名無し

「おいしい焼き菓子フィニャンシェ、焼けたよ!」

 ネコノメちゃんが厨房ちゅうぼうから、お菓子を持って出てきました。

「ほっぺが、落っこちちゃうほど、おいしいよ! なんといっても、妖精猫のぼくが焼いたんだからね。スペシャルでとびっきりの特別な焼き菓子さ! フィシェじゃないよ。フィシェだよ! これは、お土産みやげ用。みんなに一つずつだよ。学校に帰ったら、自由研究のレポートをまとめながら、おやつに食べてね。そうだ、チョコペンで、名前を書いてあげよう。ラディちゃん、ほたるちゃん、ファ~ちゃん……。えっと、黒白もようの黒白猫ちゃんはなんて名前だっけ?」


 ラビィちゃんとほたるちゃんとファ~ちゃんの顔色がさあーっと変わり、黙り込んでしまいました。


「えっ? みんな、どうしたの? ぼく、なんか、へんなこと言った?」


 ネコノメちゃんがうろたえていると、黒白もようの仔猫がポツンと答えました。

 その声はとても小さかったのですが、そこにいる全員の耳に、雷鳴のように響き渡りました。


「ぼく、名前ないの」


 ラディちゃんとほたるちゃんとファ~ちゃんが、おとなたちの無神経な言動から、この子をかばい守ろうとしていた理由わけがわかり、わたしは思わず目をつぶりました。

 わたしの嫌な予感は、的中してしまったのです。


 黒白もようの仔猫は、うつむいたまま、ポツリポツリと続けました。

「ぼく、地上で名前を付けてくれる人が、いなかったから。ラディちゃんやほたるちゃんやファ~ちゃんみたいに、おかあさんやおとうさんの代わりになって、ぼくの面倒めんどうをみてくれる人間がいなかったんだ。人間は、ぼくにとっては、とっても嫌なもので、カラスや犬と同じに、ぼくの敵。人間を見たら逃げなければならなかった。つかまると、ぜったい、ひどい目にあうから。……ぼく、ぼくを産んでくれた猫のママの顔だって、覚えていない。ぼく、ずっと、地上でひとりぼっちだったんだ。なんか、すごく、恐いことがあったけれど、忘れちゃった。あんまり恐かったから、恐かったことしか覚えていない。あと、覚えているのは、 ぼくは、ずっとひとりぼっちだったことだけ。それで、とってもおなかがすいて……とってものどがかわいて……ずっと恐くて、ずっと寒くて、ずっと……」


 黒白猫の男の子の言葉を聞いているうちに、ラディちゃんの目からも、ほたるちゃんの目からも、ファ~ちゃんの目からも、大粒の涙があふれだしてきました。




 わたしの脳裏に、幼くして捨てられた地上での遠い7月の記憶が、灼熱のような痛みと共によみがえってきます。


 日盛りの神社の境内で、たったひとりで泣いていた、まだ乳飲み子だったわたし。

 太陽の日差しは容赦ようしゃもなくギラギラと全身に照りつけているのに、わたしは悪寒でガタガタと震えていました。

 降るような蝉たちの声に助けを呼ぶわたしの声はかき消され、目ヤニでくっついたまぶたは開けることさえできません。

 燃えるような日差しから身を隠したくても、わたしの小さな足は疲れきって動かず、ただその場にうずくまることしかできませんでした。


 地上での短すぎるわたしの生がまもなく終わろうとした時、まぶたの向こうの日差しがさえぎられ、柔らかな手がわたしを包み込みました。


 そう、これが、地上でわたしのおかあさんになってくれた人間との出会いでした。


 おかあさんは、わたしをすぐに獣医師さんのところに連れて行き、そのあと自分の家に連れて帰ってくれました。

 わたしは命を取り留め、『モモ』という名前になって、地上で19年の間幸せに生きることができました。


 あのはるかに遠い夏の日に、おかあさんが見つけて助けてくれなかったら、わたしはどうなっていたでしょう。この黒白猫の男の子と同じ、地上での思い出は恐ろしいことばかりだったはずです。

 虹の橋に渡って来ても、きっと、この子のようにおびえた悲しげな目をしたままで、こうして、お店を開くことなど思いもよらなかったはずなのです。


 それは、弟のギンぽんだって同じです。わたしが保護されてから、数年後のこと。箱に入れられ捨てられていた仔猫を、おかあさんが見つけて連れ帰り、わたしの弟のひとりとして育てたのです。

 ギンぽんは虹の橋に渡って来た今でさえ、くらがりつばさおびえるのと同じように、かつての地上での幼い日の出来事に怯えています。箱の中で震えていた時の心細さや恐ろしさが、どうかすると不意によみがえってくるというのです。


 ラディちゃんもほたるちゃんもファ~ちゃんも、同じです。

 この子たちも地上では、無残な怪我や重い病気になりました。一歩間違えば、黒白猫の男の子と同じ運命が待ち受けていたのです。

 でも、幸いにも、3にんの女の子たちは、優しい人間に出会うことができ、可愛い名前を付けてもらって、手厚い看護を受けることができました。だけど、彼女たちは、わたしとは違い、地上での生を長らえることはできず、仔猫のままの姿で虹の橋に来てしまいました。

 それでも、3にんの女の子たちは、苦しくつらい記憶を遥かに上回るあたたかな思い出をかかえきれないほどいて、虹の橋の街にやってきたのです。地上で受けた優しい想いは、地上で受けた傷より遥かに勝り、こんなに明るくて元気でいられるのです。


 それなのに、この黒白猫の男の子は……。




 黒白猫の男の子は不意に顔を上げて、わたしたちをぐるりと見回すと、吐き捨てるように言いました。

「ぼく、大きな声で、助けてって言った! 何度も、何度も言ったのに! それなのに、だれも、ぼくを助けてはくれなかった!」


「おはようございます!」

 お店の戸が開き、店の従業員で、ギンぽんの親友もんちくんが出勤してきました。

「モモちん、ギンぽん、ごめん。途中で友だちにあって、遅くなった。あれっ、今日は、可愛いお客様が来ているんだ。ラディちゃん、ほたるちゃん、ファ〜ちゃん、こんにちは。えっと、新顔の子もいるね。はじめまして、ぼく、もんち。きみは、なんて名……。」


 黒白猫の男の子は突然立ち上がると、もんちくんのかたわらをすり抜け、お店の外に飛び出して行きました。

「待って!」ギンぽんがあわてて、もんちくんを押しのけ、黒白猫の男の子の後を追います。


 黒白猫の男の子は、地上では、どれだけ不安で恐い思いで逃げまどい、隠れなければならなかったのでしょう。それなのに、虹の橋に来ても、まだ逃げなくてはならないなんて……。


「いったい、どういうこと、モモちん。なにが、あったの?」

 もんちくんは呆気あっけにとられて、わたしにたずねました。

 わたしが手短に説明すると、もんちくんはうなずき、黒白猫の男の子とギンぽんの後を追って、お店の外に駆け出して行きました。

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