ひとつまみの奇跡
環流 虹向
12/24
0:00
…ああ、寒いなぁ。
彼は一人真夜中、家路を急いでいた。
彼は3年前に最愛の妻を亡くしている。
亡くなってすぐは最愛の人の旅立ちに心がついていけなかった。
昨日まで明るく元気でいた妻だったが、急な心臓病で倒れそのまま目覚めることなく、彼を残したまま逝ってしまった。
彼は妻の誕生日が12月23日なので亡くなってからも、どんなに天気が悪かろうともプレゼントのバラとスターチスの花束を持っていく。
バラの中にはまだ蕾のものがあったがこれでいい。
生前、妻が育てていた中でもお気に入りだった花だ。
少し行きは遅くなってしまったがしっかり妻に渡せて満足な彼。
しかし墓から家はだいぶ遠く、帰る時間が真夜中になってしまった。
終電ギリギリで着いたいつもの最寄り駅。
今日、雪は降っていないが手足が凍りついてしまいそうなぐらい寒く、体が上手く動かない。
しかし、この老いぼれた体で走ることも出来ず一歩一歩確実に歩を進めるだけ。
彼は気を紛らわすためにイヤフォンと小さいラジオを取り出し、イヤフォンを片耳につけた。
このイヤフォンは妻とお揃いで買ったもの。
だいぶ前に買ったもので型番が古く、修理しようと思っても出来ないくらいだ。
今は片側が一つ壊れてしまってもう両耳では使えなくなってしまった。
そんなイヤフォンから聞こえるラジオの周波数をいつも聴いているものに合わせるが、なぜかうまく繋がらなかった。
ラジオまでガタがきてしまったのだろうか。
しょうがないと適当に他の周波数に合わせるが、全く合わないのでイヤフォンを抜いてポケットにしまい、この広い街で誰とも出会わず家に向かう。
きっと、みんなクリスマスイブに向けて早く寝ているのだろう。
彼はまた一人のクリスマスを過ごすのかと肩を落とした。
妻がいた時は毎日が輝いていて色鮮やかな世界だったが、今この街はモノクロの世界で後は妻のところへ向かうカウントダウンをするだけの日々だ。
[ジジジ…]
と、自分の余命を考えているとラジオが動き出した。
さっき電源を切るのを忘れたらしい。
彼は切っておかないと電池がもったいないと思い、ポケットからラジオを取り出す。
すると、ラジオのMCの声が聞こえてきた。
[May happiness come to everyone who listens.
皆さんこんばんわ。今日から明日のクリスマスが終わるまでひとつまみの奇跡をお届けします。]
男性か女性かよく分からないが聞いていて落ち着く声だ。
周りには誰一人歩いていないので彼はイヤフォンも付けずそのまま聞くことにした。
[まずはこの曲、Ave Maria。あなたに幸多からんことを。]
ピアノが流れ女性の透き通った高い声が耳に届く。
家に帰ったらこのラジオずっとつけてよう。
そういえば妻もこの歌を歌っていたな…。
夢の中でもいいから会えないだろうか。
そんなことを思いつつ家へ向かう。
すると別のところから歌声だろうか、女性が歌っている声が聞こえた。
初めての出来事で少し戸惑ったが、家に帰ってもこのラジオを聞くことしか楽しみが見つからないのでどこで歌っているのか彼は探ってみることにした。
耳を澄ませて辿ってみるとその声は家への帰り道側から聞こえてくる。
少し歩いていると、そこは駅に向かう時にいつも通り過ぎていた無人の教会だった。
扉もボロボロであまり管理が行き届いていないイメージだったが、夜中に誰かが掃除をしに来ているのだろうか。
彼はラジオの電源を切り、中に入ってみることにした。
扉は少し重かったが音を立てることなく開けられた。
教会の中に入り、少し廊下を歩くとまた扉があり、そこを開けると礼拝堂だった。
そこの礼拝堂で女性が一人、歌っていた。
しかし目を瞑っているのでこちらには気づいていない様子。
その女性の歌声をまだ聴きたかった彼は礼拝堂に入り、1番端の柱に隠れた席に座り隠れて聞くことにした。
女性が歌っている姿を見ているとまだ彼が若かった頃、出会った当初の妻に似ていた。
彼が妻と出会った時、妻は合唱団のリーダーでとても綺麗な歌声で沢山の人を魅了していた。
親に嫌々連れられて見に行った彼だったが妻のソロのAve Mariaを聴いて涙を流した。
彼は歌を聴いて初めて涙が出たことに驚き、妻の歌声に惹かれるようになった。
元は嫌々でついて行っていたけれど妻の歌声を聴いて以来、自分の足で聴きにいくようになった。
合唱団を聴きにいく人は少し歳を重ねた人が多く、彼は舞台上から妻の目を惹いた。
何十回も足を運んでくれていることが分かり、妻は思い切って男に話しかけたのがきっかけで付き合い、結婚し一生を添い遂げた。
彼は歌を聴きながら昔のことを思い出しとても懐かしい気持ちになり、目を瞑りながら妻との様々な思い出を思い出す。
すると、だんだんと女性の声が遠くなっていく。
一日中外に出たのは久しぶりだったから疲れてしまったのかもしれない。
妻との思い出を振り返りながら、彼は静かに眠りについた。
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