第2話

「……こほん」

 扉の前で、誰に聞かせるわけでもない咳払い。

 ここまで誰ともすれ違わなかったので変な緊張が残る。

 ピンポーン。

 インターホンが鳴いた。

(そういえばアイツ、朝は弱かったな。これからは起こしてやりたいところだが、一教員が個人に入れ込むのは褒められた事ではない、自力で起きれるようになっていればいいが……)

 学生寮の防犯システムは日本でも有数、最高峰を誇り完璧を謳っている。

 マスターキーは学園のサーバーを司るAIが管理しているので例え理事長でも寮の部屋は好き勝手にできない。

 そうなると起こす方法なんてインターホンを鳴らし続けるか生徒証に電話をかけ続けるくらいしかない。

 他にも方法が無いでもないが──……。

「はーい」

 ガチャン。

 扉が開いて和服姿をした白髪はくはつの女性が出てくる。

(…………誰だ。ここはアイツの、みやこ京太郎きょうたろうの部屋のはずだ。まさかアイツに限って入学初日から異性を自室に連れ込むなんて不埒な真似は────いや待て、こいつには何処と無く見覚えがある)

 もしかすると、と和服姿の女に睨め付けながら問いかける。

「おまえ、神奈備かむなび三狐神さぐじか?」

「んまー、そんな仰々しい呼称こしょうしないでくださいますぅー!? 今のわたくしにはご主人から貰ったツイナというかわいい名前があるんですぅー!」

 カッと牙をむき出しに威嚇するツイナと名乗る女。

「フン、人の姿形すがたかたちを真似るなぞいよいよ化け狐の本性を現し始めたようだな。悪さの一つでも働いてみろ、塵芥も残さず消してやろう」

「へーんだ、わたくしはどこかの誰かさんがめっきり顔を見せなくなった所為せいで寂しい思いをしていたご主人のために、らしくもない垢離こり潔斎けっさいだのと蘇民書札そみかくだの如くを重ねに重ね、阿毘羅吽欠あびらうんけんを唱えて幾度、コツコツと神格を上げてようやく! よ・う・や・く! 現人神あらひとがみになれたんですぅ!」

 いつになく熱の籠った言葉に気圧される。

 それほどに大変な道程どうていだったのだろう。

 いやに人間味のある神もいたものだ。

「……そんな事はいい、そこを退け。私は京太郎に会いに来たんだ」

 ぴくりと反応したツイナがゆっくりと目を逸らす。

「ご主人は今…………外出中、です?」


 ハックション。


 くしゃみをした際の定型文とされる言葉。

 それが部屋の中から聞こえた。


「…………」

「…………」


「ぐええーダメです行かないでくださいー!」

 三倍の重力に潰れたツイナが神威のカケラもない声を出しながら足元にすがる。

 神格が上がったらしい田の神を足蹴に部屋の奥へ進む。

 ────この寮は冷暖房扇風機を完備。

 トイレはウォシュレット付き、風呂場にはミストシャワーまで。

 台所には食器も調理器具も備わっていて冷蔵庫や電子レンジ、洗濯機などの家電もある。

 パソコンは最新型の物で本棚にはあらかじめ種別ジャンル不問に本が詰まっている。

 五十二インチの高画質テレビがオーディオスピーカーに挟まれていて、傍らにはつい最近発売されたばかりのゲーム機まで娯楽に事欠かず。

 生徒証の機能でカーテンの開閉や照明の点灯を操作できる。

 ベッドのスプリングは程よく押し返し、枕は様々な高さの物が低反発や高反発と多岐に渡りクローゼットにしまってある。

 云千人の生徒を抱え込んだマンモス校だがもはや国の顔とも言えない機関であるので惜しみなく金を使い学生寮にも大胆に予算を割いてある。

 一時期は問題視されて国会で問答があったほどだ。

 こんな、上流企業に就職した独り暮らしの若者が数年かけてやっと揃えられる規模を一人一人に用意しているのだから問題視されていても仕方ない。

 さらには日本衛士学園は入試試験が難しいものの──といっても戦闘技術や状況判断能力と普段鍛える必要のないものが試験対象になる故に難関とされているだけで腕に自信のある荒くれ者たちにはそうでもない──選考費用を必要としないばかりか入学金や教育費を全て免除している。

 有事の際には皆々の盾となる人材を育成する場を優先させるか未だ景気が良いとは言えない国内の要所を優先するか、かなり揉めたらしい。

 そして、そんな豪華な部屋の厨房で、


「アーハッハハハwwwフォーーゥ!!」


「おい、おまえは主人をコロコロ変えるような尻軽だったのか?」

「失礼な事言わないでくださいますかぁー!? 私は人間なんかと違って一途いちずで一途で黄泉比良坂よもつひらさかまでついて行くぐらい一途なんですぅ!」

 床に伏したツイナの襟首をつかんで締め上げる。

「ならアレはなんだ。スナック菓子と炭酸飲料をミキサーにかけている肉垂にくすいは誰だ、私に会わせたくなくて替え玉でも用意したか?」

「………………」

 ゴスッ。

 見えない塊が空間を歪ませながら沈黙したツイナの脳天に落ちる。

「こっちを見ろ駄狐、そして質問に答えろ。肉体を失って高天ヶ原たかまがはらに帰るか?」

「アーッ! 貴女が言うと洒落にならないでしょうが違うんです違うんですよう!

 その、ですね? 貴女が帰らなくなってから毎日のように陰気を増大させるご主人が可哀想で可哀想でこりゃ一丁暖かな温もりの愛妻料理作るしかねえなってご馳走したらですね、おいしいおいしいともう私が昇天しそうな笑顔を向けてくださいましてね、邪魔者がいねえ内にこのままいてこましたれぇとお夕飯時にはもう八面六臂はちめんろっぴの勢いで日々手料理を振舞っていたらですね『燕さんが帰ってきた時に驚かせたいから、料理を教えてくれないかな?』と健気極まる事を仰ってくれてですね、私なんぞ未熟者ではなく霧夜キリヤの叔母様にご教授願った方がいいのではと言ったのですが『ツイナみたいな好きな人への気持ちが伝わる料理を作れるようになりたいんだ』なんてはにかんだ笑顔を見せられてですねおっと思い出して涎がじゅるり。まあそういうわけでご主人にお料理を教えていたわけですよ、そったらもう飲み込みが早い早い。『燕さんにアレを食べさせてあげたいコレを食べさせてあげたい』そうやってレパートリーがどんどん増えていってですね、『ターキーを食べさせてあげたい北京ダックを食べさせてあげたい』と、いやまあここら辺でアレーとはなったんですよ、なったんですけど作れるものが増えるのは良い事ですしまあまあと見守っていたらですね、果ては『満漢全席を食べさせてあげたい』ときまして、お料理の上達はスクラップアンドビルド。満足いく出来になるまで毎晩毎晩満漢全席を作っては平らげるわけです。もうここら辺でやべえなと思いました。思ったんですよええ。でも別に肉体を得たとはいえ受肉とは違うので私はいくら食べようと太りませんし何よりご主人の料理独り占めできるうえに調理から片付けまで共同作業で新婚夫婦気分が味わえるからいいやガハハとか思ってですね」

「いい加減長い」

「わたしがわるぅございます」

「…………」

「痛だだだだだだだだだ! たかが地方の土着とはいえ神にアイアンクローとか不敬すぎません!?」

「貴様はよくも…………よくも私の……私の…………っ!」

「でーちゃーうー! 中身出ちゃうんですけど転居早々曰く付き物件になっちゃうんですけど!!」

 アイアンクローをした右手に力が篭る。

 耐えきれなくなったツイナから白雪の色をした耳や尻尾が飛び出た。


「あれ、何やら騒がしいと思ったら燕氏、燕氏ではござらんか!」


 背後からかけられた声に振り向くか、逡巡しゅんじゅんする。

 面影を残した声がそこはかとなくかんに障る。

「そこの百貫ひゃっかんデブ、止まれ。それ以上近寄るな。貴様は何者だ名を名乗れ」

「フォカヌポゥwwwまたまたとぼけちゃってえwww拙僧せっそうですよ拙僧! いや拙僧拙僧詐欺じゃなくてwww逆立ちすると京都府になるみやこ京太郎きょうたろうくんですよwwwいや逆立ちなんてすると拙僧の肘が爆発しますがwwwコポォwwwというか流石の拙僧も体重三百キロはありませんがなガハハwww」

 嘲笑されているというわけではない。ないのだがこの笑い声は神経を逆撫でするナニカがある。

 教師の一人として身を置いているために迂闊な暴力は振るえないのがこれほど残念だと思った事もない。

「その不愉快な笑いをやめろ。それとにじり寄るな。おまえが京太郎だという証拠がどこにある。あるなら示して私を納得させてみろ」

 アイアンクローから解放されたツイナがどさりと床に落ちる。

「この鬼畜な防犯システムの中他人の部屋に忍び込むとか無理難題だしここにいるというだけで証明になると思うんですけどそれは…………ンヒィwwwちゃんと答えるから空間歪ませんといてぇwwwwwwあっそうだ、燕氏の右のおっぱいにはホクロが────」

 空間が形容し難い音と共に爆ぜ、部屋には暴風が吹き荒れると、喜ばしい事に眼前から忌々しい肥満体は消え失せた。

「照れ隠しにしたって野蛮すぎません?」

「貴様がそうしてのらりくらりとしているのならあの男は京太郎ではないか、あれくらいでは死なないかだろう」

「それ事後確認ですよね」

 万が一の事を考えて玄関から大きな靴を一組持ってベランダから下界を見下ろす。

 悪運の強い事に肉ダルマは噴水に落ちたようで、ちょうど這い出てきたところだった。

「……ふん」

 投げ落とした靴を拾った肉塊が頭を掻きながら見上げる。

 その無垢な表情が、記憶の内にある少年と似通っていた気がした。

「……仮に、仮にだ。あれが京太郎だったとして、どうしてここへ来るのを許した?」

「ご主人がそう望んだからです」

 ツイナは当然の事といった口振りで逡巡もなく答えると、袖の下から取り出した呪符を窓枠に貼り付けた。

 窓が時間の遡行そこうを思わせる修復をされているのを尻目に、ツイナに重ねて問う。

「ここへ来るのがどういう意味か、わからんわけではないだろう」

わたくしとてそこまで無知ではありません。最初は世俗に疎く横文字に弱いキャラやってたんですけどメンドくさくなっちゃって」

 おどけるツイナをひと睨みすると肩を竦め、目を伏せて真面目な声音で話し始める。

「……ここへ来たらご主人が闘うだけの修羅に身を堕とすとでも? 違う、違いますよ。むしろここへは来るしかなかった。でないと、ご主人は壊れてしまいかねなかった」

「どういう、事だ……?」

 伏目がちなツイナは力なく物憂げに笑うと、それ以上語る気は無いと一言だけ呟いた。

「貴女の知らない八年間は残酷なまでに赫奕かくえきとしていて、人を変えてしまうには十分すぎるという事です」

「…………」

 その言葉に、何も返すことはできなかった。

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