第10話 火星の女王の囁き

菩提樹の下で瞑想に耽っていた私、シッダールタ・ゴータマは、突如として奇妙な夢の中へと引き込まれていった。


夢の中で、私は宇宙船の中にいた。「レッドホープ」と呼ばれる火星植民地開発計画の一員として、地球から遥か3億キロ離れた赤い惑星に向かっているのだという。


狭い個室で目覚めた私の視界に、無機質な宇宙船の内装が広がっていた。壁面のディスプレイには、あと72時間で火星軌道に到達する旨が表示されている。


突然、枕元で何かが動いた。火星のサンプルとして持ち込んだという、カニに似た小さな生物「マーシャン・クラブ」だった。それは素早く私の腕をよじ登り、瞬く間に頭上に乗った。

激しい頭痛に襲われ、意識が遠のいていく。目の前が真っ暗になったかと思うと、私の周りの世界は一変していた。


巨大な赤茶けた岩肌が天を覆い、遥か頭上には薄暗い火星の空が広がっている。どうやら、私は火星の地下洞窟にいるらしかった。

洞窟の中央には、巨大化したマーシャン・クラブが鎮座していた。その背に、細身の女性が玉座に腰かけるように座っている。


「ようこそ、地球人。私は火星の女王」

女王の声が、私の頭の中に直接響いた。


「お前の脳に、我々の胞子が侵入している。やがてお前は我々の一部となり、お前の意識は永遠に消え去るだろう」


絶望的な状況に陥った私は、必死に抵抗しようとした。そのとき、女王が不敵な笑みを浮かべた。


「さようなら、哀れな地球人よ」


女王の笑い声が、洞窟中に響き渡る。

私の意識が闇に飲み込まれていく。


「目を覚ませ」


突如、別の声が聞こえた。


「目を覚ませ、シッダールタ」


その声は、どこか聞き覚えがある。

「お前はまだ、真理を見出していない」

その声の主は、タイの伝説の生物、パヤナークだった。巨大な翼を持つドラゴンのような姿で、鱗には神秘的な光沢が宿っている。その姿は威厳に満ち、しかし同時に慈悲深さも感じられた。


「目を覚ませ!」


私は、大きな衝撃と共に目を覚ました。


周りを見回すと、そこは再び宇宙船の個室だった。しかし、枕元にはマーシャン・クラブの死骸があり、胸元には赤茶けた砂のようなものが付着していた。


混乱する私の脳裏に、先ほどの夢の光景が蘇る。


「これは...」


私は慌てて通信機を手に取ろうとしたが、その瞬間、通信機は突如として砂と化し、床に落ちていった。


パニックに陥る私。必死に扉に駆け寄るが、扉はびくともしない。


そのとき、私の頭の中に、再び女王の声が響いた。


「無駄だ。お前はもう、我々の一部なのだ」

私の体は徐々に赤い砂に変わっていく。


「目を覚ませ」


再び、パヤナークの声が聞こえた。その声は、まるで遠い雷鳴のように響き渡る。


「目を覚ませ、シッダールタ。これが本当の現実ではない」


混沌とした意識の中で、私は必死にその声にしがみついた。


「目を覚ませ!」


私の目が開いた。


そこは、菩提樹の下だった。瞑想していた自分がいる。そして、目の前には巨大なドラゴンの姿をしたパヤナークが佇んでいた。その翼は空を覆うほどに広大で、鱗の一枚一枚が宝石のように輝いている。


「よく戻ってきたな、シッダールタ」


パヤナークの声は、大地を揺るがすほどに重厚だった。


「これは...夢なのか?それとも現実なのか?」

「それは、お前が悟ることだ」


パヤナークは静かに答えた。その巨大な瞳には、宇宙の深遠さが宿っているかのようだった。


「お前は今、自分の内なる世界を旅している。火星への旅も、女王との戦いも、全ては自分自身との対話だ」


私は、自分の手のひらを見つめた。そこには、かすかに赤い砂が残っていた。


「私は...一体何を求めているのだ?」


「それこそが、お前が悟らねばならぬことだ」

パヤナークの言葉が、私の心に響く。


「新たな世界を求めることが、本当にお前の道なのか。それとも、ここにある真理こそが、お前の求めるものなのか」


私は、周りを見渡した。生命力に満ち溢れた木々、清らかな川のせせらぎ、そして、遥か頭上に広がる青い空。


「私は...」


言葉につまる私。しかし、その瞬間、心に確かな悟りが訪れた。


「私は、ここで真理を探求するのだ」


その言葉と共に、私の体から赤い砂が風に乗って舞い上がった。


パヤナークは穏やかな笑みを浮かべた。その表情は、ドラゴンの顔にありながら、不思議と慈愛に満ちていた。


「よく悟ったな、シッダールタ。さあ、本当の修行の始まりだ」


私は立ち上がり、再び瞑想の姿勢をとった。頭上では、パヤナークが巨大な翼を広げ、天空へと舞い上がっていった。その姿は、やがて雲の彼方に消えていったが、その存在感は長く私の心に残り続けた。


私の心には、かつてない平安が訪れていた。そして、これからの長い修行の道のりに、新たな決意が芽生えていた。


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