第3話 サキのいのち

宗教の国は小さく、次の日にはまた西の国境に近づいていた。

ヒカリはこの国に全く未練はなかったが、あの子供のことだけが心に引っかかっていた。

その理由がただ気になったということだけではないことはもうわかっていた。

『あの子はサキに似ていた。』

ヒカリは昨日の子供の姿に、サキの姿を重ね合わせていた。


ヒカリは今まさにこの国を出ようとしていたが、旅人にとっては一大イベントである国境越えの瞬間を全く無視していた。

そしてヒカリは気持ちいいぐらいあっさりと宗教の国を出た。


ヒカリの心は遠く別のところにあった。

ヒカリの意識は十五年前に戻っていった…

       ・

       ・

       ・

八歳のヒカリは毎日毎日もう飽き飽きしていた。

朝から晩まで家庭教師による勉強、トレーニング、戦術、勉強、勉強…

この頃は父親がちょうど元帥に就いて間もない頃で、父親は自分の体裁のためかヒカリの教育にも力が入っていた。

というか問題を起こさない為に四六時中監視しておきたかったとも言える。

毎日したくもない勉強と見飽きた家庭教師の先生の顔…八歳のヒカリはもう限界を感じていた。

『ここから出たい。遊べなくてもいいからとりあえず出たい。』

そう思い続けていたある日、チャンスは突然にやってきた。

家庭教師の先生が熱が出たとかで、(それはヒカリが相当に扱いづらい子供だったので智恵熱が出たのかは定かではないが…)一日完全に休みになった。

父親も遠征でしばらく家には帰って来ないので、ヒカリにとっては人生最大とも思えるチャンスの日となった。

しかし外に出る為には家の掃除婦さんや父親の側近に見つからずに出なければならなかった。

『どうする?』

ヒカリは窓を見た。

ヒカリの部屋は家の三階、飛び降りるには無理があるが…

『配水管をつたっていけば二階まで降りられる。そこからなら下が草だから飛び降りても大丈夫だ。』

判断力と行動力は父親譲りだったが、無鉄砲なところも父親からしっかり受け継いだものだった。

ヒカリは窓を開けて外に誰もいないか確認して、ためらわずに窓枠を超えた。

配水管は若干脆くなっていて、ヒカリが掴まった途端パキパキと苦しげな音を立てた。

これにはヒカリも一瞬ヒヤッとしたが、なんとか二階までつたって降りた。

そこからは速かった。

二階から飛び降り見事に着地したヒカリは、家の壁を飛び越えて脱兎のごとく走った。

日頃のトレーニングの成果がこんなところで発揮されていた。


ヒカリは家から数キロ先にある下町に来ていた。

小さな商店や露店が軒を連ね、町の人達で賑わっていた。

ヒカリは久々にワクワクしていた。

なんとなく店の様子や行き交う人達を眺め、時々わざと人の流れに流されたりして楽しんだ。

目的もなくぶらぶらしていたヒカリはふと野菜や果物を売っている小さな露店に目を留めた。

『誰もいない。』

『お店の人はどこに行ったんだろう。』

その時、ヒカリの中に妙な感情が芽生えた。

『…』

行き交う人は皆忙しそうで、ヒカリのことは気にも留めていない様子だった。

『…いける。』

そう思ってヒカリはそこにあったりんごをむんずと掴んだ。

しかし次の瞬間。

「コラー!何やってる!」

ヒカリは飛び上がった。

ヒカリの目に、叫びながらこの店の店主と思われるおじさんが走ってくるのが映った。

『!』

ヒカリは走り出した。

その手にりんごを握ったまま。


ヒカリは人を掻き分け商店街を走った。

しかしおじさんも相当な脚力を持っていたのか、諦めることなく追いかけてくる。

『まずい!ここで捕まったら、お父さんに…殺される!』

ヒカリは必死だった。

そりゃ命がかかってるんだから。

細い路地裏に入ったら逃げ切れるかと考えていた時、ヒカリは横からおもいっきり腕を引っ張られこけそうになった。

「こっちだ!来い!」

そう言って、ヒカリと同い年位の子供がヒカリを引っ張って走った。

その子供の身軽さはヒカリ以上だった。

路地裏を見事に駆け抜け、塀に登り、明らかに人の家の庭だと思われる場所を猛然と横切って走った。

運動神経抜群で普段からトレーニングをしているヒカリでも、付いていくのがやっとだった。

「ちょっとまって!」

人がいない路地に出たところでヒカリがついに声をかけた。

同い年位の子供は急ブレーキして振り返った。

その顔は端整だったが髪はボサボサで頬に泥汚れがついていた。

「お前盗るの下手だな~」

第一声がそれだった。

しかしまったく息切れしていなかった。

「もっと上手くやれよ!っていうか勝手にあそこであんなに下手に盗ってもらっちゃ困るんだけど、警戒されて次やりにくくなるだろ!?」

その子供は腕を組んで半ば怒るように言ったが、息切れでほとんど呼吸困難に陥っていたヒカリは曖昧に右手を上げただけだった。

「まぁいいけど。俺はバレても捕まらないしね。」

そう軽い調子で言った。

「というかお前初めて見る顔だな?名前は?」

「…ヒカリ…」

ヒカリはまだ息苦しそうに答えた。

「ヒカリか、俺はサキだ。」

「サキか、いい名前だね、はじめまして。」

そう言って右手を差し出した。

こんな所で育ちがいいのが出てしまったヒカリだった。

サキが右手を見て不思議そうな顔をしたので、ヒカリはハッと気づいて慌てて右手をなんとなくブラブラさせた。

「…え~と、サキは、う~ん、この辺に住んでるの?」

「いや、家はもっと向こうだよ。スラムの中。」

「…スラム…」

スラムとは下町のさらに下町のようなところで、貧しい人達が集まって生活していた。

ヒカリは父親や家庭教師からスラムにだけは絶対に入るなときつく言われていた。

スラムは治安が悪く、無秩序で犯罪が横行、黙認されている場所だと聞かされていた。

「あぁ、スラムだが…お前はなんかあれだな、お坊ちゃん風だな。」

サキはヒカリの小綺麗な格好を見てそう言った。

しかしそこに妬みやひがみの色は一切なかった。

「僕は…最近隣町から引っ越してきて、家は商店街の向こうなんだけど、父親は…しがないただの商人さ。」

そう言ってごまかした。

「そうか、まぁなんでもいい。けどお前もなかなかできるな!俺にここまで付いてこれる奴はそうそういないからな!…でもまぁ…盗り方は最悪だったけどな。」

最後の言葉は哀れみのような表情を浮かべて言った。

サキのその言葉で、ヒカリは自分がりんごを盗ったことを思い出した。

左手にしっかり握られていた。

「…初めて盗ったのか?」

ヒカリの微妙な表情を見てサキが聞いた。

「…うん。」

ヒカリはさり気なく言ったつもりだったが、今更ながら自分がりんごを盗ってしまったことを後悔していた。

「そんなにりんご食いたかったのか?」

サキは少し首を傾げてまた聞いた。

「…いや、そうでもない。」

ヒカリはりんごを盗ってしまった理由が自分でもよくわからなかった。

ただ反射的に手を伸ばしただけだった。

そこにはヒカリのストレスと寂しさが反映されていたが、子供だったヒカリは自分のそんな感情には気づかず、後味の悪い感じだけが残った。

しかしサキはそんなヒカリの複雑な感情を気持ちよくぶった切ってみせた。

「ははっ!そうでもないってなんだよ!じゃあくれよ、ちょうど腹へっててさ。」

そう笑顔で言って手を伸ばした。

ヒカリはサキのその笑顔を見て心から重しが取れるような感覚がした。

「やったね!」

そう言ってサキは勢いよくりんごにかぶりついた。


その日サキと一緒に過ごした時間はヒカリにとって今までの人生で一番楽しい時間となった。

サキの笑顔もからっきしの元気も、品のない言動も悪智恵も全部がヒカリには魅力的だった。

「ヒカリ、明日もまた遊べるか?」

サキがそう言った時初めて、夕方になっていたことに気がついた。

「…明日…」

ヒカリはどう答えたらいいのかわからなかった。

サキが怪訝な顔をしたのでヒカリは焦った。

しかしサキはすぐに笑顔になって言った。

「あぁ、引っ越しの片付けとかあるか。まぁ気が向いたらいつでも来いよ。俺はいつでもこの辺かスラムにいるから。」

そう言ってサキはヒカリの返事も聞かず駆け出し、鼻歌を歌いながら去っていった。

ヒカリはずっと、サキの背中を見送っていた。


ヒカリは焦っていた。

夕食の時間までに自分の部屋に戻らないと、家から出たことがバレてしまう。

『今日はよく走る日だ。』

夕日に向かって走るヒカリ。

その夕日と赤く染まる西の空を見ながら思った。

『夕日ってこんなに綺麗だったっけ?』

サキと出会ったことでヒカリの世界は極彩色になり、全てが輝いて見えた。

サキはヒカリの人生初の友達だった。


しかし次の日、家庭教師の先生が早々と復帰しヒカリの日常はまた単調で退屈なものに戻ってしまった。

なんとかしてまた外に出る方法を考えていたヒカリだったが、日中は家庭教師の先生がずっとヒカリと一緒にいるので絶望的だった。

数日経った頃、ヒカリはもうこの方法しかないとふんでいた。

それは就寝時間を過ぎてから抜け出すという荒技だった。

ヒカリはついに一週間ぶりに窓枠に足をかけた。

『またサキに会える!』

そう思うと心が躍った。

小慣れた身のこなしで二階までいき、飛び降りた。

そこからはまた速かった。

音もなく夜の闇に同化し、滑るように駆けていった。


こうしてヒカリの夜の脱走はうまくいき、ヒカリは毎日のようにサキに会いに行くようになった。




ある日の夜、いつも通り自分の部屋を抜け出しサキに会いに行ったヒカリは、サキの家に着く前にスラムの前でサキに会った。

どこから調達してきたのか、サキの手には二つのりんごが握られていた。

「よぉ、ヒカリ!りんご食うか?」

サキがもうりんごをかじりながらそう聞いた。

「あぁ、ありがとう。」

サキが投げたりんごを見事キャッチしてかぶりついた。

二人はりんごを食べながらぶらぶらと歩き、よく来る空き地の大きな石の上に座った。


「しかしサキのお母さんは大変だな~こんなガサツな息子を一人で育てて。」

ヒカリは笑いながらしみじみそう言ったが、サキは怪訝な顔をした。

「今なんて言った?」

「え?いや、ガサツって言ったのはちょっと悪かったけど…」

ヒカリは慌てて謝った。

「違うよ、次、息子って何?俺は一人っ子だよ。兄貴も弟もいない。」

今度はヒカリが怪訝な顔をする番だった。

「知ってるよ。だからサキ一人だろ?息子一人じゃないか。」

「…」

サキは「はー…」と大きくため息をついて大袈裟に首を振ってみせた。

「娘だよ、む・す・め。」

そう言って自分を指さした。

「…は?」

長い沈黙…

「ええぇえぇー!?」

ヒカリは後ろに二メートルは吹っ飛んだ。

「むむむむ娘?」

「…いやいやいやいやありえないありえないありえない…」

吹っ飛んだヒカリを見て爆笑していたサキだったが、あまりにもヒカリが否定するので不機嫌になった。

「お前なー失礼だぞ!っつか今まで気づいてなかったのが信じらんねー…ヒカリ…お前相当鈍いぞ…」

「いや…え?サキが…女?」

完全にパニックのヒカリだった。

「ありえない…こんな女、いないだろ…」

ヒカリがあまりにも愕然とした顔でサキを見たので、サキはその間抜けな顔にまた爆笑した。

「俺は女だよ。けどそれが何か問題あんの?」

サキはまったく意に介さず強くそう言った。

「…あ…いえ、問題はありません。」

ヒカリは二メートル先でほぼ正座状態でそう答えた。

「あははっなんで敬語なんだよ。」

「いや、なんとなくです。」

サキはツボにはまったらしく笑いが止まらなくなっていた。

そのいつもと変わらないガサツな笑い方にヒカリもにやっと笑った。

『サキはやっぱりサキだ。』




しかしヒカリの楽しい時間はそう長くは続かなかった。

その日もまた、いつものように家を抜け出しサキの家へと向かった。

「よ!来たか。」

「よ!あ、おばさんもこんばんは。」

痩せた色白のサキの母親がヒカリを見て笑顔になった。

「ヒカリ君いらっしゃい。いつも言うけど、夜に来て大丈夫なの?親御さんが心配するよ?」

「いえ、大丈夫です、ほんと。」

ヒカリはそう答えたが、実は自分のしている行動についてあまり深く考たことはなかった。

というかわざと考えないようにしていた。

ただサキとふざけている時間が楽しい、それだけしか考えたくなかった。


しかしその時…

サキの家のボロ扉が勢いよく開いた。

サキと母親は開いた扉から入ってきた人間に見覚えがなくキョトンとしていたが、ヒカリだけが真っ青な顔になり痙攣をおこしたように口をパクパクさせた。

入ってきた人間がヒカリを見据えて口を開いた。

「ヒカリ、お前ここで何をやっている?」

その低い威圧感のある声で空気が震えた。

ヒカリも震えた。

どうやらヒカリと知り合いらしいとわかったサキと母親は一瞬ほっとした顔をしたが、固まって小刻みに震えているヒカリを見て眉根を寄せた。

「ヒカリ、答えなさい。」

ヒカリはのどがカラカラになっていたが、必死でそこから声を絞り出した。

「…ごめんなさい。すぐに戻ります。」

サキはわけがわからないというような顔をしていたが、その時サキの母親がはっ!っと息を飲んだ。

扉から入ってきた人間の胸に、軍の、しかも元帥のエンブレムが光っていたからだ。

スラムの人達でさえ、元帥がどういう存在かは知っていた。

サキの母親も、ヒカリと同じように震え始めた。

「げ、元帥様?…なぜ…ここに…?」

元帥は話しかけたサキの母親をまったく見ずに、ヒカリを見据えたまま答えた。

「息子を連れ戻し来た。」

ヒカリには永遠とも思える長い沈黙…

「…げんすい?…ってあの超えらい人!?」

それまで完全にぽかんとしていたサキが突然飛び上がった。

「…で…息子…?」

サキがヒカリと元帥を何度も交互に見た。

ヒカリはサキの視線にいたたまれない思いがした。

「っえーーーー!?っヒカリ!お前なに!?超すごい家の子だったんか!?」

「すっげー…」

サキは完全に興奮状態だったが、母親は娘の言葉に青ざめた顔をした。

元帥がサキを見て、「なんともはしたない」というような完全に侮蔑した目をした。

それに気づいたヒカリは、サキとおばさんへの申し訳なさと、人をそんな目で見る父親への恥ずかしさ、そして甘く考えていた自分への憤りで頭がガンガンして全身から冷や汗が流れていた。

サキの母親が声を震わせながら元帥に話しかけた。

「…娘が、失礼を…何より、大事なご子息様を、知らなかったとはいえこんな汚いところに…」

サキの母親は土下座していた。

『…おばさん、やめて…僕が悪いのに…』

ヒカリは虚ろにそう思っていたが、声が出なかった。

元帥がまた最高に蔑んだ目をしてサキの母親を見下した。

「息子には今後一切関わるな。」

それまでどうしていいかわからなかったサキだが、この元帥の言葉に勇敢にも反論した。

「ちょっと待って!…ください。ヒカリは友達です、友達に関わるなというのは意味がわからないです、会いたい時に会うのが友達でしょう?」

この言葉にサキの母親は土下座しながら「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、ヒカリも絶望的な気分になった。

ヒカリは勢い良くサキの服を引っ張った。

サキが転げた。

「いてー!ヒカリなにすん…」

そう言いかけたが、ヒカリがあまりにも青白い顔をし冷や汗を流している姿を見て、さすがのサキも非常事態を察した。

「…お父さん…帰ります。そして、二度とここへは来ません。」

ヒカリは元帥を真っ直ぐ見てそう言った。

この言葉にサキはショックを受けたが、自分の服を引っ張ったまま掴んでいるヒカリの手が震えているのを見て心配そうな顔をした。

「当然だ。」

元帥はそう言ってヒカリの首根っこをむんずと掴んだ。


ヒカリは人生で一番と思える程心が沈んでいた。

それはこの後父親に半殺しにされることがわかっているからではなかった。

サキにもう会えないという事実と、サキとサキの母親を侮蔑的な目で見た父親の顔が一生目に焼きついて離れない気がして、それらがヒカリの心を深く深く沈めていった。




それから一年以上が経った。

ヒカリはもちろんそれ以来サキに会っていなかった。

また単調で退屈な日々を送っていたヒカリだったが、もう外に出ようとすることはなかった。

ヒカリが外に出るとサキ達に迷惑がかかることは九歳のヒカリでもよくわかっていた。

もう自分のせいでサキ達が父親に蔑まれるのは耐えられなかった。


そんなある日、突然医者がやってきて「予防接種だ」と言ってヒカリの腕に注射だけして帰っていった。

あまりにも医者が迅速だったのと、別に興味もなかったヒカリはそんなことはすぐに忘れてしまっていた。

しかし予防接種から二週間程経ったある日、ヒカリは父親の側近が二人でこそこそ会話しているところに出くわした。

見つからないように隠れながら、話しが聞こえる距離まで近づいた。

「・・・隣国で流行っていた例の疫病、ついにこの国でも感染者が出たらしい。どうやら予防接種を受けられなかったスラムの奴らしいが、これでこの国でも広まる可能性がでてきたな…」

ヒカリは側近の「スラム」という言葉で飛び上がりそうになった。

『疫病!?』

ヒカリはここで二週間前に医者が来て注射を打たれたことを思い出した。

『こないだの注射が予防接種だったのか…スラム…サキは予防接種受けられたのかな…』

ヒカリは急に不安になって心臓がシクシク痛んだ。

「・・・あれは酷いらしいぞ、なんでも三日三晩血を吐き続けた挙句、感染すれば必ず死ぬらしい。」

「本当か!?最悪だな…でも予防接種を受けた人間が感染したという例は隣国でもまだ無いらしい。ひとまず予防接種を受けていれば大丈夫だよ。」

そう言って一人がもう一人の肩を叩いた。

しかしヒカリはその二人とは裏腹に蒼白な顔になっていた。

『予防接種って、僕は知らない間に受けたけど、誰でも受けられるものなのか?サキもスラムの人も皆受けていたらいいんだけど。でも…今スラムの人が一人感染したって……それがサキってことはないよな…?』

ヒカリは長い廊下でしばらく、音も無く佇んでいた。


『何とかサキが無事か、ちゃんと予防接種を受けられたか確かめられたらいいんだけど…』

そんなことを考えながら歴史の授業を受けていたヒカリは、家庭教師の先生に思いっきり頭をはたかれた。

しかしそのことに三秒程気づかないぐらい、ネガティブな思考のループにはまっていた。

「ヒカリ!私の話しをまったく聞いていないとは何事です!」

家庭教師の先生がキィキィ喚いていたが、いつものことなのでヒカリはまた考えに没頭した。

『とりあえず無事を確認したい。そのためにはやっぱり抜け出すしかないか…』

こうしてヒカリは一年ぶりにサキに会いに行く決心をした。

幸い、最近大人しくしていたヒカリを見て父親も家庭教師の先生もヒカリが心を入れ替えたと思ったらしく、ヒカリへの警戒はだいぶ薄くなっていた。

しかし父親が家にいる時はバレる可能性が高い、…というかバレるのが怖くて実行に移す勇気が沸かなかった。

しかしチャンスはやってきた。

父親が疫病の件で他の元帥と緊急の会議をするため、一日だけ泊まりで別の街へ出向くことになったのだ。

『今日を逃したら一生無理だ。』

ヒカリは自分にそう言い聞かせて一年ぶりに窓枠に足をかけた。

夜の闇へ一年ぶりの逃走…サキのことが気が狂いそうな程心配だったが、この一年ぶりの自由の感覚をヒカリは噛み締めていた。


寝静まった商店街を駆け抜け、スラムへと急いだ。

「はぁ…はぁ…」

『サキ、絶対無事でいてくれよ!』


スラムの入り口に着いた途端、ヒカリは異変に気づいた。

今までの人生で嗅いだことのないような異臭が辺りにたちこめていた。

ヒカリの不安は最高潮に達していた。

「サキ!」

声を出さないと不安に潰されそうだったヒカリは叫んだ。

ヒカリは懐かしいサキの家へと走った。

「はぁ…サキ…サキ!」

そう言って勢いよく扉を開けた。

懐かしいサキがいた。


だがそこは、赤い血の海になっていた…

「!…サキ…おばさん…」

ヒカリはその光景に思わず後ずさった。

サキは床に転がったまま、苦しそうに咳をしていた。

口から流れる血を拭く力も残っていないかのように弱っていた。

「…サキ…」

ヒカリはどうしていいかわからないまま立ち尽くした。

その時サキが薄く目を開けた。

サキはその目でヒカリを捉えると、驚いたような怒ったような顔をした。

「サキ!」

ヒカリはサキを起こそうと一歩近づいたが、サキはヒカリを睨みつけた。

「…ヒカリ…てめぇなにのこのこ来てんだよ…!史上最高にアホだな…てめぇは…とっとと帰れ…はぁ…っ帰れ!」

最後の言葉を物凄い形相で言ったかと思うと、また激しく床に血を吐いた。

「サキ!早く病院に行こう。」

ヒカリは半泣きでサキに近づこうとしたが、サキは思いっきりヒカリを蹴り飛ばした。

ヒカリはパニック状態でサキがなんで自分を蹴り飛ばすのか理解できなかった。

「…ヒカリ…頼むから…帰れ…」

そう言ってまた床に倒れて気を失った。

「サキー!」

ヒカリがサキに近づき揺り起こそうとした、その時…

開け放した扉の向こうに動くものが見え、どんどん近づいてくる。

近づいてくるものは妙にもこもこしたテディベアのようなフォルムで、ぎこちなく歩いてくる。

その場違いに愛らしい姿にヒカリはイライラした。

しかしすぐに、そのテディベア軍団の胸に軍のエンブレムが見えた。

ヒカリは血の気が引いた。

どうやら感染防御スーツを着た特別に編成された軍のチームらしい。

ヒカリを見つけたテディベア軍団は、がっさがっさとヒカリのもとに走って来て、ヒカリを捕獲した。

「離せー!」

そう叫んでもテディベア軍団の中身は軍の鍛え上げられた兵士達、ヒカリを軽々担いでサキの家から連れ出した。

そしてヒカリに消火器のようなものを向けたかと思うと、白い煙を勢いよく噴射しヒカリを徹底的に消毒した。

テディベア軍団に容赦は無かった。


ヒカリはその後テディベア軍団に拉致され病院の隔離病棟に放り込まれた。

ヒカリ逃走&隔離病棟のニュースはすぐに父親にも届いたが、隔離病棟には親でも入れなかったのでお説教はお預けだった。

しかし父親の怒りの怨念は、いくら離れていてもヒカリにはひしひしと伝わってきた。


ヒカリが拉致されてから二日。

ヒカリが気になっていたのは、以前父親の側近が話していた、「感染すれば必ず死ぬ」という言葉と「三日三晩」という話し。

もし両方が本当ならもう時間がない、むしろ手遅れかもしれない…

ヒカリは「なんとかサキを診てくれないか」と入れ替わり立ち替わりやってくる医師や看護師にしつこくお願いしたが、誰一人として相手にしてくれなかった。

『もう時間がない。なんとかサキをここまで連れてこれたら…』

『いくらなんでも目の前で死にかけている子供を診てくれないはずがない。』

ヒカリの考えは、まだまだ純粋な子供の考えだった。


しかしヒカリは必死だった。

サキを助けたい、それ以外のものはもう目に見えていなかった。

隔離病棟は外からも鍵をかけられるため、こっそり抜け出すのは不可能だった。

『最後の手段。』

ヒカリは意を決していた。

検査のために看護師が一人で部屋に入ってきた。

採血のために注射を手に取って準備を始めた。

ヒカリはチラッと看護師を見て…

『今だ!』

看護師のみぞおちに思いっきりグーでパンチをいれた。

きれいにみぞおちに入ったのか、崩れ落ちた看護師におざなりに謝って部屋を飛び出した。

途中何人かの看護師に見つかったが、ヒカリは止まることなく数名を吹っ飛ばす勢いで突き進んだ。

病院の服のまま、裸足で猛然とスラムまで駆けた。


汚かったけどあんなに活気のあったスラムが、今は物音一つしない世界に変わっていた。

ところどころ茶色の土に赤い血が染みていた。

「…!?」

スラムの中心まで来たヒカリは、目が落ちるかと思う程目を見張った。

…そこには打ち捨てられた遺体の山があった。

無造作に遺体が一箇所に積み上げられていた。

ヒカリは激しい吐き気をもよおした。

これが自分と同じ人間だとは思えなかった。

まだ微かに息がある人もいた。

しかしまだ息がありちゃんと生きているのに、もうすぐ死ぬだろうということで遺体と一緒にされていた。

以前会って話しをしたことのある人の顔があったが、以前とはまったく別の存在になってしまっていた。

光を失ったその目が、虚ろにヒカリを見ていた。

「…うっうっ…サキ!っサキ!」

ヒカリは気が狂いそうになるのを振り払うため、必死にサキを呼んだ。

その時…

積まれた遺体の山の中にサキを見つけた。

「サキ!」

ヒカリはサキを抱えて山から引き出した。

遺体の山が少し崩れた…

「サキ!僕だ!ヒカリだよ!」

サキは奇跡的にまだ息をしていた。

「…ヒカリ…」

ヒカリの腕の中でぐったりとしたサキは、以前の半分の重さになったのではと思う程痩せこけ、その目はもう見えてはいなかった。

しかしヒカリの声は届いていた。

「サキ…ごめん…頼むよ…死なないで…」

サキの顔にヒカリの涙が落ちて弾けた。

サキは微かに微笑んだ。

「…泣くんじゃねえよ、男だろ?…」

かすれた今にも消えそうな声だった。

「サキ…」

「…なぁ…ヒカリ…この世はクソだな…」

そう言って苦しそうな咳をしたかと思うと、口から赤黒い血が流れた。

「…なぁヒカリ…俺の変わりに…世の中はクソだと笑い飛ばしてくれ…」

サキは自嘲的な笑い方をしたが、次の瞬間真面目な顔になった。

「…でもなヒカリ…それでも世界はいつでも…俺達を見てんだ…」

サキの意外な言葉に、ヒカリはサキの顔を凝視した。

その時、サキは見えていないはずの目でヒカリの目をしっかりと捉えた。

「…ヒカリ…俺は先行くよ……サキだけにってか…?…っつかお前がツッコめよ…ヒカ…リ…」

サキの目から光が消え、右目から涙が一筋流れた…

「…っうっ…うっ…!」

ヒカリが泣き叫ぼうとした、次の瞬間…


サキのお腹の辺りが、一瞬この世では見たこともないような光を放った。

そのあまりにも激しい光に、ヒカリはサキに雷が落ちたのではないかと思った。

「!?」

しかし雷は落ちていなかった。


すぐに現実に戻った。

「いたぞ!元帥のご子息だ!」

…出た…テディベア軍団。

テディベア軍団の一人が無線に手をかけた。

「あ、元帥。ご子息発見しました。…あ、はい…やはりスラムにいらっしゃいました。すぐに消毒をして、病院の隔離病棟へお連れします…はい、了解です。」

ヒカリはまた滅菌消毒をされて、捕らえられたまま連れて行かれた。

その時、他のテディベア隊員が遺体の山とその周辺、そしてスラム全体に機械的に油を撒き始めた。

そして、火を点けた。

まだ微かに息のあった人の、熱さで悶える叫びが聞こえてきた。

まさに地獄絵図のような現実だった…

『サキ…』

ヒカリはテディベア隊員に抱えていかれながら、涙がとめどなく溢れた。

心が弾け飛んでしまいそうだった。

「サキ…」

そう声に出してつぶやいた瞬間、タガが外れた。

「…っサキー!!!」

テディベア隊員の耳の鼓膜が破れ、ヒカリ自身の喉も潰れたのではないかと思う程絶叫した。




ヒカリは病院の隔離病棟で一人放心状態だった。

もうサキはこの世界にいない…その現実がただ、耐えられなかった。

ヒカリはあまりにも大きなものを失った。

初めての友達…それ以上の言葉では言い表せない何かを決定的に失った気がしていた。


しかしヒカリはこのサキの死の際、ヒカリの人生を大きく変える体験をしていた。

死の直前、サキの中で燦然と輝いたもの、それこそが、ヒカリのこの後の人生に大きな影響を与えていくことになる。

しかしそれに気づくのは、まだ少し先だった。

         ・

         ・

         ・

「その後のことは思い出すにも値しない。」

そう思ってヒカリの意識は十五年後の今に戻ってきた。

「サキ…俺は今一人ぼっちか?」

そうつぶやいて、ヒカリは何もない草原に倒れこんだ。

今まで気づかなかった体の疲れと頭の痺れがヒカリを襲った。

ヒカリはこの十五年間ずっと、心の中でサキに呼びかけていた。

心の中でサキを生かし、それを支えに生きてきた。

しかしどこかで、それは依存的な感情だとわかっていた。

『それでも、サキを心から消すことは出来ない…』

ヒカリは目に映る青い空が突然ぼやけて見えた。

そしてそのまま目を閉じて夢の中へと落ちていった。

ヒカリの右目から、涙が一筋流れた。

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