第二章『新生活』(3)

 一時限目の授業は、体育館でバレーボールだった。

 才人は壁際に座って他のチームの試合を眺める。

 糸青はコートの真ん中に突っ立ち、ボールが来てもぼーっとしている。

 頭にぶつかったり、顔にぶつかったり、体の側面に直撃したり、まるでボールを吸い寄せるブラックホール。当たる度に小さな体が吹き飛ぶが、悲鳴一つ上げない。

 無言である。無言で空を飛んでいく少女は不気味である。

「ご、ごめん! ほうじようさん! 大丈夫!?」

 敵チームの生徒が心配して駆け寄ってくるが、せいは、

「だいじょぶ。死にはせん」

 と大きく構えている。北条家で最もてんりゆうに似ているのは糸青なのかもしれない。それにしてもどんどん傷だらけになっている。

 ──本当に大丈夫か……?

 さいが兄らしく気をみながら観戦していると、あかがボールを抱えてやって来た。才人の隣に立ち、視線を合わせようともしないで尋ねる。

「朝、糸青さんとなに話してたの」

「……ちょっとな」

 才人は言葉を濁す。糸青に事情を知られていたと告げたら、面倒なことになりそうだ。

「ちゃんと教えなさい。結婚のこと、糸青さんに言っちゃったんじゃないでしょうね」

「言ってない」

 自分からは。

「本当? 信用できないわ」

「本当だって。シセに話してなんの意味があるんだ」

 朱音はボールを抱き締めて遠い目をする。

「人間は意味のないことを平気でやる生き物よ……愚かよね」

「お前は何様の視点なんだ」

「だって、そうじゃない。全人類の九十五パーセントは努力も成長もなく、毎日無意味なことだけやって生きているわ」

「人類の九十五パーセントに謝れ」

 確かに効率の悪い生活を送っている人々が多いけれど、生き方は個人の自由ではないかと才人は思う。

 ボールが当たりすぎた糸青に体育教師からレッドカードが出され──バレーボールにレッドカードが登場するのを才人は初めて見た──糸青が運び出されて試合は終了となった。

「糸青ちゃん、しっかりして」「もう怖くないからね」「ママたちと一緒に安全なところに行きましょうね」「温かくて薄暗くて静かなところだからね」

 保護者の顔をした女子たちが糸青を運んでいく。小さくて人形のような糸青は、母性本能をくすぐるらしい。

 糸青は搬送されながら、才人に向かって親指を立てる。

あにくん、あとは、まかせた」

「ああ、保健室で寝てろ」

 なにを任せられたのか分からないが、自分のチームの試合なので才人はコートに出る。体育は取り立てて好きな教科ではないものの、成長期に運動で基礎体力を強化しておくことが将来のビジネスにおいても重要なことは理解している。

 さいあかは前衛のレフトとセンター、まりは後衛のセンターだった。

 朱音が才人をにらみつける。

「勝負よ。あんたにだけは絶対に負けないわ」

「同じチームなんだけどな」

「あんたを味方だと思ったことは一度もないわ」

「思えよ! 試合中ぐらい!」

 とか言っているあいだに、敵チームからサーブが入ってくる。

「……っ!」

 才人がレシーブしようと走ると、

「きゃー!?」

 朱音が全力で才人の方に突っ込んで来た。

 二人の額が激突し、大聖堂の鐘の音をほう彿ふつとさせる音が鳴り響く。才人の目の前に華々しい火花が散る。

「なにをしてる!?」

「あんたこそなにしてるのよ!? あれは私のボールよ!」

「お前のボールじゃねえ! 俺のだ!」

「はあああ!? 誰がそんなこと決めたのかしら! 世界が始まって以来、あのボールはずーっと私のボールよ!」

 才人と朱音はお互い激痛に涙を浮かべてにらう。

 陽鞠が声をかける。

「あ、あのー、二人のボールじゃないよー? 学校のだよー?」

「そういえばそうだった……」

 頭を抱える才人。つい朱音のペースに乗せられてしまっていた。

 普段は同年代の誰よりも落ち着いているのに、朱音と話しているとなぜか感情的になり、適当にやり過ごすのが難しい。それもあって朱音には関わりたくないのだ。

 ボールはコートの外まで転がり、自チームの失点になっていた。

 陽鞠が楽しそうに笑う。

「才人くんって、結構バカだよねー」

「くっ……」

 不覚である。学年NO・1の成績を誇る自分が、バカ呼ばわりされるなんて。冷静さを失ってはならぬと、才人は深呼吸をして気持ちを整える。

「よし、来い!」

 気合いを入れるが、またしてもボールを取り合ってあかと激突する。

 腹にえぐり込まれる朱音の頭に、

 ──弾丸のような女だな……。

 ぼんやり感じつつ、コートの外まで吹き飛ばされる。

 さいは血を吐きながら起き上がった。

「お前は俺を殺したいのか!? 試合中なら無罪になるとか思ってるのか!?」

 朱音も口の端から血を垂らしている。二人ともまんしんそうである。

「私の進む方向にあんたがいたのよ! 邪魔しないで!」

「邪魔してるのはそっちだろ!?」

「ブルドーザーの前に飛び出すあんたが悪いのよ!」

「自分のことをブルドーザーと表現していいのか」

 見た目だけはれんな女の子には似つかわしくなかった。

「とにかく次はじっとしてろ! もう交代でボールを拾いに行った方がマシだ!」

「うぐぐ……」

 朱音は悔しそうに拳を固める。あからさまなファイティングポーズである。油断したらリングに沈められそうな脅威に、才人は身構える。

 自分がボールを取ると宣言した以上、失敗するわけにはいかない。

 全身の神経を研ぎ澄まし、第六感のささやきに耳を傾け、敵のコートから飛んでくるボールの軌道を高速で計算する。

 ──今だ!

 才人が軽やかに跳躍したとき、その膝が朱音の顎に直撃した。

 交代でボールを拾うなどのぬるい交渉は通用しない。なにがなんでも自分がボールを取りに行く。それがさくらもり朱音という少女である。

 二人はもつれ合うようにして体育館の床に倒れ込む。

 あおけの朱音に才人がのしかかり、押し倒したような体勢。体操服がまくれ上がり、細い腰があらわになっている。髪は床の上で乱れ、胸が大きく上下している。

「バキッていったぞ!? 砕けてないか!?」

 才人はさすがに心配になり、朱音の顎をさする。

 朱音の見開いた瞳が、じわりと潤んだ。

「こ、公衆の面前でこんなことするなんて……いくらふう──」

 いくら夫婦だからって、と叫ぼうとする朱音の口を、才人はとっさに塞いだ。

「むがー! むがむがむが!」

 朱音はじたばた暴れるが、才人は手を離さない。報復は恐ろしいけれど、このまま情報がろうえいするのはもっと恐ろしい。

 あかさいを突き飛ばして拘束から抜け出した。

 はぁはぁと息を荒くし、才人をにらえる。

「へ、変態だわ……授業中に女の子に淫行を働く犯罪者だわ!」

「淫行なんてしてない!」

「されたわ! もう少しでお嫁に行けなくされるところだったわ!」

 もうお前は嫁に来てるだろ! と突っ込みたくなるのを才人はこらえる。

 朱音はバレーボールを盾代わりにして身を守っている。

 遠巻きに眺めるクラスメイトたちがささやく。

「またやってる……」「飽きないよねえ」「仲良すぎでしょ……」

 生温かい視線。

「またやってるって、なんだ?」

 才人が疑問を浮かべると、まりが笑った。

「知らないの? 朱音と才人くんってしょっちゅうケンカしてるから、うちの学校の名物になってるんだよ? リアルカップルチャンネルとか、夫婦めおと漫才トップツーとか」

「ふ、夫婦じゃないわ────────!!」

 朱音は真っ赤になって否定するが、しかし夫婦だった。



 学校でも犬猿の仲の二人が一緒に暮らして、く行くわけがない。

 才人がリビングで本を読んでいると、キッチンから朱音の悲鳴が聞こえた。

「どうした?」

 カウンター越しにキッチンをのぞむ才人。

 帰宅したばかりの朱音が、制服姿でスーパーの買い物袋を提げている。

「なによ、これ! ジュースばっかりじゃない!」

 ドアの開いた冷蔵庫の中には、パックのジュースがぎっしりと詰まっていた。

「ああ、俺が買ってきたんだ。濃縮野菜ジュースだ」

「食材が入らないわ! なんで野菜ジュースばっかりこんなに買ったの!?」

「野菜ジュースは栄養バランスがいいからな。ビタミンたっぷりだし、これさえ飲んでいれば健康だ」

「健康じゃないわよ! ビタミンだけじゃなくて、炭水化物とかもらないと」

「ああ、それなら。ちゃんと用意している」

 才人は食器棚の扉を開けてみせた。

 上から下まで積み重ねられているのは、古今東西のカップ麺だ。学年一位の頭脳によってタワーが隙間なく構築され、空気中のカップ麺濃度は限りなく百パーセントに近い。

「きゃ────!」

「悲鳴が出るほどしそうか? そうだろう。カップ麺は安い・早い・うまいの三拍子がそろった完全食だからな」

 さいは誇らしい気持ちでいっぱいだった。

 あかは深刻な面持ちで頭を抱える。

「一応聞いておくけど……タンパク質は?」

「人類にはプロテインがある」

 才人はシェイカーを高らかに掲げた。床にじかきしていたビニール袋から、業務用のプロテインも取り出す。

「見ろ。ホエイとカゼインが絶妙な比率で配合された、理想的なプロテインだ。この栄養バランスの素晴らしさ、知らないとは言わせない」

「知らないわよ、そんなの!」

「お前も飲むか?」

「飲まないわよ!」

 せっかくの提案を突っぱねる朱音。

 仕方なく、才人は自分だけシェイカーにプロテインと野菜ジュースを入れ、丁寧にシェイクし始める。

 朱音は身震いした。

「あんた……もしかして、これからカップ麺と野菜ジュースとプロテインだけで生きていくつもり?」

「一番簡単な料理だからな」

「料理じゃないわよ、断じて! 特に今あんたが作ってるのはヘドロよ!」

 才人は眉間にしわを寄せる。

「失礼だな。このクソまずい液体を美味しいと感じて飲めるようになるまで、どれだけ時間がかかったと思っているんだ」

「自分の味覚をだまさないで!」

「騙してはいない。させたんだ」

 胸に手を添えてしく告げた。

 朱音は腕組みして床をにらみ、ぶつぶつとつぶやく。

「天才は変人が多いって、本当なのね……想像以上に危ないわ……放っておいたら死にそうだわ……死んだら結婚の報酬もなくなる……それは困るわ……そうよ! 私がなんとかしないといけないわ! これは自分のためなのよ……コイツのためじゃないわ!」

「お経でも唱えてるのか?」

「違うわよ!」

 顔を上げるあかさいぐに指差して告げる。

「あんたがやってるのは、料理じゃなくて科学よ! 私が本当の料理というものを教えてあげるわ! そこに座って待ってなさい!」

「いや、俺にはこのエリクサーがあるし……」

 才人はココア色のプロテイン粉末と緑色の野菜ジュースをしっかりと混ぜ合わせたスペシャルドリンクを朱音に差し出す。

 朱音が肩を跳ねさせた。

「その毒物は近づけないで! おぞましいからさっさと捨てて!」

「捨てるものか……食べ物を粗末にするわけにはいかない」

「それは食べ物じゃないわよ!」

「俺の力作を愚弄するとは……」

 才人は奥歯をめながら、特製プロテインをシンクに流す。排水溝にまれていくまがまがしい液体の恨み、いずれ晴らさねばならない。

 朱音は高校の制服の上から、可愛かわいらしいピンクのエプロンをつけた。腰を折って後ろでひもを結び、髪を跳ね上げて、ふふんと鼻を鳴らす。

「ちょっとテンション上がってるな」

「あ、上がってないわよ! あんたとは比べ物にならない料理の腕を見せてあげるから、覚悟してなさい!」

 やっぱり少し楽しそうだった。



 キッチンで卵をぜ、卵焼き器に流し込みながら、朱音は意欲に燃えていた。

 妹のため体に良いものを作ってあげていたから、料理には自信がある。テストの総合成績はなかなか才人に勝てないが、家庭科のテストは何度か勝っている。

 それに加えて、才人のこの生活力のなさだ。プロテインを料理と呼ぶ辺り、自分でまともな料理などほとんどしたことがないのだろう。

 朱音は箸でくるくるとテンポ良く卵焼きを巻いていく。小学生の頃に作ったときはスクランブルエッグになってしまったが、今は慣れたものだ。

 形良くふんわりと焼き上がり、ダシと卵の薫りが湯気となって吹き上がってくる。包丁で端を落としてやると、黄金に輝く断面があらわになる。

「よしっ」

 朱音はできばえに満足してうなずいた。

 才人がちらちらとこっちを見ているのが分かる。おなかかせた犬のような顔。言われた通りに待っている宿敵の姿に、朱音は優越感を覚える。

 あれはあかからエサをもらうのを待っているのだ。今に限っては、飼い犬のようなものだ。どんなに偉そうにしていても、胃袋を握られた人間はご主人様に逆らえない。

 朱音は豚肉をでて皿に入れ、トマトとキュウリを周りに並べる。豚肉の上から大根おろしとネギ、カイワレを載せ、ポン酢をかける。

 これは朱音の得意料理の一つだ。あっさりしていて、満足感もあり、栄養価も優れている至極の逸品。妹の評価はいつも上々だった。

 これを食べたら、きっとさいは目を丸くして驚くだろう。朱音の能力の素晴らしさに気づき、しいと朱音をたたえ、心の底から感謝するだろう。ずっと才人には勝てなかったが、今度こそ一泡吹かせてやれるのだ。

 想像すると、朱音の体の奥底から笑いが込み上げる。

「ふふふふふふ……」

「なに笑ってるんだ、気持ち悪いな」

「失礼ね! あんたの夕ご飯を作ってやってるのよ!?」

「最後のばんさんか……毒が入ってるのか……」

 才人はおびえている。

 ──相変わらずコイツは腹が立つわ!

 朱音は肩を怒らせて料理を続けた。

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