第7章
忘れもしないあの日のあの瞬間。
僕はベッドに座り、壁に寄りかかっていた。
佐々木さんはその僕に抱きつくような形で膝の上に座っていた。
お互い少し息を切らしながら、互いを感じ合っていたのだ。
「ねえ宮本君、私本当に良い絵が描けるかな?」
僕に抱かれながら、彼女はそう尋ねてきた。
その瞳は目の前にあるにもかかわらず、どこか遠くにあるような、そんな不思議な輝きをもっていた。
「うん。君なら将来偉大な芸術家として語られるような、そんな人にだってなれるよ」
彼女はふっと微笑み、改めて僕を強く抱きしめた。
僕もそれに応えるように彼女の髪を撫でた。
僕たちは随分と長い時間そうしていた。
彼女の肌の温もりや柔からな感触を、随分時間がたった後でも正確に記憶している程だ。
こんな夢のような状況に僕は興奮していた。
彼女を抱いたことによるものだけではなく、長年の彼女への“想い”が今日この時をもって果たされることを自身の中で確信し、それを想像するだけで興奮が収まらなかったのだ。
16歳のあの日のことを再び思い返す。
あの日の僕が思い描いたことを実現する然るべきタイミングは今だ。
「ねえ佐々木さん。ひとつだけお願いを聞いてもらってもいい?」
彼女がこくりと頷いたのが自身の肩に感じられた。
僕は彼女の耳元に顔を近づけると、そっと呟いた。
「君の心臓が見てみたいんだ。だから、君の身体を僕にくれよ」
彼女の顔は見えていなかったが、それでも構わない。
今の彼女は僕を完全に受け入れてくれているのだ。
僕は続けて話した。
「君は高校の美術教師の長谷川先生を覚えているだろう?あの人がよく言っていたことを覚えているかい?『真の芸術家は脳内で絵を描いて、それを自らの手で具現化するのだ』ってやつさ。僕は選択科目で美術をとっていたから、授業中よくこの話をされていたんだ。みんなは聞き飽きていたようだけど、僕はこの言葉によって自分がやるべきことは何なのかを理解したんだ。僕は今から君と一緒に真の芸術家になるんだ。この意味が分かるかい?」
僕はその時ようやく彼女の顔を見た。
彼女は怯えているような、何か得体の知れないものと対峙しているような、そんな表情で僕を見ていた。
「ごめん、どういうこと?」
震えた声で彼女は応えた。
僕は構わず続けた。
「君のことが気になったきっかけは、君が16歳の時に描いた『愛』の絵なんだ。あの絵では、二人の男女がお互いの胸に手を当てて互いの心臓の鼓動を確かめ合っていたよね。僕はあの絵を見たとき衝撃的な感動に襲われて、その絵に対する自分なりの解釈を完成させたんだ。君はあの絵に描かれているあの光景に『愛』と名付けた。つまり、君にとっての心臓は愛の象徴というわけだ。あの絵の中で、彼らは心臓を介して愛し合っていたんだ。僕はそれまで人を好きになるということがよく分からなかったけれど、その結論に至った瞬間から、僕は君と愛を確かめ合いたいと思った。君の愛をこの目で確かめたかった。君の心臓を見てみたかった。そしてその後に僕の愛を君に見てもらうんだ。そうすることで僕たちはあの絵を具現化することができて、真の芸術家になれるんだ。どうだい、素敵だと思わないか?」
興奮のあまり夢中で喋り続けてしまった。
ついに想いを伝えることができた達成感から、僕は得意顔で彼女の顔を見てみた。
彼女は少し青ざめた顔で、そっと僕から身体を離そうとした。
僕は彼女の腕をグッと掴み、彼女を引き戻した。
「待ってよ。君は芸術家になれるんだよ?それも見せかけの芸術家じゃない。真の芸術家だ。それに、お願いを聞いてくれるって言っただろう?」
彼女の腕は小刻みに震えていた。
僕は彼女をなだめるように頭を撫でる。
すると彼女は小さな声でこう言った。
「あの、えっと、ちょっとお腹が痛くなっちゃって…。トイレに行くからちょっと待っててね。また戻るから…」
なんだそんなことか、と僕はひと安心した。
てっきり彼女が僕の想いに応えてくれないのではないかと思っていたのだが。
僕は掴んでいた彼女の腕をそっと離した。
彼女は小走りで部屋を出てトイレへと向かった。
僕は彼女が戻ってくるまで、ぼんやりとこの後のことを考えていた。
彼女の心臓はどんな形なんだろう。
『愛』の絵にもあったようにハートの形をしているのかな?
色はどんなだろう?ピンクかな?赤かな?
ああ、早く知りたい。
彼女は今、僕を愛してくれている。
そんな彼女の愛が心臓にも現れている筈だ。
僕はベッドの横に立てかけてある自分のリュックを寄せてくると、中身を確認した。
その時だった。
勢いよくドアが開く音がした。
驚いて玄関の方向に目をやると、僕と同じ歳ぐらいの1人の女の子と2人の男の子がどたどたと入ってきた。
「ちょっと!あなた梨花の部屋で何してるの!早く出ていって!」
突然女の子に怒鳴られた。
僕はその子と面識がないし、何を言っているのかもよく分からなかったのでぽかんとして彼女を見た。
「うわ、なんで上半身裸なんだよ!さっさと服着て出て行け!このストーカーが!」
「早く出て行かないと警察呼ぶぞ!美由紀、すぐ電話できるようにしといて!」
「うん、いつでもできるよ!」
何が何だか分からなかった。
ただあまりにも彼らが怒っているのに萎縮してしまい、僕は急いで服を着て転がるように部屋を出た。
僕は必死に走った。
何が起こったのかさっぱり理解できなかったが、とにかく家に向かって走った。
走っている最中、僕はある言葉がずっと頭の中をこだましていた。
「このストーカーが!」
ストーカー?この僕が?
僕はストーカーなんかじゃない。
僕は彼女に手紙を出して、返事を貰った後に会う約束をして、再開した後両思いだということが分かったから正式に付き合い始めたのだ。
僕は佐々木梨花の彼氏だ。
ストーカーのはずがない。そんなはずない。そんなはずは…。
僕は走るのを止め、ゆっくり歩きながら呼吸を整えた。
心身ともに少し落ち着き始めると、頭の中に次々と疑問が浮かび上がってきた。
突然部屋に入ってきた彼らは誰なんだ?
女の子が佐々木さんの名前を口にしていたし、知り合いなんだろうか?
しかし何故いきなり部屋に入ってきて、僕を追い出したんだ?
そういえばトイレに行くといった佐々木さんはどうなったんだ?
部屋を出るときにトイレの前は通ったけれど、誰かが入っている様子はなかったぞ?
あまりにも唐突な出来事に困惑した僕は、家に着いた後もしばらく呆然としていた。
あの状況を何度思い返しても意味が全く分からなかった。
ひとまず僕は彼女に電話をしてみることにした。
もしかしたら彼女が間違って別の予定を今日のこの時間に入れてしまっていて、その別の予定を一緒に過ごす予定の人たちが入ってきただけかもしれない。
そう考えないと精神が持たなかった。
とにかく彼女に真実を聞かないと。
彼女は電話に出なかった。
LINEでメッセージも送ったし、メールも送ったが返信が返ってくることはなかった。
結局僕は夜中の3時過ぎまで彼女からの返事を待ったが、僕のスマホが鳴る気配は一向に訪れない。
たくさん走って疲れていた僕は諦めて寝ることにした。
明日になればきっと彼女から連絡が来るだろう。
なんて言ったって僕たちは付き合っているんだから。
僕は彼女の感触を全身で思い返しつつ、布団に入った。
・・・・・・・・・・
梨花さんたちと会う日が明日に迫っていた。
結局今日も彼と一緒に授業を受けていろいろと話してみたが、初日以上の有力な情報は得られなかった。
僕は自宅へ向かって歩きながらもずっと考え事をしていた。
すると、後ろから僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
振り向くとそこには美由紀さんが立っていた。
僕が軽く会釈をすると、彼女は速足で追いついてきた。
せっかくなので二人で帰ることにした。
「武政君、明日なんだけど茶屋町のあたりにあるチーズが有名なお店に行こうって梨花と話してたの!大丈夫かな?」
「はい、チーズは大好物ですよ」
「そう!ならよかった!」
美由紀さんはそう言った後しばらく無言になって、僕の顔をまじまじと見つめてきた。
「あの、美由紀さん、どうかしました?」
「いや、あんまり気にしてなかったけど、武政君って顔整っててカッコイイよね!彼女とかいないの?」
「ど、どうも。えっと、彼女はいたことないですね。女友達なら少しいますけど」
「えーそうなんだ!意外だね!いい子そうだしモテそうなのにね」
「そうなんですかね。あんまりピンとこないんですけど」
そんな会話をしながら、僕は今の美由紀さんの言葉を頭の中で繰り返していた。
そういえば昔、これと同じようなことを誰かに言われた気がする。
誰だっただろう。随分前だった気がするから思い出せない。
僕はそんなことをぼんやりと考えながら、美由紀さんと肩を並べて帰路についていた。
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