第12章
注文を終えると、梨花さんは改めて僕のほうに向きなおった。
「武政君、今日は来てくれてありがとね。いきなり誘ったのに」
「いえ、僕もちょうど暇だったので」
梨花さんはふっと笑顔をこぼした。
ああ、美人だなあ。
思わずそう口に出しそうになってしまい、慌てて言葉を飲み込んだ。
なんだろう、やはりこの人を前にすると緊張してしまうというか、いつもの自分でいられない感覚に陥る。
「武政君、大学にはもう慣れた?」
「あ、ハイ。まだ教室の場所がいまいち覚えられてないんですけどね」
「あー、武政君ってたしか経営学部だよね?確かにあの棟は広いもんね」
「そうなんですよ。まあ人数が多い学部ですし仕方ないですね」
他愛もない会話をしながらしばらく時間を過ごした。
梨花さんの自然さに、思わず先程までの悩みの数々を忘れてしまうほどであった。
「あの、梨花さん」
「ん?どうしたの?」
梨花さんは運ばれてきた牛肉の盛り合わせを1枚ずつ丁寧に網の上に乗せながら僕の顔を見た。
「えっと、今日はどうして2人だけで会おうって誘ってくださったんですか?その、宮本君のことなんだとしたら別に2人である必要はなかったんじゃ…」
ピタッと梨花さんの動きが一瞬止まった。
そしてすぐにまた肉を乗せ始め、こう答えた。
「2人じゃないとダメなの。いや、ダメっていうか、別にダメってことはないんだけど…」
「あの、どういうことでしょうか?」
肉をあらかた乗せ終えた梨花さんは、間もなく運ばれてきた飲み物の片方を僕に渡しながら応えた。
「実はね、武政君にお願いしたいことがあって。本当はこの前言おうと思ったんだけど、恥ずかしくって…」
「は、恥ずかしいって…?」
梨花さんは少し顔を赤らめて下を向いていた。
「えっと…そうだ!飲み物が来たんだし乾杯しよ!ね!」
「あ、ハイ」
質問をはぐらかされてしまった。
僕たちは乾杯をした後、互いの飲み物を口に含んだ。
梨花さんはシャンディーガフ、僕はグレープフルーツジュースを注文していた。
ふと網の方を見ると肉にいい焼き色がついていたので、トングでそれをひっくり返した。
「あ、武政君。私がやるからいいのに」
「いえ、後輩ですし…。それよりも梨花さん、お願いって何なんですか?」
肉をひっくり返しながら再び質問した。
梨花さんはまた少し顔を赤らめると、すーっと息を吸って僕の目を見た。
「えっと、私絵を描くのが趣味なんだけど、その、武政君の顔を描きたいの。モデルになってくれないかな?」
「…モデル?」
拍子抜けした。
梨花さんの躊躇いを見る限り、もっと人に頼みづらい内容かと予想していたのだが、思っていた数倍普遍的なお願いだった。
「あの…どうかな?」
「梨花さんが躊躇していたので何事かと思いましたよ…。僕なんかで良ければ協力しますよ」
「…本当?やったあ!ありがとう!」
梨花さんは本当に嬉しそうな笑顔を僕に向けた。
その笑顔の美しさに、僕はまた吸い込まれそうになっていた。
うーん、やっぱり美人だなあ。
そんなことを呑気に考えながら、僕は喜ぶ彼女を眺めていた。
その時、何やら遠い昔の記憶のようなものが、電撃のように一瞬だけ僕の脳に呼び起こされた。
目の前に1人の少女が立っている。
その子は太陽のような笑顔で、僕に向けて手を伸ばしている。
そして自分も、その女の子に対して手を伸ばそうとしている。
しかし僕かいくら腕を伸ばしても、その子には届かない。
彼女が何か言っている。でもよく聞き取れない。
何故だか分からないが、僕は無我夢中で彼女に向かって手を伸ばしていた。
その手の先にあるのは、ちょうど彼女の左胸辺りであった。
「…武政君?」
ハッと我に返った。
目の前には梨花さんがいて、不思議そうな目で僕を見ている。
また自分の思考に没頭しすぎて周囲が見えなくなっていた。僕の悪い癖だ。
「あ、いえ、ちょっとぼーっとしちゃってて…。お肉食べましょうか」
「そうね!ほら、ロースとかいい感じだよ!」
その日、梨花さんからはそれ以上の話はなかった。
残りの時間、僕たちは焼肉を楽しみつつ、なんでもない談笑に花を咲かせていただけだった。
会話の中で次に会う日程を決める流れになった。
梨花さんからは、1週間後にまた会おうと言われた。
僕は特に何も考えずに了承したのだが、帰宅してからその日は宮本君と会う日だということに気がついた。
それと、今日の会話の中で一度も宮本君の話をしなかったことにも後になって気づいた。
つまり梨花さんと会う前に宮本君と交わした会話のことや、授業中の彼の様子などを伝え損ねてしまったのだ。
今日の梨花さんは宮本真浩のことなど全く気にしていないという様子で、寧ろ僕との会話を純粋に楽しんでいるという感じだった。
僕も初めて彼女と2人きりで食事に行ったにも関わらず、まるでずっと前から一緒にいるような感覚になって会話を楽しんでいた。
まあいいや。次に会った時に宮本くんの動向について話そう。
正直、以前の何も分からなかった時と比べて、現状はだいぶ余裕ができたと思っている。
彼は僕に協力を依頼してきた。
これは一見彼が動き出したとも言えるので、危険だと思われるかもしれないが、逆に言えば彼は僕がいないと動き出せないともとれる。
恐らく彼は僕を利用して梨花さんに近づこうとしていて、それ以外の良い方法がないのだろう。
時刻を見るともう日付が変わりそうになっていたので寝ることにした。
布団の中に潜った僕は、ふと今日宮本君に言われた言葉の数々を思い返した。
『今から真実を3つ言う。これを信じるかどうかは君次第だけど、僕は決して嘘はつかないよ』
『1つめ、佐々木梨花は嘘をついている。2つめ、僕は彼女に危害を加えるつもりはない。3つめ、彼女は君を狙っている』
『もう少し言うと、1つめの真実については全てが嘘というわけではない。彼女は嘘の中に少しだけ真実を混ぜて、信憑性をもたせている。そして3つめの真実については、具体的にどう狙っているかは僕にも分からない。ただ、彼女は随分前から君のことを意識している。これは確かな事実だよ』
結局これらの発言は本当なんだろうか。
僕は宮本君の言葉と今日の梨花さんの様子を照らし合わせた。
まず梨花さんが嘘を言っているかどうか、これについては分からないままだ。
ただ、どう考えても彼女が僕や美由紀さんを騙す理由が見当たらないので、これは真実ではないと思いたい。
次に宮本君が梨花さんに危害を加えるつもりはないという発言、これも結局は宮本君以外誰も真実を知り得ないので、僕が1人で考えたところで無駄だろう。
最後に、梨花さんが僕を狙っていることについて。
梨花さんは、僕の顔を絵に描きたいと伝えてきた。
もしこれが宮本君の言う『狙っている』ことの正体なのだとしたら、別に気にするほどのことでもない。
それに宮本君だって具体的なことは分かっていないのだから、こんな曖昧な言葉には耳を貸す必要すらないだろう。
冷静に考えると宮本君の発言は、1つとして確信をもって信じられるものがないじゃないか。
それに彼はストーカーだぞ?
そもそも彼は狂人なんだ。常人を見る目で見てはならない。
僕は彼に協力するのは辞めようと決意した。
僕が断ってしまえば、彼はこれ以上なすすべがなくなり、梨花さんのことも諦めるかもしれない。
そう考えると途端に安堵感が湧いてきた僕は、すぐに眠りに落ちてしまった。
少し前までは毎晩同じ夢を見ることに悩まされていたが、もはやそれにも慣れてしまっていた。
・・・・・・・・・・
それはバイトの休憩中に起こった出来事だった。
カウンター席で社割で購入したマルゲリータピザを食べながら休憩していると、近くのテーブル席に客がやってきたのだ。
僕はその席に背を向けており、間には1つテーブル席を挟んでいたのだが、なんだか聞き覚えのある声がしたのでちらっとそちらに目を向けたのだ。
目を疑った。
そこには紛れもなく、宮川武政と、よく知らない女性と、そして佐々木梨花が座って食事をしていたのだ。
いつもこの騒がしい店内で働いていることもあって、耳が慣れていた僕は彼らの会話を上手く聞き取ることができた。
よく聞いてみると、どう考えても宮川君が僕の話をしていた。
すぐに察した。
宮川武政は彼女らに協力していて、僕の情報を渡しているのだ。
衝撃的な事実だったが、今は驚いている場合ではない。
どれほどの情報が洩れているのか、出来る限り把握しなければ。
僕は食べかけのピザが冷めて硬くなっているのも気にせずに、彼らの会話に聞き耳を立て続けた。
状況は絶望的だった。
あの男は何故か僕と佐々木さんのあの日の出来事を夢に見ていて、その一部始終を知っているのだ。
そして佐々木さんもそのことで彼を信用しきっているようで、僕が出した手紙なども既に見せているようだった。
そして今、佐々木さんはあの日の出来事を彼らに打ち明けようとしている。
…違和感を覚えた。
彼女は今にも泣きだしそうな怯えた表情で、彼らに僕との過去について語っていた。
しかし、その内容は事実と異なっていたのだ。
すべてではない。部分的に事実を言ってはいるが、大部分が嘘であった。
どういうことだ?彼らは協力しているんじゃないのか?
佐々木さんは助けを求めるために、ありのままを打ち明けているんじゃないのか?
その時ふと思い出した。
佐々木さんと僕が疎遠になったきっかけのあの日、僕たちが行為に及ぶ前に佐々木さんはあの宮川武政を知らないかと尋ねてきた。
あの時は似顔絵を見せてきただけなので確証はないが、あの似顔絵は間違いなく宮川君だった。
…佐々木さんは僕から逃れることではなく、宮川君に近づくことを目的としている?
彼女はあの男が夢に出てきていた顔の整った少年だと気づいていて、その彼に近づくためにあえて嘘をついているのか?
彼女が今話しているエピソードは、どう考えても現実よりも僕を凶悪な男に仕立て上げている。
もしや、佐々木さんが僕と付き合ったのは、この状況を作り出すため?
あえて僕と付き合う経験をすることで、後に僕を悪者にする準備をしていたのか?
いやそれはない。
宮川君が自分と同じ大学に入るかどうかの保証は誰にもできないし、この状況は偶然出来上がったものだろう。
となると、考えたくはないが…。
僕は自分でも不思議なほど冷静だった。
今、絶望以外の何物でもない事柄が頭の中に浮かんできて、それが事実かもしれないにもかかわらず、僕は落ち着いていた。
彼女は僕を利用して、宮川武政に会おうとしていたのだ。
僕と付き合ったのもそのためだ。
だから僕が行為の前に彼の存在を否定したことをきっかけに、彼女は僕から離れていったのだ。
トイレに行くといったのは嘘だったのだ。
あの日トイレの中に人の気配は感じられなかったが、やはりそうだったのだ。
宮川君について絶対に何も知らないと分かった時点で、僕は用済みだったのだ。
そうでなければ、彼女が突然僕の前から姿を消したことも、あんな嘘をついていることについても説明がつかない。
利用できないと分かったから音信不通になった。
僕が再び近づかないよう、周りの友人には僕をストーカーということにして追い払わせた。だからあの日ストーカー呼ばわりされたのだろう。
今あれだけ嘘をついているのは、僕と付き合った経験を改変して嘘のエピソードを作り上げ、彼の同情を誘おうとしているのだ。
そうすれば彼は自然と近寄ってきてくれる可能性が高い。
しかも彼はあの日の光景を夢に見ているという共通点もある。
咄嗟に組み立てた推理にしてはよく出来上がっていると思った。
僕は確信した。
あの女は狂人だ。
現実に存在するかもわからない夢の中の少年に、彼女は本気で会おうとしていた。
その手段として、夢の中に宮川君と共に毎晩登場している僕を利用したのだ。
もしかしたらあの少年は現実のあの場にもいたのかもしれない。
宮本君なら、あの少年について知っているかもしれない。
そんなことを本気で思っていたのだ。
でも、思い通りにいかないとなれば彼氏にした男すらも簡単に切り捨て、周りの友人や思いを寄せている本人すら騙すのだ。
彼女は僕を狂人扱いしていたがとんでもない。
彼女こそが真の狂人だ。
自身の欲望のためなら手段を択ばない、美女の皮をかぶった悪魔だ。
僕の中にふつふつと、憎しみのような感情が湧き上がってくるのを感じた。
「おーい宮川、そろそろ休憩終わりだぞー」
店長の言葉で我に返った。
僕は固くなったピザを口に押し込むと、急いで厨房内に戻った。
そして閉店作業に勤しみながら、これからどうしようか考えを巡らせた。
僕の中の彼女への想いは、すっかり姿形を変えたのであった。
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