少年

樋口偽善

序章

少年は息を吸った。


6月のじめじめとした夕暮れの下で、彼は一人立っていた。


昨晩脳内で書き上げた言葉たちの一文字一文字を指でなぞるように思い返し、そして昨晩と同じように不安に駆られていた。



「大丈夫、僕はあの子と仲がいいし。それに、クラスが同じになってからずっと隣の席なんだ。向こうだってその気になっているさ。大丈夫。大丈夫」



客観的に見ればあまりにも脆弱な根拠であったが、その少年にとってはそれが重要な事柄であった。




彼は一人のクラスメイトを待っていた。


同じクラスで隣の席に座っている、よく笑う小柄な女の子だ。


彼女の笑顔を見れば誰だって彼女の虜になってしまうだろう。


そんな魅力を彼女は持っていたし、実際彼女は人気があった。




暫くすると、部活を終えた彼女が一人で駐輪所に向かって歩いてくるのが見えた。


少年はこれまで経験したことがないほどの心臓の鼓動を感じながら、彼女がもうすぐ降りてくるであろう階段へ向かって歩を進めた。


少年はごくりと唾を飲み込んだ。


間もなく彼女と目が合った。彼女はいつもと変わらぬ笑顔を彼に向けた。


ああ、なんて素敵な笑顔なんだろう。


少年はまた、僕はつくづく馬鹿な男だと自身の愚かさを悔やんだ。


こんな素敵な笑顔をつい数ヵ月前まで知らずに過ごしていたなんて。


その少年はたった16年しか生きていないが、16歳の少年にとっての“時間”はその歳の人間にしか理解し難い価値があるのだ。


もっと早くに出会いたかったが、同時にこのタイミングで出会えたからこそ良かったのかもしれないとも彼は考えていた。


少年はなんとなく「人生の全てはタイミングが重要」なのだと心の中で理解していた。



「宮本君、今日は部活はお休み?」



彼女に声が目の前から聞こえてきて、彼はハッと我に返った。


いつの間にか彼女は少年のすぐ傍まで来ていた。

彼女の髪の匂いが、あまりにも克明に鼻の中をかすめた。


彼は急いで平静を装い、「うん、顧問が出張でね」なんて言って見せた。



「そうなんだ、陸上部いっつもあんなに練習してるのに、珍しいね」



再び彼女が笑顔になる。


少年は、この時間が永久に続けば人生に悔いなどないのではないかと思うほど多幸感に包まれながら、その顔をぼんやりと眺めていた。



「今日ね、写生の課題を3つも出されちゃったの。美術をやるうえでデッサン力が大事なのは分かるけれど、私まだまだ初心者だし、1枚描き上げるのも大変なのに」



少年は以前美術室の前を通った際に彼女の作品を見たことがあった。


その絵には『愛』というタイトルがついていて、二人の人間がお互いの胸部に手を当てて、その胸部に描かれているハート型の心臓の鼓動を確かめ合っている、といった具合の絵だった。


少年は無意識のうちに足を止め、その絵にくぎ付けになっていた。


彼女の言う通り初心者が描いたことがまるわかりの絵であったが、不思議と温かみを感じる、まるで彼女の笑顔のような素敵な絵であった。



「長谷川先生ったらまた自分の作品の写真を見せてきて、『真の芸術家は脳内で絵を描いて、それを自らの手で具現化するのだ』なんていうの。自分が彫刻科出身だからって、必死に絵をかいてる私たちの前で彫刻を語られてもって感じよね。」



彼女はいつも楽しそうに自分の身の回りに起こったことを話してくれる。


彼女にとっては何気ない会話なのだろうが、少年にとっては至福のひと時であった。



「ところで宮本君はなんでここで立ってたの?誰かと待ち合わせ?」



そんな彼女の一言で、少年は今日の本来の目的を思い出した。


少年は今日、彼女に想いを伝えに来たのだ。


少年は再び唾をのんだ。



「いや、実はその...君をね、あの...待ってたんだ、うん」


「...私を?」



彼女は真面目な顔つきで少年の目を見た。


その瞳のあまりの美しさに少年は頭がくらくらした。


しかし伝えなければならない。そのための今日だ。


少年は額に汗を感じながら、勇気を振り絞って口を開いた。




「君の心臓が見てみたいんだ。だから、君の身体を僕にくれよ。」




・・・・・・・・・・




僕は目を覚ました。


また同じ夢を見た。今日で何日目だろう。


今年の4月から大学に進学する僕は、入学一週間前から一人暮らしのアパートに移って暮らしていた。


一人での生活は新鮮で、まるで人生が再スタートしたような気分であった。


しかし、引っ越したその日から異変は起こった。


僕はその日の晩からずっと同じ夢を見続けている。


同じ場所で、同じ人物が、同じ会話を繰り返し、そして同じ場面で終わるのだ。


これまでそんなことは一切なかっただけに、一人暮らしを始めたこのタイミングでそんな奇妙な現象に見舞われてしまったことに僕はげんなりしていた。



「今日から大学生か...」



大学での生活は念願のものであったが、夢のこともあってあまり気分は上がらなかった。


僕は慣れた手つきで食パンにマーガリンといちごジャムを塗り、それを口に入れると暖かいカフェオレでそれを流し込んだ。 


そして僕は歯磨きをした後、ワックスとスプレーで髪をセットし、慣れないスーツに身を包んで家を出た。




大学は家からゆっくり歩いても5分ほどでついてしまうので、これまで長時間かけて学校まで通っていた僕にとってはむしろ物足りない位あっという間の登校時間であった。


大学につくと、僕と同じような新入生でごった返していた。


僕は母親に連絡を取って、間もなく合流を果たした。



「あら、武政たけまさ自分でスーツ着られるようになったの?先月まであんなに心配してたのに」


「まあ1週間もあればさすがに覚えられるよ」


「さすが大学生。保護者は向こうにある東体育館らしいから先に行ってるね。新入生は中央体育館らしいけど、場所分かってるの?」


「昨日確認したよ。でもこれだけ広くて人も多いと見つけにくいね」


「そうね、まあ気を付けて。変な先輩について行っちゃだめよ」


「子供じゃないんだから」



母親はそそくさと東体育館に向かって歩いて行った。


僕はふう、と息を吐いて、中央体育館へと歩き出した。




体育館に入るとそこには大量のパイプ椅子が並べられており、その後ろに学部の名前が書かれた立て看板を持った教員らしき人がまばらな間隔で立っていた。


僕は自分の学部である経営学部の区分へ行き、パイプ椅子に張られた学籍番号と自分の手元にある真新しい学生証に書かれ学籍番号を見比べた。


自分の番号はすぐに見つかった。


なんせ僕の苗字は宮川なので、ある程度後ろのほうなのだ。


僕は席に座った。左隣には女の子が座っていたが、すでに周りの女の子たちと意気投合しているらしく、明るい声で自己紹介をしあっていた。


僕もその輪に混ざってみたかったが、少々派手目な女の子が多くて委縮してしまい、静かに入学式が始まるのを待った。


あたりを見渡すと、これまで自分が知り合ってきた人数よりもはるかに多い新入生たちが、各々で入学式の始まりを待っていた。


暫く一人でぼうっとしていると、右隣に誰かが座ってきた。


ちらっと横を見ると、どうやら男の子のようだ。

これは友達になるチャンスかもしれない。


僕は勇気を出して彼のほうを向き、できる限り明るい声で声をかけた。



「はじめまして、宮川武政です!せっかく隣の席だし話そうよ。名前はなんていうの?」



彼は少々驚いたようにぴくっと身体を震わせた後、こちらに目を向けた。


その顔を見るや否や、僕は思わず叫びそうになった。


彼は僕の知っている人だ。でも、どこで会ったか思い出せない。誰だっけ。



「はじめまして、えっと...宮本真浩です」


「宮本...?...宮本君?」


「え...うん。」



僕はにわかに信じがたかった。まさか、そんなはずはない。


しかし、彼は目の前にいた。現実に。僕の目の前に。


まさしく彼は、僕の夢に毎晩出てきていた少年だった。

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