第五章 重なる想い、重ならない想い4
万年筆の音だけが響く部屋の中に、ルベールの姿はあった。
椅子に座り、ひどく集中した様子で机に向かい、手にした万年筆を動かしていたルベールだが、しばらくして手を止めた。
「花に群がる害虫はしつこくていけないね……」
誰にでもなくつぶやくと、ルベールは椅子から静かに立ち上がった。
「そんな害虫は早めに駆除しないと」
そう言うと同時にルベールは何かを投げ付けた。
投げたのは上からの支給品である万年筆だ。
何の変哲もない万年筆をルベールは狙いを定めて、正確に投げてみせた。
その証拠にルベールの万年筆はルベールに襲いかかろうとしていた男の手に深く突き刺さっていた。
「ぐっ……」
思いがけない反撃にあった男は痛みに声を上げる。
その声はただの万年筆が刺さったとは思えないような痛みを聞く者に訴えていた。
しかし男の声を聞く者はルベールただひとりであり、男を見るルベールの瞳は冷ややかなものだった。
「馬鹿だね、君は。この僕を怒らせるなんて」
ルベールは胸ポケットに挿していた万年筆を手にした。
「ペンは剣よりも強しという言葉を知っているかい?」
「お、お前……まさか、何か細工を」
「これでも僕もヴォルド家の人間だからね。これくらいのことはできて当然だよ」
ヴォルド家はこれまでに多くの騎士を輩出してきた家ではあるが、同時に優秀な文官を多く輩出してきたことはあまり知られていない。
「っくそ、こんなこと、俺は聞いちゃいねえ……話がちがうじゃないか!」
「僕は持ち替えただけだよ。剣をペンにね」
普段と変わらない口調でそう語りながらも、ルベールの手は狙いを外すことなく万年筆を男に投げつけた。
「君に聞きたいことは色々あるけど、とりあえずここでは静かにしてもらえるかな」
万年筆が刺さった男はうめき声を上げたかと思うと、その場に倒れた。
寝息を漏らしている男を見下すルベールの瞳はひどく冷え切ったものだった。
「いよいよか……」
そんなルベールの言葉を聞いていた者は誰もいなかった。
*****
あの日を境にカメリアとセロイスの距離は、婚約以前のものに戻っていた。
普段から共にいることは多くなかったが、今のカメリアとセロイスの間には互いを避けているような雰囲気さえ漂っていた。
そんなふたりの周囲は戸惑いを見せる者や安堵を見せる者、聞こえよがしに面白おかしく吹聴する者など、反応は実に様々だった。
あの後、ロベルトの一声でカメリアは今までと同じようにロベルトの護衛を続けることになり、その間、セロイスは兵の訓練を任されていた。
舞踏会の開催に向けて城内はひどく慌ただしくなり、先日の一件もあってか。セロイスは兵の訓練の以外に、バルドや他の騎士達とともに兵の配置など忙しくしているようだった。
そのため、ここ数日間は屋敷でもまともに顔を合わせることもなく、そんなカメリアのことを気遣ってか。メイド達がセロイスのことを色々と話してくれたのだ。
訓練以外の仕事にあたっていることもメイド達の話で初めて知ったようなものだ。
(だが、これでいい)
そもそもカメリアとセロイスの婚約は形だけのものだったのだ。
約束していた七日間が過ぎれば、遅かれ早かれ今のような形に戻っていた。
ただそれが予定していたよりも少しだけ早かっただけにすぎない。
(私がやるべきことは、己に与えられた役割をここなすことだけだ)
さすがのロベルトも舞踏会に向けて他の者達が慌ただしくしている中に城を抜け出すことはなく、聞いていた予定通りに執務室で執務にあたっていた。
それはカメリアがロベルトの護衛をつとめるようになってから初めてのことで、ロベルトが城を抜け出していることを知っているメイド達は毎日舞踏会があればいいのにと話すくらいだ。
そうして舞踏会が明日へとせまった日。
カメリアはロベルトの部屋へと呼び出されていた。
(執務室でなく、なぜ部屋に……妙なことでなければいいが)
ここ最近、真面目に執務室でおとなしくしていたロベルトのことを考えると、今になって何か妙なことをする可能性も否定はできない。
少しの不安を抱きながら、カメリアは扉をノックした。
「ロベルト様、参りました」
「あぁ、来たか。入っていいぞ」
「はい、失礼します」
部屋に足を踏み入れたカメリアの視界が赤く染まる。
突然のことにとっさに剣に手をかけようとしたカメリアをロベルトが留めた。
「待て待て、お前はせっかくのドレスを切り裂くつもりか」
「ドレス……?」
ロベルトの言葉に剣を収めたカメリアが目の前に広がる赤に目を向けてみれば、それは緩やかに広がったドレスの裾の部分だった。
「どうだ、実に美しいだろう?」
ドレスを手にしたロベルトの問いかけに、カメリアは改めてドレスへと目をやった。襟元は四角く開き、袖は襟元とは対照的に丸みをおびている。
ドレスに余計な装飾はなく、ゆるやかに広がった裾に施されたアコーディオンのような二段のレースが唯一の装飾だった。
色も落ち着いた深紅で、裾が揺れるたびに微妙にその色を変化させる。
「たしかに美しいとは思います」
しかし、何故ドレスがロベルトの執務室にあるのか。
そんな疑問を抱くカメリアに、ロベルトはそのドレスを差し出した。
「気に入ったなら幸いだ。これはお前のドレスだからな」
「お前のと言われても……私にドレスなど必要ありません」
「何を言っている。舞踏会には必要だろう。まさかとは思うが、お前、その格好で参加するつもりではないだろうな?」
ロベルトの指摘通り、カメリアは騎士の制服で舞踏会に参加するつもりだった。
騎士である自分にドレスなど必要ない。
それがカメリアの考えであり、ドレスという選択肢など最初からあるはずもなかった。
「私は騎士です。騎士がドレスを着る必要がどこにあるのですか?」
「わかっていないな。お前は」
ロベルトはカメリアの目の前で肩をすくめた。
「今回の舞踏会は紅蒼の騎士の披露と、お前達の婚約発表も兼ねている。そのような場所に普段と同じ格好で参加してどうするんだ?」
「それは……」
――舞踏会が開かれる日。
それはカメリアとセロイスの約束が終わりを告げる日でもある。
しかし紅の騎士の披露を兼ねている以上、参加しないわけにはいかない。
「それとも、このドレスでは不満か?」
「いえ、そういうわけではなく……私に似合うかどうか」
せっかくのドレスをカメリアのような者が着てしまって、ドレスがひどくもったいない気がしてならなかった。
「それなら心配ないだろう。お前に似合うものをとメイド達の意見なども参考にして俺が作らせたものだ。似合わないはずがない」
どうしてそこにメイド達が関わってくるのかが不思議だったが、ロベルトがカメリアのためにドレスを作らせたということに、カメリアはひどく驚いていた。
「作ったのですか!? それも私なんかのために」
「安心しろ。金は俺の個人的なものだ」
「そういうことを言っているわけではありません!」
カメリアはロベルトに詰め寄った。
「私は騎士です! ロベルト様は、私が騎士として隣に立つことが不満なのですか? だから女のように着飾れと……そう言うのですか!?」
考えてみれば、カメリアが騎士らしい役割を任されたことは一度もない。
仕事と言えば、城を脱走したロベルトの捜索がほとんどだ。
(結局、私は誰からも信頼されていないのか……)
信頼されていると思っていたロベルトにさえ、騎士として信頼されていないのか。
「……私が、女だからですか?」
「何を今更なことを言っているんだ?」
ロベルトは笑うとカメリアの腕を取り、自らの方へと引き寄せた。
「いきなり、何を……」
カメリアの言葉は最後まで続くことはなかった。
ロベルトの紫の瞳がカメリアを射抜いていた。
「お前は女だ、カメリア」
「そんなこと、わかって……」
「いいや、お前は何もわかっていない」
そう言うとロベルトはカメリアの腕をつかむ手の力を強める。
骨の軋む感覚に焦るカメリアとは対照的に、ロベルトはどこか楽しげだ。
「実際、お前は俺の手を振りほどくことさえできない」
「ふざけるのはいい加減にしてください、ロベルト様」
「これでもまだ冗談だと思うのか?」
まるでダンスでリードするかのようにロベルトはカメリアの手を引いたかと思うと、気づいた時にはカメリアは背中を机に打ち付けられ、その上に乗りかかるようにしてロベルトの姿があった。
「どうしてそれができないのか、教えてやろう」
ロベルトはカメリアの耳元でささやいた。
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