12/14 苦いバターと良いバター
トントン、とドアをノックする音がした。
「おはよう、レディ。今日、手に入れたいものは決まってるんだ。やっぱり——」と、先走って話しながらドアを開けた途端、恥ずかしくなった。
レディじゃない。
いたのは、手に四角い銀の包みを持った小さな女の子だった。女の子は眉をハの字にし、何か言いたそうに口元をモゴモゴとさせている。
「どうしたの? 僕になにかごよう?」
話しやすいように膝を折って目線を合わせた。それに安心したのか、女の子は舌足らずな口調で一生懸命に話し出す。
「あのね、ベティー……バターを買ったの。でもね、食べてみたら、そのバター、ちょっと苦かったの……」
ベティーというのは自分のことだろう。
ただ“苦い”というのは、不思議な表現だ。パティシエの仕事をしていて、バターに苦いものがあるなんて聞いたことがない。
「だからね……ベティー、良いバター……」
これはもしかして、『もっと良いバターが欲しい』という話なのではないか。どうしよう、ここにはバターがない。仮にもケーキ屋を看板に掲げているくせに。僕はちょっと身構えた。
「を、買ったの」
買ったんだ! よかった、買ってる。
「でも高かったから、買えたのはちょっぴりだけ。だから、その良いバターを……苦いバターに混ぜてみたの。全部」
え、混ぜちゃったの? 良いバターを全部?
「そうしたら、苦いバターの味もよくなるんじゃないかと思ったの……。でも……」
ベティーは、言葉に詰まる。
「苦いままだったの」
うん、そうなるよね。苦いバターの方が、圧倒的に量が多いわけだから。
「ケーキ屋さんは、甘いものをつくるのが得意なんでしょ? だから、苦いものも甘くできるんじゃないかと思って。もう、頼りにできる人がいないの……。お願い! 助けて……!」
おぉ……。
こんな小さな子に、助けを求められて無下にできる人間なんているだろうか。いや、いるかもしれないけど、少なくとも僕には無理だった。どこまで出来るか分からないけど、頑張ってみることにしよう——そう瞬時に決意した。
まずは——。
「ねぇ、その苦いバターっていうのを、食べてみてもいいかな?」
ベティーはコックリと頷き、手に持っていた銀の包みを差し出してくる。
開けてみると、苦いというバターは通常のものより、ちょっと黄色みが強いように思えたけど、そこまでおかしな様には見えなかった。
バターの表面を削り、手に乗せ、スンと匂いを嗅いでみる。
……
予感めいたものを感じながら、それをパクりと口に含んだ。
「……ああ、なるほど」
僕には、ベティーがこのバターを「苦い」って言った理由がなんとなくわかった。
バター自体の品質は悪くない。むしろ、これは上質な部類といえる。ただし、少々癖が強い。
牧草だけを与えた牛の乳から作られる、グラスフェッドバターに味はやや近い。口当たりはごくごく軽いけど、その香りには入り豆のような独特の香ばしさと、グラスの青くささが僅かに混じっている。
子供は味覚が鋭い。この独特な香りと味わいを『苦い』と表現している可能性はある。
さて、どうしようか。
「君は、このバターを何に使うか、もう決まっているの?」
聞くとしばしの沈黙ののち、ベティーは答えた。
「あのね、いつもはクッキーの生地にいれてるんだけど、今日のはパンに塗って食べようと思ってたの。道で、沢山パンを食べてる男の人がいて、その人が『バターはパンにとびきり合うよ』って教えてくれたから」
「そっか。じゃあパンに塗るやつにしよう」
ちょっと、思いついたことがある。
苦いバターをボールに入れ、厨房にあった業務用の大きなミキサー機にセット。スイッチをいれる。
グルングルンと回る回転板により、バターはみるまに白く泡立っていった。
わぁ!! ベティーが目を輝かせる。
「ちょっと味見してみる?」と聞くと、コクコクと勢いよくうなづく。
スプーンですくって、口に運んであげると、大きな目がさらにまん丸になった。
「あんまり苦くない!」
よしよし。人が感じる『味』というのは、いろいろな要因が絡んで構成されるものだ。こうやってホイップし、口あたりを良くするだけでも、味の印象はだいぶ変わる。
——と偉そうに言ってみたけど、全部、通っていた製菓学校の受け売りだ。
これだけで、ベティーのいう苦みはかなり軽減されたようだけど、ダメ押しをしておこう。
干し葡萄と、ドライフルーツにしておいたオレンジ、それにレモンを取り出す。もちろんプディング用のは、別に確保して。
三種類ともベティーに味見してもらったけど「全部、全部、美味しい!」と大好評だった。
意外なことにベティーは、オレンジやレモンの柑橘系の苦味は、大丈夫らしい。
細かく刻み、ザザザザと一気にバターに加えていく。
ミキサーの回転数を下げ、バターの泡を壊さないようにざっくりと混ぜあげた。
「わあ、宝石箱みたい……!」
できあがったドライフルーツ入りのホイップバターを見てベティーは大はしゃぎだ。
ふわふわとした白い雪のようなバターに、干し葡萄の深い紫、オレンジの暖かい飴色、それにレモンの冴え冴えした黄色が映える。
それをまた一口あげると、ベティーは何も言わなかったけど、とろりと蕩けるような笑顔をこぼした。
容器に詰めて渡してあげたら、「おうちに帰ったら、パンに塗って食べてみるね!」と、ベティーは嬉しそうに眺める。
そして決心したように、背負っていたリュックから四角い金色の包みを取り出した。
「実はね、ちょっと良いバター、まだ残っていたの。……でももし、このバターが残ってるって言ったら、もう苦いバターを美味しくしてもらえなくなっちゃうと思って……。嘘ついてごめんなさい! このバターは、お詫びにあげる!」
言うなり、包みを僕の手に押し付けてくる。大したことはしていないし断ろうと口を開いた瞬間、あれ……? ベティーの姿は煙のように消えていた。
入れ違いでやってきたレディが、僕の手元をみて言う。
「まあ。今日は私の出番なしかしら?」
この日、僕は意図せず、ちょっと良い『バター』を手に入れた。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
以下、登場したマザーグースの紹介
『Betty Botter bought some butter』
(ベティー・ボッターがバターを買った)
Betty Botter bought some butter,
But, she said, the butter's bitter;
If I put it in my batter
It will make my batter bitter,
But a bit of better butter,
That would make my batter better.
So she bought a bit of butter ,
Better than her bitter butter,
And she put it in her batter
And the batter was not bitter.
So 't was better Betty Botter
Bought a bit of better butter.
ベティー・ボッターがバターを買った。
けれど彼女は言うの「買ったバターの味がビターだわ」
このバターを生地に入れたら、ビターな味の生地になっちゃうわ 。
けれどベターなバターがあったなら 、
きっとベターな生地ができるはず。
だから彼女は、ビターなバターより
ほんのちょっぴりベターなバターを買った。
それを入れた生地は
ビターじゃなかったの。
だからベターだったのよ。
ベティー・ボッターが、ベターなバターを買ったのは。
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