第3話貴さま、後白河の帝
俺の身体を円の中心にして、風が走る。
政子に向かって手を伸ばしかけていた女生徒が、その風圧に弾かれて後ろに吹き飛んだ。
風は静の取り巻き数人を弾いた後、その後ろで仁王立ちしていた静のスカートを舞い上げ、スカートの中の下着を露にした。
しかし静は腕を組んだまま、舞い踊るスカートを抑えようともせずに突っ立っている。
衆人の目に晒されたそのパンティーの色は烏の濡れ羽色。つまり黒。
繊細なレースが鳥の羽のように優美なラインであしらわれ、白い肌との対比が美しい。
俺は思わず見惚れた。
意外だったのはその見事な太腿。
静は小柄ながら肉付きはよく、でもしっかりと鍛え上げられたことがわかる良い筋肉をしていた。
うむ、眼福だ。
俺は、顎を撫でて、うんうんと頷く。
静よ、そなたをどうこうしたいとはまるで思わぬが、だが目の保養にはなる。
……が、そこで俺は後ろからの気配にハッとして、彼女に向き直った。
「すまん、政子! これは正当防衛……っつーか不可抗力だっ!」
叫んだ俺の目の前には、目をぱちくりとさせている政子。
「え?」
「あ……」
しまった。
この政子は、せーこちゃんだった。
せーこちゃんには政子の記憶がない。
つまり俺が浮気をしても怒らない。
それは寂しいが、ある意味とってもほっとする事実でもある。
……じゃなくて!
しまった、しまった、しまったよー。
失敗したした、しちまった。
慌てたもんだから、つい力を使っちまったじゃねーかっ!
「今の……何?」
政子が呟く。
「え? 何? 何かしら?」
「風が突然起こったように見えたけど」
「えー、嘘ー、そんなことあるわけないじゃん」
両手を身体の前で可愛く結んで、きゃるんと首を傾げてみる。
「あなた……それ、気功?」
背後から、殺気をたっぷり含んだ静の声が俺を刺す。
静かだけれど底知れぬ魔力を持ったその声に、俺は振り返ることも出来ずに硬直した。
うっわ、おっそろしい声。
ホント、こいつとは正直あんまり関わり合いになりたくない。
でも、ふと思いなす。
ん? 気功?
ま、気功っちゃ気功か? 気を使うんだもんな。
うん、そのセンでいこう。
「はい、気功でっす」
そういうことにしておいてくださいな。
えへ、と振り返った俺。
でも静の目は疑わしそうに俺を睨みつけたまま。
ま、そりゃ、そっか。
あれほど人を飛ばせるのは、合気道の祖・植芝盛平先生くらいのもの。そのへんに普通にいるもんじゃない。
でも、今はそれで押し切るしか無い。
睨み合う俺と静。
その目の端で、ざわっと空気が動いた。
そこには長い黒髪、真っ赤な口紅、身体にぴったり張り付いたピタピタのセクシースーツを着た長身の美女が立っていた。
「失礼、通してくださいな」
ハスキーな声、まっすぐ綺麗に通った鼻梁、切れ長の瞳。
俺は頬を引き攣らせた。
こいつ、雅仁じゃねーか。
が、普段の雅仁はベリーショートの髪に白い着物と黒い袴、または学校の制服だ。
もしかして、変装して逃げ出すつもりかよ。
それが義経の案によるものなのか、本人のおふざけによるものなのかは知らないが。
ま、でも政子にバレずにここを通り抜けてくれるなら、それでいいか。
そう思って、俺が素知らぬ顔で横を向いたら、
その長身の女、いや雅仁は俺の前で立ち止まって小さく口を開いた。
「陰陽術は皇室管轄のもの。みだりに使うべからず」
顔を上げたら、冷たい蛇のような目が俺を睨みつけていた。
こいつ……
さっきの見てやがったな。
俺は睨み返す。
「陰陽寮は明治に解体されましたし問題ないかと存じますが?」
雅仁は口の端を軽く上げた。
「まったく。陰陽師を鎌倉に引き抜きおって。その術まで身につけたか」
苦々しげな口調。でも、その薄い笑みは変わらない。
俺はへらっと笑った。
「いいだろ、安倍国道らは京より鎌倉がいいって言うんだからさ」
もう尊敬語なんかクソくらえだ。
俺はすっかりぞんざいな口調になると、にやにやと笑って雅仁と対峙した。
すると雅仁の顔も、至極楽しそうにぐにゃりと歪んだ。
「ほぅ、色仕掛けで誘ったか? その人好きのする顔と身体で」
雅仁の長い細い指が俺の顎にかかる。指は撫でるように首筋を這うと肩の先まで行って止まった。
くすくすと雅仁は笑う。
「相変わらず肌艶が良いな。どうだ? 今宵あたり月を肴に……」
瞬間、ぞわりと甦る遠い過去の屈辱。
「ざっけんな!」
叫ぶと、俺は雅仁の手をぱん、と払った。
目の前でさらさらと流れる黒い髪を思いっきり引っ張る。
するとそれはずるりと落ち、現れたのはベリーショートの明るい髪色。
「きゃあっ!」
黄色い歓声が上がる。
「雅仁さま……!」
瞬時に、辺り一面ピンク色のため息が充満した。
「あーあ、折角変装してたのに」
髪をぐしゃぐしゃと掻き乱し、でも雅仁は全然残念そうでなくそう言う。
その顔は愉悦に満ちていた。
雅仁は、身体に張り付いていたスーツの上衣を脱ぎ去った。
中から現れたのは、彫像のような見事なボディライン。
適度に鍛えられた美しい筋肉。きめ細やかな肌は透き通るような白。
黒いシンプルなタンクトップが、それをまた引き立てている。
くそっ、負けてる。
俺はそう思いながら、その身体美をまじまじと見据えた。
中でも一番負けてるのは、あの胸と腰だ。
雅仁の胸はたわわに実った瓜のように綺麗な丸みを帯びている。
そして、その腰はきゅっと締まり、出来の良いひょうたんのようにくびれていた。
俺なんか、いまだに幼稚園児体型だって言われるのに。
幼稚園体型ってわかるか? 腹が胸より出てるってことだぞ?
そう言えば、昔よくこいつに言われたっけ。
『そなたは武士のくせに腕が細いのぅ。腹はまるまる柔らかく、まるで童女のよう。愛いやつじゃ』と。
思い出して、イラっとする。
自分だって帝のくせに和歌も武道も学問もセンスなくて、今様ばっか唄ってたヒョロ男だったクセによくも言う。
ん?
ああ、言い忘れてたけど雅仁は女だ。
俺も女だから「雅仁も女」って言い方になるのか?
なんの因果か知らないが、俺も後白河院も性別が変わって生まれ変わってしまったらしい。
ギリギリと睨み据える俺から離れ、雅仁は静の方に向かってゆっくり歩き出した。
ピンク色に染まった周囲を見渡して、ふんわりと笑う。
「なんか大騒ぎになってるみたいだから、こっそり逃げようかと思ったんだけど、見つかっちゃったね」
先ほどの極悪人の顔から一変した雅な笑顔。
その視線の通過点にいた女生徒達がバタバタと失神していった。
俺は横を向くと、けっ! と舌を出す。
雅仁は、まだ腕を組んだままの静に向かってやんわりと声をかけた。
「静、そんなに厳しく取り締まってはいけないよ」
静は雅仁の声にハッと姿勢を正す。
でも、そのかけられた言葉に対しては眉を上げて反論した。
「ですが雅仁さまは大事な御身、万が一のことがあっては……!」
続けようとする静に、雅仁は右手を軽く上げてそれを制する。
「それより、これだけたくさんの女の子が集まってくれたんだ。それもお菓子を持って」
両手を広げ、ぐるりと周りを見回して悠然と微笑む。
それは、帝位に就き人の注目を浴びることに慣れた人間の所作。
「今日は部活などやめてパーティーにしよう。さあ皆、道場に入るがいいよ」
雅仁が高らかにそう告げた途端、女子達は一斉に武道場に向かって駆け出した。
だが、不思議なことに押し合いにはならない。
入り口の所で、それぞれ落ち着いて靴を脱ぎ、丁寧に靴箱に収めていく。
気付けば、静の取り巻き達も、列に並んでいた女子達も、文句ありげな顔をしていた女子達も、皆笑顔で互いに順番を譲り合いながら吸い込まれるように道場に入っていった。
だが一人、静は長机の横で納得がいかない顔で眉をしかめながら雅仁を見ている。
雅仁はそっと口の端を持ち上げ、長い指を伸ばして静の真っ直ぐな黒い横髪を中指でさらりとすくうと、顔を覗かせたその耳に何かを囁きかけた。
途端、静の顔が真っ赤に染まり、そして静はうっとりとした顔をするとスキップしながら武道場の中へと吸い込まれていった。
おいおい、一体何を言ったんだ?
雅仁が振り返る。
「さて、君は?」
君。
その言葉の対象は俺ではなかった。
俺はぎくりと自分の横を向く。
そこには、真っ赤な顔をして立つ政子がいた。
「君は、宴には参加してくれないのかな?」
雅仁は、ついと政子に顔を寄せる。
俺なんか完全無視だ。
でも俺は動けなかった。
なぜなら、俺は雅仁に完全にマークされている。
俺の弱点は政子。それを知られるわけにはいかない。
緊張で、ごくりと喉が鳴る。
「わ、私は……」
政子が、震えた掠れた声で口を開く。
くそっ。そんな色っぽい声、こんな所で出すなよ。
「同じ弓道部の子だよね?」
「は……はい」
政子が顔を上げる。その顔は感動したように紅潮していた。
俺も驚いて、雅仁の顔を見た。
弓道部は雅仁のせいで、幽霊部員も入れると部員200名という大所帯だった。
一人一人の顔なんか覚えられるわけがない。
まさか後白河の野郎、政子にチェック入れてたのかよ。
「今日はご覧の通り、部活が出来なそうなんだ」
「はい」
「だから良かったら、君も一緒においで」
「あ、はい、あ、いえ」
肯定なんだか否定なんだか分からない返事を政子はする。
雅仁の手が政子の手にしていた袋に伸びた。
「これは……黄櫨染かな」
「え?」
「太陽の光が射した時に色が変わった。綺麗な蘇芳の色に」
蘇芳色というのは茶色というか赤というか、少し黒味を帯びた赤色のことだ。
よく見れば、確かにさっきまで政子が手にしていたのは薄い藤色だったのに、今見ると色が赤に変わっている。
雅仁は優美にゆったりと微笑む。
「貰ってもいいかな?」
甘美な声。
支配者としての抗えない響きを存分に含んだ。
俺は、拳を強く、強く握りしめた。
くそっ、政子のチョコレートが雅仁に渡ってしまう。
が、その時不思議なことが起きた。
「これは……違うんです」
政子が、ぼそりとそう呟いたのだ。
「え?」
「これは違うんです!」
政子は叫ぶようにそう言うと、紙袋を引ったくるようにして胸に抱えた。
首を大きく横に振る。
それからガバッと頭を下げた。
「ごめんなさい!」
俺は驚いて政子を黙って見つめた。
だって『雅仁に渡す』って言って持って来てたはずなのに?
その時、ふと何気なく雅仁を見た俺は、文字通り凍りついた。
雅仁の目がすっげー危険な色を帯びている。薄い鳶色の瞳だった筈が、黄色っつーかオレンジっつーか、とにかく色が変わってんだ。それに切れ長だった筈が今は爬虫類系の三角とか四角の角ばった形に変貌してて
こりゃ蛇どころか龍だ。いや魔物だ。大魔神だ。閻魔大王だよ。
な、なんだよ、チョコ貰えなかったくらいでキレるなよ!
てめー、女子の全員が全員、自分のファンじゃなきゃ気が済まないのかよ!
命令に従わないと許さないっつーのかよ。冗談じゃねーよ。
今は帝でも上皇でもないんだから、日本人全員がお前の言う通りにならなくったって仕方ねぇんだぞ。大体、在位期間中だって上皇になってからだって、清盛にしろ延暦寺にしろ、お前の思い通りになんかいかなかったじゃねーか。
それに今は平安時代じゃねーっての!
ちゃんと現実に気付きやがれっ!
ギリギリと歯を鳴らして睨み付ける俺さま。
その気配にやっと気付いたか、雅仁はヒュッと小さく息を呑むと、憤怒の顔を瞬時に消し去って綺麗に笑ってみせた。
「あら、そうなの? いやだ、ごめんなさい。私ったらうっかり勘違いしちゃって」
やだ、恥ずかしい。
そう言って、両掌を頬に押し当て、可愛気な仕草で照れ笑いをしてみせる。
おいおいおいおい。
背筋が凍るのを感じて、俺はぶるりと身震いした。
俺からはどう見ても日和見主義で嘘八百、日本一の大天狗野郎なのに、ハタからは、ちょっとドジで憎めなくて超美形だけど愛嬌のある好感度ナンバーワンの人間に見えてることだろう。
この時、改めて俺は誓った。
前世に引き続き、出来る限り今生でもこいつ……後白河院とは距離を取って生きるぞ!
俺が頼朝だってバレてるけど、だから色々ちょっかい出してくるだろうけど、でも知ったことか!
タッ!
その時足音がして、はっと気付いたら政子が踵を返して走り去っていた。
「ま……せーこちゃん!」
俺は思わず彼女の名前を口にしかけ、それから慌てて言い直す。
「じ、じゃあ、また!」
二度と会いたくないくせに、ぜってー関わり合いになりたくないと思っているのに、日本人として挨拶を徹底された俺は一応そう口走るとその場から逃走した。
いや、逃走しようとした。
だが、そんな俺にかけられる、圧倒的な威厳を持った声。
「ヨリトモ」
俺はぎくりと足を留める。
名を呼ぶのは、頼朝が生きた中世では相手を縛ることと同じ。
だから身分の低い者は、上の者に対してけっしてその名を口にしてはいけなかった。
逆に、身分の高い者は相手を縛る為にその名を口にした。
まるで式神を操るように。
俺の視界の端で、政子の長い髪が校舎の陰に隠れるのが見える。
俺はゆっくりと振り返った。
あれだけいた女生徒達は皆、揃って武道場に入っていて、その武道場入り口のガラス戸の向こうから静がこちらを睨み据えている。
「ああ、また会おうぞ」
ゆったりと美しい微笑みをたたえて、雅仁はそう紡ぐ。
それから、形の良い胸を揺らして武道場の中へと入って行った。
俺は黙ったまま、それをしばらく見送った後、踵を返して政子が向かった方向、校舎に向かって駆け出した。
胸は揺れない。揺れるほどの大きさを持っていないから。
でも……
「ぜってぇ、あいつには負けないからな」
呟く。
「あいつより先に手に入れてやる」
後白河院が、今この世に現れた理由、目的。
それは多分俺さまと同じ。
十種の神宝。
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