困惑の話



 ニドに新しいことを教えるのも、回答のバリエーションを増やすのも、段々と慣れてきた。人間は慣れると余裕が出来て、そこに楽しさとやり甲斐も見い出すことができる。業務に対する苦痛が減ってきたのは良い事だ。最近はいつもの研究室へ行くことが楽しみにさえなっている。

 今日は応用的な質問にも臨機応変に対応できるようにさらに解答例を増やせないものか試行を重ねてみよう。ニドは教えたことをすぐに吸収して成長していくから、こちらもそれ相応の準備が必要だ。それは重労働でもあり、嫌な事を忘れられる時間でもあった。考え事をしながら歩くと、廊下の冷えた空気も気にならない。

「なぁ。……なぁ、無視すんなって。お前に話しかけてんだよ」

「はい」

 そのはずだったのに。背筋を嫌なものが駆け抜ける感覚があった。

 顔を覗き込まれてしまっては逃げることもできない。返事をすることにさえ抵抗があって、気乗りしない声が出た。そんな私のことなど気にもかけず彼は白々しく親しげに言葉を続ける。温度を感じない水色の照明の下、周りの研究員が横目でこちらを見ては興味を失ってすぐに歩き去っていくのが視界に入る。

「最近どうなんだ、F」

「……ニドのことですか? 順調に教育を進めています」

 そう返事をすれば、この男……わたしの上司は鼻で笑って見せる。

「いや? お前自身のことだ。最近随分と楽しそうだな」

 どうしてこの人は距離を詰めてくるのだろう。眼鏡のフレーム越しの相手の表情がよく見えない。肩が強張って足が竦む。そうか、私はこの人が怖いのか。変に冷静な感想が浮かんでは消え、乾いた唇をそっと噛んだ。

「なぁ。……上位AIの研究がしたいって言ってたよな? 口利きは必要か」

 瞬間、白衣を蛇が這ったような感覚を覚える。腰に手が回されたのだと気付くのに時間を要した。そう認識してすぐに、私はその手を叩き落としていた。

 驚いた顔の上司を他所に踵を返す。私が反抗したのがそんなに珍しいのだろうか。だとすれば少しいい気味だと思った。

「……いいえ。仕事があるので、失礼します」

 汚い。汚い。私のためを装いながら自分の欲望を押し付けてくる存在。見下しながら優位に立とうと私を踏み台にしようとしてくる浅ましさ。彼が吐いた二酸化炭素を振り切りたくて、早足で廊下を歩いた。一刻も早く、あの場所に戻りたかったのだ。 いつも通りそこにいたニドは、私の姿を見つけるといつも通り平坦な音声を流す。

「F。予定時刻を6分過ぎています」

「ごめんなさい。少し、色々あって」

「大丈夫でしたか? 顔色が良くありません」

「うん、もう平気。始めようか」

 プログラム通りだとしても、ニドは私を気遣ってくれる。私の周りの人間とは大違いだ。ドロドロとした欲望も悪意も彼の中には存在しない。清らかで透明で、何より美しく見える。

「はい。F」

 何より欲しい返事だけをくれる彼は、私にとって救いだった。

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