第15話 ファンタジー:『迷路メイズ』と『迷宮ラビリンス』

★迷路 (maze):MAZE☆爆熱時空

 迷路(めいろ)とは、

・1. 入り組んでいて迷いやすい道。

  また、そのように仕組んだ(入り込むと迷って出られなくなるような)道。

  その他、それらを図形化した遊び(実際に人間が入れるものだけでなく、紙の上でのパズル迷路なども含む)。

・2. 内耳のこと。

・3. 道に迷うこと。正しい道がわからなくなること。

   混乱させる、当惑させる、と言った意味の英語の他動詞。


 一般的には、なかなか通り抜けられないようにつくられた道のこと。

作為的に作られたものを指すことが多いものの、山道や繁華街の路地などの実在する入り組んだ道を指して、比喩的に「迷路」と言うこともあり、部屋や通路が入り組んだ建築物は特に迷宮とも呼ばれる。


 或いは、複雑に入り組んだ道を抜けて、目的地、ゴールまで辿り着くことを目指すゲーム・パズルのこと。

また、「迷路」は英語で「maze(メイズ)」と言うので、特に紙の上で解くパズルとしてのそれは迷図(めいず)という当て字をされることもある。

また、紙の上で解くペンシルパズルとしての迷路には多くのバリエーションがある。

一見すると普通の絵画だが、実は輪郭線に隙間があって迷路になっているものや、正解のルートを塗り潰すことで絵が浮かび上がるものもある。



▼歴史的には、

古代バビロニアの粘土板やギリシア神話などにみられるように人類とは古いつながりがあり、歴史的にみれば迷路にはいろいろな目的があったが、いちばん多いのが宗教との関わりである。

それは魔除(まよ)けであり、死であり、天国との間の障害でもあった。


 この他、日本だけでなく城下町の道路が複雑に入り組んでいるのには、敵がすんなりとは攻め入れないようにという軍事的な狙いがあった。

いろいろな方向に紆余曲折し、ところどころに袋小路のあるパターンで、古くは敵の侵入を防ぐ防衛的な意味で構築されたものらしい。


 やがて16~17世紀になると楽しむことを目的とした、いわゆる庭園迷路が特にイギリスを中心に発達する。

ヨーロッパでは古くから修道院の庭などに迷路園が作られ、イギリスではテューダー朝(イングランド王国 1485年 - 1603年)やステュアート朝(スコットランド起源の王朝 1371年 - 1714年)の時代に盛んに作られた。


 イングランド王ヘンリー2世(1133年3月5日 - 1189年7月6日)(獅子心王の父)は、愛人を迷路園の中の隠れ家に住まわせ妻のアリエノールから匿ったとされる。

しかしアリエノールは紐を用いて迷路を解き愛人を毒殺してしまったという。


 ルネサンス(14世紀 - 16世紀)以降は、宮殿に付属して作られた。

フランス王ルイ14世は、1672年ヴェルサイユ宮殿の庭に迷路園を作った。

この迷路園は1775年に解体されている。

世界的に有名な「ハンプトン・コート宮殿の迷路園」は1689年〜1695年?にウィリアム3世のために植栽された。

現在でも娯楽のため庭園などに造られた数十の生け垣迷路(迷路園)が残っていて現存するものとしては、このベルサイユ宮殿やイギリスのハンプトンコート宮殿の庭にあるものが最も著名である。


 また、19世紀末から心理学で学習研究の装置として用いられるようになった。

目標点の間を袋小路のついた通路で繋ぎ、被験体 (おもにねずみ) は出発点からできるだけ早く最短距離を経由して目標点に到達することが要求される。

迷路にはその大きさ・複雑さ・形状などにさまざまなものがあり、普通目標点に到達する通路が簡単には被験体にわからないように構成されている。


 1980年代頃には巨大迷路ブームが起こり、各地の娯楽施設に迷路が作られた。

ニュージーランドのワナカという小さな村でスチュアート・ランズボローが始めた商業迷路がきっかけである。

その多くは彼が手がけたことから由来する「ランズボロー迷路」と呼ばれるもので、可動式の板塀を利用しており、そのため定期的に設計を変えて違うパターンの迷路を提供することが出来た。

立体交差やチェックポイント・緊急避難用のゲートなどを設け、幅広い年齢が楽しめる手軽な娯楽として成立したが、興業者側の利点としては設置費用や撤去費用の安さ、維持管理の容易さなどが挙げられる。


 この様に迷路の立体化・チェックポイントの設定・仕切り壁の自由変更などいろいろな試行錯誤を重ね、人間の動きのコントロールのノウハウを得て1985年(昭和60)にスチュアート・ランズボローが日本に乗り込んだ事で、日本では1980年代後半に迷路ブームが起こった。

87年にはランズボロー・メイズという名のもとで20か所、そのほかを含めると百数十か所の迷路施設が商業化されていた。


 大きいものは、縦・横各90メートルもあり、平均所要時間は1時間前後である。

迷路は単なる知的遊技にとどまらず、一種の軽い屋外スポーツとしての意義から広く支持を受け最盛期には日本各地に100個以上の巨大迷路が存在したものの結果として一過性のブームに終わり、ブームが去るとこれらの施設は相次いで閉鎖され現在では20箇所程度にまで激減した。

しかしながらわずかに残っている施設は適宜改修やリニューアルが行われ根強い人気を誇っている。


 近年は迷路とアスレチックが組み合わされたアスレチック迷路や、複層型立体迷路と呼ばれる、複数階建ての建物の内部が迷路になっており、階を上がったり下りたりしながら攻略を目指す迷路施設などのアレンジ巨大迷路も作られている。



▼補足:

●迷路園:

 庭園の生け垣や、農地のトウモロコシやコムギを利用してコーンメイズなどと呼ばれる迷路が作られることもある。

また、純粋に娯楽施設として板塀で囲った迷路園も数多く存在する。

遊園地のミラーハウスもこのような迷路のひとつである。

この他、近年ではリアル型脱出ゲームとして各種イベントなどでも開催されている。


●迷路の解法:

・右手法(左手法):

 右側の壁に手を付いて、ひたすら壁沿いに進むという方法である(右側の壁の代わりに左側の壁に手をついても本質的には同じ、この場合は左手法と言う)。

壁の切れ目は迷路の入口と出口にしかないので、右手法を使うと最終的には、入口に戻ってしまうか出口に到達するかのいずれかになる。

最短経路でゴールにたどりつけるとは限らないが、最悪でも壁の長さ分だけ歩けば終了する。

平面的な迷路であれば、右手法を使うと必ず出口にたどり着く。

しかし、迷路のスタートないしゴールが迷路の中にあったり、あるいは迷路が立体的だったりした場合は、右手法の結果スタート地点に戻ってしまう事もありうる。

またゴール以外にダミーの出口があると、そちらに行ってしまう事もあるが、この場合はダミーの出口を無視して右手法を続ければ良い。


・トレモー・アルゴリズム:

あらゆる迷路を解くことが出来る解法として「トレモー・アルゴリズム」が知られている。

この解法は19世紀のフランスの数学者エドゥアール・リュカによって紹介された。

この方法は本質的には「全パターンの経路をしらみ潰し的に試す」というものであるが、チョークで地面に自分が通った跡を残す事で、しらみ潰しを効率的にできる点に特徴がある。

この方法では、迷路上の各々の通路は最大2回しか通らない(試しに進んでみる場合と、諦めて戻る場合の2回)。

よって最悪でも通路の長さの合計値の2倍歩けば、ゴールにたどり着く。


・オーア・アルゴリズム

1959年にイェール大学のオイスティン・オーアによって紹介されたものである。

スタートの近くにある分岐点から探索を始めて、徐々に探索範囲を広めていくというものである。

このアルゴリズムは本質的に、最短経路問題におけるダイクストラのアルゴリズムと同一である。


・その他の解法

紙の上で解く場合は、行き止まりを全て塗り潰せば、結果的に正解が浮かび上がる。




★迷宮ラビリンス:

 迷宮とは、

・1. 生け垣などでつくった庭園中の迷路。

・2. ゴシック聖堂の床などに表された迷路の紋様。

・3. ギリシャ神話で、

   ミノス王がミノタウロスを閉じ込めるために工匠ダイダロスに命じてつくった迷宮:ラビュリントス。


 ギリシア神話では、ミーノータウロスが閉じこめられた場所とされ、

クレタ島のクノッソスの迷宮が世界最古のものと思われる。

また、この迷宮の紋章である両刃の斧(labrys)がラビリンス(Labyrinth)の語源となったとする説がある。

なお、迷宮の設計図はクノッソスの貨幣の意匠にもなったが、実は分岐のない極く単純な迷路であった。


 紀元前5世紀から3世紀にかけてクノッソスの貨幣にラビリンスのシンボルが刻まれたが、この期間の主なラビリンスの形式は、「7つの同心円(seven-circuit)」と呼ばれる単純な形式であり、時間の経過とともに円形か四角形かにかかわらず、独特な迷路にラビリンスという語が使われるようになった。



▼迷路と迷宮の違い:正反対の構成要素

 迷宮は以下の点で迷路とは区別される。

・1. 通路は交差しない。

・2. 一本道であり、道の選択肢はない。

・3. 通路は振り子状に方向転換をする。

・4. 迷宮内には余さず通路が通され、迷宮を抜けようとすればその内部空間をすべて通ることになる。

・5. 中心のそばを繰り返し通る。

・6. 中心から脱出する際、行きと同じ道を再び通らなければならない。


 このように本来の迷宮の構造は混沌ではなく秩序だったものである。

これらの特徴を否定すれば迷路ができあがることからわかるように、迷路は迷宮とほとんど正反対の要素を持っている。


 クレタ型迷宮は以上の特徴を兼ね揃えた代表的なものである。

ローマ帝国時代から迷宮と迷路を混同するような文献が数多く見られ、紀元前1世紀から1世紀ごろに迷宮が迷路的なイメージとして定着されたと考えられている。



▼ミノア文明:両刃斧ラブリュス

 迷宮を意味するラビリンスは、ギリシアのクレタ島にある青銅時代最大の遺跡クノッソス宮殿に関連する前ギリシャ文明(ミノア文明)起源の言葉である。

この語はリュディア語のlabrys(ラブリュス)と深く関連しており、ラブリュスのシンボルは、クレタ島のクノッソスの宮殿での青銅器時代の考古発掘で多数見つかっている。


 クノッソス遺跡では両刃斧のモチーフが見られる事から、元のラビリンスはクレタ島のロイヤルミノア宮殿であると指摘されている。

しかし、クレタ島の他の宮殿でも同じシンボルが発見されたため、この指摘はクノッソス遺跡だけに留まらない可能性がある。


 この様に、ラブリュスという言葉とそのシンボルは紀元前2千年紀に栄えたミノア文明と密接に関連しており、特にある女神信仰と関係が深い。


 人間よりも背の高いミノア文明期の両刃斧(ラブリュス)がいくつか見つかっており、生贄の儀式で使われていたとも言われているが、生贄とされたのは雄牛と見られている。

クレタ島の考古調査によれば、両刃斧は特に神官が儀式に用いていた。

ミノアの宗教的シンボルの中でも両刃斧は最も神聖なものだった。

両刃斧を両手で持ったミノアの女性が見つかっており、有力者だった可能性が高いと見られている。


 近東や他の地域では、このような斧は男神が持っていることが多く、落雷の象徴とされている。

しかしクレタ島ではそれらの地域とは異なり、男神が両刃斧を持つことは決してなく、常に女神とその女性神官が持っていた。

雄牛はゼウスの象徴であり、インド・ヨーロッパ神話によく見られるゼウスや他の雷神が雷を起こすのに使う武器がラブリュスと結び付けられている。

例えば北欧神話のトールはミョルニルをふるって雷を起こし、インドラはヴァジュラを好んで使った。

同様にゼウスが嵐を起こすのに使ったケラヴノスはラブリュスまたはペレクスだった。


 なお、もともとギリシア語ではない「ラブリュス」が登場する最古のギリシャ語文献はプルタルコスによる『モラリス』で、斧を意味するリュディア語としてであった。

ラブリュスに象徴性を持たせたのはミノア、トラキア、ギリシアの宗教や神話や芸術であり、青銅器時代中期から始まって東ローマ帝国の時代までその象徴性が維持された。

また、ラブリュスはアフリカの宗教的象徴や神話としても登場する。


 なお、対称形の両刃斧を指す用語であるラブリュスは、古代ギリシアではペレクスまたはサガリス、古代ローマではビペンニスとしても知られていた。(古代、ラブリュスに象徴的意味が付与されるまでは木を切り倒す道具として、また武器としても使われてきたが、この両刃斧は、今日でも北米などで林業の道具として使われている。)


 ラブリュスはおそらくアナトリア半島から来た宗教用語で、両刃斧のシンボルは新石器時代のチャタル・ヒュユク遺跡で発見されている。

トルコのカリアにあるラブラウンダ聖域では、両刃斧は嵐神Zeus Labraundosに関連付けされている。

しかし、ラブリュスはミノア語ではなくリュディア語から来ており、ラビリンスとラブリュスとの関連は推測のままである。



▼古代ギリシア:テーセウスの神話

 迷宮を意味するラビリンスはラブリュスという言葉と関連があると思われる。

古代ギリシア語のテーセウスの神話では、ギリシア神話のラビリンスはミノアのクノッソス宮殿との関連でよく使われており、伝承が文献に記されるずっと以前から長く言い伝えられてきた。

複雑な構造のため,一度中に入ると容易に出られないという伝説上の建物ラビュリントスは、伝説ではクレタ島の王ミノスの妻パシファエが牡牛によって牛頭人身の怪物ミノタウロスを生んだので、王はダイダロスに命じてラビュリントスを造らせミノタウロスを幽閉したとされる。


 この様にクノッソス宮殿は、ギリシア神話・ミーノータウロス伝説の舞台となったことでもよく知られている。

広い中庭が印象的で丘の斜面に造られた宮殿には1500以上の部屋があり、4階建や5階建となっている部分もあると言います。

この複雑な構造からクノッソス宮殿はギリシャ神話のミノス王の迷宮のモデルと言われ、実際この入り組んだ構造をもつ宮殿の壁という壁にはラブリュスと呼ばれる双頭斧が彫刻されており、まさしくラビリンスの語源に相応しいと言える。


 また、ギリシア神話においてエーゲ海の覇権を握っていたミノス王のモデルは強力な王政を誇っていたミノア文明であり、テーセウスとミーノータウロスの伝説で名高いラビリンスも、クノッソス宮殿の廃墟を見てギリシア人たちが想像したことである。


 クノッソスでは男女三人組で牡牛を飛び越えるスポーツが流行っており、その伝承がポセイドーンの牡牛やミノタウロス伝説へと結びついたのだろう。


 古代ギリシアの陶芸の絵では、動物を生贄として捧げる場面を描く際にラブリュスが描かれることがあり、特に雄牛を殺す際の武器として描かれることが多い。



▼古代ローマ:ラビュリントスの図案

 古代ローマの住宅や中世の大聖堂の床面にはラビュリントスの図案がモザイクとしてはめこまれたが、迷い道や行止りがなく一筆描きであった。

これらは災いを逃れるまじないや苦行のしるしとされる。



▼キリスト教:エルサレムへの道

 12世紀から14世紀にかけて、フランス北部のシャルトル大聖堂、ランスのノートルダム大聖堂、アミアンのノートルダム大聖堂などのゴシック建築式の教会の床に迷宮が描かれるようになった。


 18世紀後期以降の書物ではエルサレムへの道(chemin de Jerusalem)を示すなどと紹介されているが、現在に至っては、初期のキリスト教徒が何の目的で床に迷宮を描いたのかは不明である。

なお、「エルサレムへの道」と呼ばれる聖堂のものは、信者が外周部から中心まで祈りながら膝行するので、

エルサレムへの巡礼に例えられた。


 バロックの時代(1600年〜1750年)になって迷い道や行止りのある迷路が登場し、各地の庭園に遊びの場として造られるようになった。

イギリスにおいては、大聖堂には芝の迷宮が作られ、アルクバラやサフラン・ウェルデンなどに見られる。

これらは啓示を受けるためであると考えられている。



▼中世のスカンジナビア:トロイタウン

 中世において、スカンジナビアでは500を超える教会とは関係ない迷宮が作成された。

これらの資材は海岸の岩で作られており、シンプルな構造で作られている。

英語では、これらの迷宮をトロイタウンと呼び、漁業関係者が作ったものと考えられるが、作成理由は不明。



▼古代エジプト:モエリス湖岸の階段ピラミッドと地下迷宮

 ヘロドトスの迷宮伝説:クレタ島の迷宮はこの百分の一


 迷宮というのは「内部が迷路のようになっていて入ったら出られなくなる」というような建造物のことだが、古代エジプトにはそのような迷宮があったと伝えられている。

歴史家ヘロドトスをはじめ、プリニウス、ストラボン、ディオドロスといった古代ギリシアやローマ人たちが、この迷宮について書き残している。 


● 古代ギリシアの歴史家ヘロドトス: - ヘロドトス(前5世紀)の『歴史』(巻二の148)-

・地上と地下の二重迷宮:

「十二王は共同で記念物を残すことを決め、モエリス湖(モイリス湖)のやや南方、“鰐の町”といわれる町とほぼ同じ線上に、“迷宮”を建てた。

 私は自分の眼でこの迷宮を見たが、それは誠に言語に絶するものという他はない。

   (略)

 もちろんピラミッドもその規模は筆舌に尽し難いもので、その一つ一つがギリシアの巨大な建造物を多数合せたものに匹敵するものであったが、迷宮は、そのピラミッドをも凌駕するのである。

 迷宮には屋根のある中庭が十二あり、そのうち六つは北向きで、もう六つが南向きであり、正面入口が相対し、且つ全てに接続しており、同じ外壁で囲まれている。

部屋は二層を成して地下室とその上に建てられた上部の部屋とがあり、 部屋数は各層がそれぞれ千五百、両層合せて三千ある。」と、ある。


 つまりこの迷宮は、地上と地下の二層構造になっており、それぞれに千五百の部屋があるというのだ。

そしてこれらの部屋が中庭や柱廊で結ばれ、複雑に入り組んでいたようだ。


 ただしヘロドトスが見学を許されたのは、迷宮の地上の部分だけで、地下に入るのは許してもらえなかったという。

地下の迷宮は、諸王の遺骸などを納めた聖なる場所だということである。


・階段ピラミッド:

 また、迷宮のそばには「四十オルギュイア(1オルギュイアは約1・8メートル)」つまり70メートルほどのピラミッドが建っていたともいう。


・モエリス湖とピラミッド:

 ヘロドトスによれば、「このような迷宮よりもさらに大きい驚異であるのはモエリス湖と呼ばれる湖であるが、 迷宮はこの湖の附近に建てられているのである」とあり、迷宮のそばにある巨大なモエリス湖はさらに驚嘆の的であるようだ。


 この湖はナイル川から水を引いて造られたもので南北に長く伸び、周囲は3600スタディオン(1スタディオンは約180メートル)つまり約650キロにもなるという。

しかもこの湖の中には、なんと水面上の高さが90メートルほどのピラミッドが2基建っていると伝えている。

……考えるに、それはそう見えるだけで、水面に富士山が上下反転した形で映り込む逆さ富士のようなものの比喩・暗喩の類なのだろうか?


・ファユーム地方ハワラにあるピラミッド:

 ヘロドトスが伝えるこのモエリス湖や迷宮・ピラミッドは、現在のエジプト学では、中部エジプトのファユーム地方にあるカルーン湖や、ハワラにあるピラミッド周辺のことだと考えられている。


 実はファイユーム地方は海面より低い盆地になっていて、ナイル川を水源とする支流が広大な湖を作っています。

このため水に恵まれたファイユーム盆地は、エジプト最古の新石器文化の地であり、また中王国時代には開発が進んで、穀倉地帯となり古代より栄えていました。

なお、ナイル川流域での農耕の開始をもって新石器時代の開始とされている。

農耕(植物栽培)については現在確認できる最古の例は紀元前5000年頃のファイユームで発見された麦であるが、紀元前6000年頃にはソルガムやミレットが現在の西部砂漠地方で栽培されていたとする説がある。


 近くには、中王国時代のハワラのピラミッドやエル・ラフーンのピラミッドがありますが、このハワラのピラミッドは先代の父王センウセレト3世の時代から続く中王国時代最盛期の王第12王朝のアメネムハト3世(紀元前1800年頃)が建てたもので高さは推定約60メートル。

かつてその表面は石灰岩の板で覆われ輝いていたが、今ではすべて剥ぎ取られた為、また日干し煉瓦で造られている為、今では崩れて小山のようになって泥レンガの核の部分だけが残っている。


 なおピラミッドは周壁で囲まれており、ピラミッドの南側に大きな葬祭神殿の跡がある。

今では完全な廃墟となり、ほとんど何も残されていないのだが、この神殿跡こそがヘロドトスの伝える迷宮だったと考えられているのだ。


・モエリスとクロコディロポリス(現在のファイユーム):

 このエジプトの伝説の迷宮とかモエリス湖というのはエジプトの最初期の時代から存在したようで、少なくとも伝説には、そう思わせる余地がある。


 モエリス湖は、かつてアフリカ大陸の北部にあったと考えられている古代の淡水湖で、面積は1,270 km2から1,700 km2だったとされている自然の湖。

湖の縁にはエジプト最古の新石器文化でファイユームA文化があった。

湖についての最初の記録は紀元前3000年頃のものでメネスの治世期間である。

紀元前2300年頃にはこのモエリス湖とナイル川とを結ぶ運河が作られた。

実は、モエリスというのは「大きな運河」という意味である。


 アメンエムハト3世の治世中、祖父のアメンエムハト2世の時代から長年継続されてきたファイユームの干拓事業が完成した。

これにより農業生産は飛躍的に増大し、同時にエジプトの経済成長もピークに達し

アメンエムハト3世はダハシュールとハワラに2基のピラミッドを造営している。


 1人の王が複数のピラミッドを築くのは古王国時代のスネフェル王以来の事だった。

うちハワラのピラミッドの近くに建設された巨大な葬祭殿はクレタ島のクノッソス宮殿とよく比較され

「本物のラビリントス」などと形容された。


 古代エジプトの12の王朝にわたって施行された湖を巨大な貯水池に作り替えようという大規模な工事の結果、湖はまるで人工的に掘られたものであるような印象を与えることとなり、実際古代の地理学者や旅行者はそのように伝えている。


 なお、モエリス湖は古代の淡水湖であり現存しない。

最寄りのナイル川の支流が紀元前230年頃から縮小したため、湖は最終的に放棄されることとなった。

現在衛星画像で見られるエジプトのナイル川沿いにある、カイロ以北のデルタ地帯が大脳でナイル川が脳髄ならば、小脳にあたる謎の緑の部分である。(ナイル川が運んで来た肥沃な黒土(ケムト)がある為)しかし全てが消滅したわけではなく202 km2が塩水湖のカールーン湖として現存している。

なおカールーン湖の湖面も海面下43mに位置する。


 カールーン湖はエジプト中西部ファイユーム県にありカイロ南西約 60~100kmに位置する海水面下の浅い湖。

長さ40kmの細長い形で面積約 230km2。

かつてはファイユーム・オアシスの大部分を占め前450年頃訪れたヘロドトスは、

湖はモエリス王によって掘られた人造湖であると記している。

初めはナイル川氾濫期の広大な遊水湖であったがプトレマイオス2世により一部干拓され農耕地となった。


 また、モエリスという名はエジプト語で「大きな運河」を意味する「mer-wer」がギリシャ語に借入されたものである。

この事業を始めたアメンエムハト3世もモエリスという名で知られていた。

古代エジプトでは、この湖は「湖」「澄んだ湖」「オシリスの湖」などさまざまな名でも呼ばれていた。

エジプト中王国の時代は、湖の周辺の一帯をもさして「mer-wer」と呼ばれていた。

同様に、後期エジプト語で「海」を意味する「Piom」は、もともとモエリス湖のみを指す単語であったが、やがてクロコディロポリス(現在のファイユーム)の町をもさすようになり、のちには地域全体をも意味するようになった。


 この迷宮についてはヘロドトスの他にも記録がある。

プリニウスやディオドロスなど、いろんな報告があるが、建設した王の名前や、年代については、別の意見が述べられている。


●古代ギリシアの歴史家・シチリアのディオドロス(紀元前1世紀):

 ディオドロスは、ちょっと別の迷宮伝説を残している。

彼によれば、最初の迷宮は、エジプトで最初の王とされるメネス王らしき人物が造ったというのである。

「ある者たちは次のように言っている。初期の時代の王のひとりでメナスという名の王が自分の飼い犬に追いかけられ、今日でいうモエリス湖に逃げ込んだ。すると、不思議なことに思われるかもしれないが、一匹の鰐ワニが彼を背中に乗せ、対岸まで運んでくれた。彼を救ってくれたこの生き物に感謝の意を表して、王はその場所の近くに町を築き、"鰐の町"と名づけた。彼は土地の者らに鰐を神として崇めるように命じ、この湖を鰐に捧げるとともに、その生き物に食物を与えるようにした。彼はまたその場所に自分の墓を築き、4つの面のあるピラミッドを建て、多くの人々に賞賛されている迷宮を造った」


 ヘロドトスもまた、エジプト初代の王について興味深い記述を残している。

彼はその王を「ミン」と呼んでいる。


「さてこの初代の王ミンは、ナイルの河流を堰き止めてここに干拓地を造ると、先ずこの地に町を建てたが、これが今日メンピスと呼ばれているもので、さらに町の外側の北方および西方にナイルから水をひいて湖をめぐらし、またこの町に最も語るに足る宏壮なヘパイストス神殿を建立したという」


この記述もやはり、最初の王が巨大な湖を造ったことを述べている。


●古代ローマの博物学者大プリニウス(1世紀)

 プリニウスによれば、「エジプトの最初の迷宮は3600年前に造られたもので、太陽神の神殿だったと一般に信じられている」と述べている。


 クレタ島にダイダロスが造った迷宮は、エジプトの迷宮を真似たものだというのだが、「規模はその百分の一に過ぎない」とも述べている。


 これまでに歴史的に最もよく知られた迷宮といえば、ギリシア神話に出てくるクレタ島の迷宮だろう。

クレタ島のミノス王が、名工のダイダロスに造らせたもので、ミノスの息子で半人半牛の怪物ミノタウロスが閉じ込められていたと伝えられている。


 このミノタウロスの餌食として、毎年アテナイから送られてくる若くて美しい14人の男女が迷宮に送られていたが、ギリシアの英雄テセウスがミノス王の娘アリアドネの魔法の糸玉の助けを借りて、ミノタウロスを退治するというストーリーだ。


 いかにもギリシア神話らしいスリリングな冒険譚なのだが、よく考えてみると、かなり空想的な話でもある。

この迷宮のモデルは、クレタ島にあるクノッソス宮殿ではないかとされている。

ところがエジプトの迷宮は、クレタ島の迷宮よりもはるかに古く、しかも規模も全然違うというわけだ。


 プリニウスは迷宮の内部について、さらに面白い記述を残している。

「内部には華麗な斑岩の円柱、神々の像、諸王の像、怪物の像などがたくさんある。広間のいくつかは、入口の扉を開けると内部で、ど胆を抜くような雷鳴が轟くように設計されている。ついでながら、たいていの建物は暗がりの中を横切らねばならない」


●古代ローマの地理学者ストラボン(1世紀ごろ):

 この迷宮に入ると、本当に迷ってしまったようで、ストラボンは次のように述べている。

「それはあたかも長くて複雑に入り組んだ多くの通路のようである。そのため、誰もが迷ってしまい、ガイドなしには入ることも、出ることもできなくなってしまうのである」と、本物の迷路だったわけであるがストラボンはまた、「この建造物の端には、墓つまり四角いピラミッドがあり、そこに葬られている男の名前はイマンデスという」とも書いている。


 この「イマンデス」という男の名前が、第12王朝のアメネムハト3世の別名「メインデス」に近いことから、迷宮をこの王に結びつけているようだ。


 「12人の王」というのを、「第12王朝」とみなし、「モエリス湖」を今日の「カルーン湖」とすると、中王国第12王朝のアメネムハト3世がハワラに建てたピラミッドの周辺が考えられる。

現在の考え方は、このあたりから来ているようである。



▼蛇足:

 このような記録を見ると、著述家によって言っていることはまちまちである。

彼らは実際に迷宮を見て、その中に入ったと述べているのだが、一方で、古い伝説を語っているようなところもある。

迷宮やモエリス湖が造られた年代も、プリニウスやディオドロスによると、紀元前3600年、あるいは最初の王の時代とされ、非常に古い時代から存在したことを思わせる。


 非常に古い時代……ナイル川の狭隘な沖積平野と河岸段丘を生活の舞台とし、そこから僅かにでも離れると不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプトと、ナイル川の広大なデルタ地帯が扇状に広がり、一面の緑が広がり海に面した下エジプトでは、その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達したのだが、上エジプトと下エジプトの結節点近くには、ファイユーム低地地方が存在した。


 よくある航空写真などで見ると、縦の緑の線の左にある横になったハート形の緑がファイユーム低地だ。

この地はナイル川からおよそ30km離れていても現在でも緑に覆われている。

エジプトのデルタ地帯に次ぐ穀倉地帯で低地(盆地)の北部には現在は塩湖になっているが、カルーン湖がある。

ナイル川の分流が流れ込んで形成されたカルーン湖を中心とするこの地方は、中王国時代に干拓が行われるまで、広い湿地帯が広がる独特の景観が形成されており、継続的に人類の生活の舞台であった。


 現在もエジプト中部のアシュート(Asyut)堰でナイル川からユースフ水路(Bahr Yussef)で水を引いている。

なお、現在のユースフ水路は古代では支流だった。

ユースフ水路はナイル川のすぐ西隣を平行して走り、上エジプトの用水路として利用され、ファイユーム低地の手前で分岐した水路はカイロまでつながっている。

かつてのユースフ水路は「ハトヌブ」という地点から分岐した支流がファイユーム低地、そしてカルーン(Qarun)湖に流れ込んでいた。



 エジプトにおける最古の確実な農耕の痕跡はこの地方で発見されており、ファイユーム文化と呼ばれている。

この文化は西アジア由来のものとされているが、放射性炭素年代測定によれば紀元前5230年頃から1,000年あまり継続した。


 エジプトにおける農耕・牧畜を有する最古の文化であり、剥片石器を中心とする石器を用い、穀物を栽培、ヒツジとヤギを飼育していた。

漁労・狩猟も未だ重要であり、ガゼルやハーテビースト・カバ・ワニ・カメなどの動物骨、魚類の骨が発見されている。

ウシも発見されているが、家畜化されたものであるかどうか不明である。


 ファイユーム文化はエジプトで初めて農耕・牧畜を導入した文化ではあったが、これによって生業は多様化したものの、未だ本格的な生産経済に基盤を置く文化であったとは言い切れない。

サイロと炉が発見されているだけで、住居や墓は不明である。

なおこのファイユーム文化と、終末期旧石器時代の文化の間には1,000年以上の時間的隔たりがあることが判明しており、学者の中には農耕・牧畜の技術を持った人々が外部からファイユームに移動してきた結果、古代エジプト王朝の基礎を築いたとする主張する者もある。


 また、遺跡は現在の湖水面よりはるかに高い場所にあるのだが、その理由は、カルーン湖の水位変動という古環境にある。

湖はナイル川とつながっているため、降雨量の増減による川の水位と地下水位に大きく影響を受け、これまで水位変動を繰り返してきた。

現在のカルーン湖の水位は海抜-45mときわめて低いが、ファイユーム文化の時期は海抜+15mと水位がとても高く、その湖畔で人々は生活していたため、標高の高い場所に形成されたのだ。

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