第32話 不穏な空気
「もう先輩、酷いじゃないですか……」
手を放して数十秒後、涙目になって右手を押さえる蘭童殿。泣いてしまうほど反省してくれているなんて僕は嬉しいです。
「気に障ったなら言ってくださいよ、怒らせるつもりで言ったわけではなかったのに」
「痛みが伴わないと理解できないことだってありますから、良い経験になったでしょう?」
「そうですね、言葉には気を付けるようにします」
どうやら思った以上に蘭童殿は反省しているようだ。こういうのを見ると、かつてスパルタ教育なるものが日常的だったのも分かる気がする。成長の促進に大きく貢献しそうだしな、その厳しさを乗り越えられたらの話だが。
「そろそろ戻った方が良さそうですね」
あいちゃんの合図で、現在5限開始の10分前であることを知る。トレイの返却などを考えればギリギリの時間だ、急がなくてはならない。
「蘭童殿、さっきので分かったと思いますけど、颯爽と現われて助けるのは上手くいかない気がします。僕にもまったく握力で歯が立ってないですし」
そして雨竜を組み伏す作戦も考えられる気がしない。考えようと思えば考えられるが、そこまで大がかりにしては雨竜に作戦を感づかれてしまう。それでは意味がないし、当然蘭童殿の出番がなく終わってしまう。
「そうですよねぇ、別の案を考えないとなぁ」
食器を洗い場に返却しながら蘭童殿は溜息をついた。そんなに颯爽と現われたかったのか、蘭童殿は少女漫画より少年漫画の方が好きなのだろうか。偏見ではあるが。
「空ちゃん、私も考えるから一緒に頑張ろう?」
「ありがとうあいちゃん」
不満げな声を漏らす蘭童殿を励ますあいちゃん。美しい友情の形なのだが、このコンビに期待して良いのかはっきり言って不安である。何せ颯爽登場推しコンビだからな、僕がフォローしてやらないとまずいことになりそうだ。
しかしながら、考える主体は蘭童殿に任せていきたい。こんなにも積極的なのだから、誰かにやらされるより自分の意見でやった方が前向きに進めると僕は思う。蘭童殿の気持ちこそが一番大切なんだからな、桐田朱里の時と同じ轍は踏まんぞ。
「じゃあまた。必要であれば気軽に声をかけてください」
食堂を出て1年と2年が分かれる階段まで来ると、僕は2人へそう告げた。今まで通り蘭童殿の個人プレイに任せてもいいし僕を介入させても構わない。雨竜の恋人として大成してくれるのであれば何でも良い。
「……あの、実は廣瀬先輩に聞いて欲しいことがあって」
複雑そうな表情でそう言ったのは蘭童殿ではなくあいちゃん。僕を引き留めたことに蘭童殿も驚いているようだ。
あいちゃんは一呼吸置くと、僕ではなく蘭童殿へ目を向けた。
「空ちゃん、やっぱり先輩に相談しようよ」
「それはいいってば、私の勘違いかもしれないし」
「勘違いじゃなかったらまずいかもしれないんだよ? 話だけでも聞いてもらおうよ」
蘭童殿は断るが、決してあいちゃんが折れなかった。ただならぬ彼女の雰囲気に先程までの内容と毛色が違うのだと推察した。何かあったのだろうか。
「蘭童殿、力になれるかは分かりませんが、話してみるだけ話してはどうでしょうか?」
「……そうですね、そうした方がいいのかもしれません」
僕があいちゃんの後押しをすると、蘭童殿は少し考えてからようやく話すことを決めたようだ。「ここだけの話にして欲しいんですけど」と前置きしてから、彼女は僕の目を見据えた。
「先輩は
「名取って、名取
「名前は存じ上げないのですが、髪の毛を黄色というか金色に染めてらっしゃる方です」
「名取真宵で間違いなさそうですね」
まさか後輩からその名前を聞くとは思わず、僕といえど少なからず驚いてしまう。
名取真宵、今のクラスは分からないが、去年僕や雨竜と同じクラスだった女子。素行があまり良い方ではなく、蘭童殿が言ったように髪の毛を金色に染め上げている。見た目だけなら、放課後夜の街で遊んでそうな印象がある。
そして、初めて僕に雨竜の件で相談してきた人間でもある。僕は乗り気ではなく彼女も僕の言うことを聞かなかったので相談というにはほど遠くはあるが。
「名取真宵と、何かあったんですか?」
後輩と仲良くするタイプに思えないだけに、僕も2人の接点が気になってしまう。
蘭童殿に話を振ると、彼女は少々躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「少し前に廊下で肩をぶつけたことがあって。私は避けようとしたのですが避けきれず。その時に『調子に乗ってんじゃねえぞ』と言われてしまいまして」
なんだあいつ、後輩相手にチンピラみたいなことしてるのか。目付きも鋭いし、金髪のあいつに言われるとさすがに怖く感じるだろう。
「まあ1回だけなら偶然かなとか機嫌が悪かったのかなとか思ったのですが」
「私と空ちゃんが一緒に歩いてたときも似たようなことがあって、偶然で片付けて良いものか分からずご相談させていただきました」
「偶然ではないでしょうね」
僕がはっきりそう告げるが、2人の表情に大きな変化は見られなかった。どうやらある程度想定していたようだ。
ということは、どうしてそんな嫌がらせをしているのかもなんとなく察しが付いているはず。
「その、先輩、答えづらかったら何も言わなくてもいいのですが」
その答え合わせをするように蘭童殿は僕に質問する。
「名取先輩は、青八木先輩のことが好きなんでしょうか?」
「ノーコメントでお願いします」
「……まあそうですよね」
適当にはぐらかすより、分かりやすく何も言わない方が状況は理解できる。蘭童殿なら今の言い回しで理解してくれただろう。
そうだ、名取真宵は雨竜に好意を持って告白し、フラれている人間である。
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