災ーSAIー幽戯

冰響カイチ

序章

 



 ーーーー月のいと紅宵、おぼろなる天河に階がかかる。

 その星辰ちりばめらるたるをかなしむ人ぞしれぬ。

月輪げつりんよ、いずくんぞあらんやたげりたつ聲は天に満つ。

女神にょしん、その膝下のもと二つの星宿、宿星を正し、鬼宿、胎動をきざさん。

常しえにたゆたう魔縁のごとく、糾われた縁のごとしーーーー



 

 そう三公仙のひとり、くだんの眼をもつ李伯りはくが【月読つくよみ】なる予見を口にしたのは、かれこれ数百年も前にさかのぼる。




  §



 神市しんしを眼下にのぞむ西山の頂にもくもくと雲がわきたつ。やがてそれは人の形を結んだ。


「……すまん。宋玄そうげん、待たせたな」


どっこいしょ、と先客よりやや離れた巌のうえに座す。


彼の髪、双眸ともに白く、鼻梁はよくとおり、口元には品のよいちょび髭をたくわえととのった顔立ちをして、壮年にも老年にも見え清雅な雰囲気に包まれている。


だがその印象とは裏腹な目にも鮮やかな浅葱色の袍をまとい、腰に佩いた佩玉は風鐸とおぼしきものに翡翠の玉があしらわれ、究極の耳飾りは牛の鼻管に真珠がちりばめられている。

さしもの妖怪すら目と目があった瞬間、一目散に遁走をはかるような奇怪な風体をしている。


「いつ来ても寒いな」


戌の刻をすぎ、肌寒さと空腹、疲労感が遣る方ない。

この天をもつらぬき雪稜をいただく峻嶺なる山頂は標高のあがるにつれ、しんしんとしてとかく寒い。

身震いがこみあげ両腕をさすりあげる。

最近めっきり冷え性ぎみなこともあってか鼻の頭までもが赤らみ、どこもかしこも痛いのがどうにもこたえた。


「どうせ何も見えぬだろ、そう言いたいんだろう? だが吾の件の眼はこの世の津々浦々をも見透せる。現在、過去、未来すらも。だがいくら見えたところで月見の相手がヤローでは気もめいる」


あれ、と訝しく思い、李伯は件の眼を見ひらく。すると眼瞼に白頭翁がうつしだされた。


「な!?」


久方振りにあった旧知の友である宋玄は目がひどく落ちくぼみ、長くたれさがる白眉は白髯と一体化してまさしく仙人のそれである。


地肌がすすけてみえるわずかな白髪を無理に結いあげ、いやがうえにも目にはいる富士額がまばゆい。

その身にまとう赤茶けた袍は紙を折った衣のようによく糊がうたれそのうえに火熨斗がきっちりとあてられている。

四角四面な宋玄らしい様だった。ーーだが。


「おぃおぃ、宋玄よ、その姿はどうした?

筋肉を減量でもーーーー 」


そろりと近づき、つん、と指でつつく。


「!?」


カックンと首がうなだれた。李伯は「ひっ!?」ともらすや後退りしてその場に膝をついた。


「宋玄? どうした、返事をせぃ…………」


まさか、そう思った。

数年まえまでの宋玄は今とは違って若かれし頃の豪勇無双ぶりを彷彿とさせる筋骨隆々なる肉体美が自慢だった。

拳法家として切磋琢磨し修練をかかさない。それがこの男の生き甲斐でもあった。


それが今では吹けば飛ぶように腰まわりの肉はこそげおち、筋肉らしきものは蒸発してしまったかのように跡形もない。陥没した頬は黒くこけ頭蓋骨のうえに皮がかぶさっている。さしずめ即身仏とみまごう豹変ぶり。

そのいつにない生気の感じられぬ面差しに思わず息をのんだ。


「そ、宋玄ーーーーそなた?」


李伯はおそるおそる巌の上をはい、いざり寄って震える指をのばす。


「宋玄?」


とん、と爪の先にゴワゴワとした麻布独特の感触を感じて目算で距離をつめ、そっと耳を欹てる。


「寝ている? 肝をつぶしかけたぞ。老いると人はよく眠るとはいうが」

ククッと喉の奥を鳴らした。


途端、生き仏の眸がパチリと見開かれる。


「…………」


「宋玄、起きよ、生きておるか?」

おどけて言う。

さすれば常のような年より風をふかせた常套句がかえってくるだろう。元気な証拠だ。


「……李伯? いつ来たのぢゃ? というより近い! 何ぢゃ、男同士が横並びに座って気色が悪い。地蔵と間違われて道行く人に拝まれるぢゃろ、あっちへ行け」

しっしと手を振った。

すると李伯はあからさまにムッと顔をしかめた。


「こんな暮れかけた山になんか誰がくる?

しかもここは西山。妖怪どもの聖地にも等しい。いつ妖怪に襲われるともしれぬものを、一生もお願いされたって言下に断るだろうよ」


フン、と鼻を鳴らし李伯はすこしはなれた巌の上に座し、聞こえよがしに「切れ痔、いぼ痔、クソ爺」と忌み嫌われる三大ジジイをあげつらう。


「ん? 何ぞ申したか? 最近とみに耳が悪ろうなってのぅ?」

嘯いてみせる。地獄耳のくせして聞き逃すはずがない。ーーが、まぁいい。


「それより、あれを見よ」


くぃと顎をしゃくりあげる。それにつられるようにして宋玄も仰ぎ見る。奇しくも満月だ。


「ほぅ? 月輪が緋に染まらんとしておるのぅ」

前兆ぢゃ、と呟き目縁をゆがめた。


「なんとかならぬものかのぅ」

「ならぬものはならぬ。これもまた定めなり。すべては月の女神、月仙女の御心のままに」

「それも予見か? また身も蓋もないことを、いけぞんざいな。女神も酷なことをなされる」

「口を慎め。建て前程度に歯には衣を着せておけ。仙とはいえ首がとぶぞ」

「ぉぉ……クワバラクワバラぢゃ」

つっと拝んでみせた宋玄は閃き顔で李伯を見る。

「のぅ。人の争いには関与できぬとして、奴はどうするつもりぢゃ」

「無論、野放しにはしておけまい。奴に箍をかけるべきは明白。それは管轄だ」

それを聞き宋玄は神妙にうなづく。


「やれやれ。長かったのぅ」

「時は来たれり。では参ろうぞ。いざ、予見の地ーーーー河南へ」




そう告げるや否や一朶の雲を呼び寄せ雲散霧消し、二人の老爺は姿を消した。





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