、殉教者が眠るカタコンベを修繕して維持し、巡礼の場とすることを推奨しました。


 しかしながら392年にローマ帝国がキリスト教を国教化する頃には、教会の資金は潤沢になって多くの聖堂建設が可能になり、死者はそれらの聖堂に葬られるのが普通になりました。

このようにして新しい死者がカタコンベに葬られることは無くなり、カタコンベは墓所としての役割を終えました。


 こうして5世紀中葉からカタコンベへの埋葬は行われなくなり、8世紀には殉教者の遺骸(いがい)は都市の教会に移された。

それ以後カタコンベはほとんど忘れられてしまったが、16世紀に至り発掘と研究が開始された。



▼カタコンベの名前の由来:サン・セバスティアーノ聖堂地下埋葬場所・周辺地形「窪地のあたり」

 一般的に今ではカタコンベの意味は、2世紀頃〜5世紀の初め頃までに初期キリスト教徒を中心として使用された「共同地下墓所」を指します。


 ですが、実は中世まで『カタコンベ』と言うと、ローマの聖地『サン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂の地下に存在する埋葬場所』の事だけを意味していました。


 なおこのサン・セバスティアーノ聖堂には、使徒ペテロやパウロの遺骨がこのカタコンベに一時期納められていた事もあり、4世紀前半には「バジリカ・アポストロムル」(使徒の聖堂)と呼ばれる聖堂ができていました。


 そもそもサン・セバスティアーノ聖堂とは、「サン・セバスティアーノ」さんの埋葬場所の上に建てられていたのですが、その埋葬場所の内部は、カタコンベの名前の由来になった古い採石場の跡が残っています。

カタコンベと言う言葉自体は、周辺の地形「窪地のあたり」を意味するad atacumbasに由来するのですが、その聖堂が知れ渡った後、死者を葬る為に使われた洞窟・岩屋や地下の洞穴のこと全般を指すようになりました。

厳密には3、4世紀のローマやその周辺地方・古代ローマ支配地域の地下墓所を特にカタコンベと呼ぶのですが。


 当時のキリスト教徒は土葬でしたが、ローマの規則では衛生上の理由から市内での埋葬は許されず、城壁外に埋葬していました。

しかし死者が多くなり広い土地が必要になっていきます。

城壁を出たすぐのアッピア街道付近は墓を掘りやすい石灰岩質の土地であったことから1世紀頃より地下何層にもわたる大地下墓地が造られたのでした。

現在地下には全長12キロメートルのカタコンベがあり、 約6,5000人以上が葬られている。

しかし9世紀になると使徒の事はすっかり忘れ去られていきます。


 それ故かつては、キリスト教が公認される前の迫害時代にキリスト教徒が秘かにミサを行っただけの場所だと考えられていましたが、カタコンベは本来地下聖堂ではなく、あくまでも埋葬場所でした。


 そう、カタコンベはあくまでも埋葬場所でしたので、キリスト教徒だけでなくユダヤ教徒や異教徒も共同で使用していました。

ですが次第にその区域は分かれてゆきましたが。


 しかし4世紀に入って教会堂建築が盛んに行われ地下聖堂が普及するようになると、カタコンベは減ってゆきました。

数多く作られていたローマのカタコンベは、5世紀中に使われなくなり、次第に忘れ去られ入口は土砂に埋もれて、16世紀末に再発見されることを待つ事になります。


 だが遺跡発掘を始めた16世紀以降、その名が知れ渡ったカタコンベの名は普遍化され、死者を葬る為に使われた洞窟・岩屋など地下墓地全般を、すべからくカタコンベと言うようになったそうです。


 例えば2世紀に掘られたローマの巨大な地下墓地(カタコンベ)などは、無数のトンネルが網の目のように張り巡らされ、まるで巨大迷路である。


 それ故、かつては地下墓地として利用されていたものが、度重なるテロ活動の末、当然のことながら迫害されていた初期キリスト教のローマ人達が、顔を隠し夜な夜な夜陰に隠れて共同地下墓所に潜り隠れて、密かに怪しげな儀式……祈りを捧げる場所となった、とイメージされました。

まるで邪教の集会、イメージはまさに悪魔崇拝者そのもの。


 この他、古代ローマの施設の上に教会を建てたりしたので、多くの教会の下に2層の地下遺跡が眠っています。

多くは異教の祭壇や神殿跡地を乗っ取る為に教会の土台に使ったので、地下空間はかなり迷路のように入り組んでいます。


 例えば地下二層にある空間には1世紀~2世紀頃のローマの遺跡とミトラ教の神殿などがありました。

地上の教会部分は基礎を埋め立て増築された12〜14世紀の聖堂なのですが、地下1階には、2世紀頃までの古代ローマ人住居跡。

地下2階には、かつてのミトラ信仰の祭壇や神殿だったものがキリスト初期教会の遺構に改装されたものが、と。


 また、初期キリスト教のローマ時代、ローマ支配期のアフリカのカタコンベは、地中海沿岸のアレクサンドリアでは見つかっていたがナイル川流域では先例がなかった。

しかし古代エジプトの埋葬地として知られるカイロ近郊のサッカラ遺跡で、ローマ帝国支配下だった1~2世紀のものとみられるカタコンベ(地下集団墓地)が初めてみつかったと言う。


 類似のものとしてはトルコのアナトリア、北アフリカのスサ、イタリアのナポリ、ドイツのトリーア、ウクライナのキエフなどに存在する。

ウクライナやロシアのカタコンベは鉱石、石灰岩の採掘後のトンネルが使われており、クリミアや黒海沿岸に位置している。

有名なものはオデッサやクリミア、アジムシュカイのものである。

それらはソ連の第二次世界大戦のゲリラの基地としても使われたのでした。



▼地下聖堂(ちかせいどう)(crypt):補足

 教会堂や城の床下に作られる、石造りの部屋あるいは貯蔵室である。

Crypt という名称は、ラテン語の crypta、ギリシャ語の kryptē に由来する。

礼拝堂や納骨所として利用されるのが普通で、聖人や高位の聖職者など、高貴な人物の石棺・棺・遺物などが納められている。

場合によっては、通常の聖堂と同様の用途・形態をとる聖堂が、ただ地下に位置していると言うだけの事から「地下聖堂」と呼ばれる事がある。




★迷宮的地下墳墓:

▼聖墳墓教会:

 エルサレム旧市街(東エルサレム)にあるキリストの墓とされる場所に建つ教会。

キリストが磔刑になったゴルゴダの丘があったとされるこの場所を覆うように建てられた。(遺骸がアリマタヤのヨセフらによっていったん葬られ、3日目に復活したという墓もその近くのはずであった)

中は迷宮のようで、階段を上がったり下がったりしなければならないと言う。

教会内の2階部分に階段で上るとゴルゴダの丘がある。

正面には「十字架への釘付けの祭壇」があり、その左奥には「磔の祭壇」イエスの十字架が立てられた、とされる穴がある。


 教会の中の小さな聖堂がイエスの墓とされている。

教会に入ってすぐの場所が、イエス・キリストの身体が埋葬のために準備された場所であると信じられている石物であり、中央のドームにイエスが埋葬され3日後に復活を遂げたとされる「石墓」が存在するのだ。


 エルサレムは2度のユダヤ戦争によって破壊され、135年ごろにはローマ風の都市へと再開発されている。

このため30年ごろの出来事とされるイエス・キリストの磔刑の舞台、ゴルゴタの位置は分からなくなってしまっていた。


 だが、西暦326年にローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナが当時はヴィーナス神殿となっていたこの地で、磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物・石墓を発見したとされ、ゴルゴタと比定した為、神殿を取り壊して建てられたのが現在の聖墳墓教会とされている。


 このとき十字架3つと聖釘などの聖遺物も発見されたという。

イエス・キリストが磔にされた際に手足に打ちつけられた釘であるとキリスト教内で言い伝えられている聖遺物のひとつ聖釘(せいてい)は、信仰の対象として各地のカトリック教会で祭られている。

カトリック百科事典によれば、世界中で祭られている聖釘は30本を下らないだろうと言われる。


 また、 3つの十字架のうちのひとつに触れた女性の病が癒され、これがキリストが磔にされた聖十字架と分かったのでヘレナは聖十字架の一部をエルサレムに残し、他の一部と聖釘をコンスタンティノポリスに持ち帰った。

エルサレムの聖十字架は聖墳墓教会に置かれていたが、ヘラクレイオス帝の時代の614年にサーサーン朝ペルシアに奪われた。

ヘラクレイオスの東ローマ帝国はニネヴェの戦い (627年)でサーサーン朝軍を破ると628年にこれを取り戻しコンスタンティノポリスに持ち帰ったが、後にエルサレムに戻された。

1009年ごろからはエルサレムのキリスト教信者たちの手で隠されていた。

1099年に第1回十字軍が発見したとき、黄金の十字架にその木片が埋め込まれていた。

戦のたびにこの聖十字架は戦陣に持ち込まれたが、1187年のハッティンの戦いで奪われ、失われた。


 早い時期から聖十字架は分割され、あちこちに置かれたらしい。

また1204年に、フランスの諸侯とヴェネツィア共和国が主体の第4回十字軍が

東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノポリスを占領した。

このとき十字軍は、他の財宝とともに、金や宝石で飾られた聖十字架の断片を奪い、持ち帰っている。


その他聖十字架の破片であると主張される木片は多いが、総計すると十字架数十本分に当たり、ゆえにほとんどがまがい物であり、そもそも“キリストが磔にされた十字架”の存在・再発見の真実性まで辿り考えることとなる。



▼ハル・サフリエニの地下墳墓:

 マルタ島のパオラ(Paola)で発見された、紀元前2500年頃に遡る地下構造物である。

これは世界で唯一の先史時代の地下墳墓で、別名「ハイポジューム地下神殿」とも呼ばれる。


 本来は宗教上の聖域として作られ礼拝を行う神殿だったとも言われている世界遺産のハル・サフリエニ地下墳墓ですが、ここから7000体もの人骨が見つかっていて先史時代の内に共同地下納骨堂に転用されたようなのだ。

中には女性の遺骨だけが見つかっている部屋もありました。

この様に元は神聖な場所として建設されたものが共同墓地になったとされていますが、まだまだ詳しいことは研究中。


 また石室は複雑な階段で迷路のようになっており、侵入者を拒むかのよう。

実際いつ、だれが、どのようにこの地下墳墓を作ったのかは、まだ解っていないのです。

複雑な構造の地下墳墓は、地上にある他の巨石神殿と共通する部分があります。


 紀元前3600年とも、紀元前3800年〜2500年のものといわれるハル・サフリエニ地下墳墓は、マルタ島の貴重な世界遺産の一つでまだ古代文明も生まれていない先史文明の遺跡といわれています。


 閑静な住宅街に位置するこの墳墓は全3層からなる構造で、最も深い場所にある石室は地上から10mの場所にあります。


●第1階層

幾つかの部屋は、自然の洞窟をもとにして人工的に拡張されたものである。


●第2階層では「マルタのヴィーナス」が見つかった中央の部屋、男性の野太い声のみ反響する信託の部屋、壁が幾何学模様で装飾されている装飾の部屋、

至聖所など様々な興味深い場所ばかり。


●第3階層

最下層からは骨は見つかっておらず、水しか出てこない。

そのことは、この階層が穀類か何かの貯蔵庫だったことを強くうかがわせる。

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