第3話
「うまそうな匂いだ」
「はい、うさぎ汁でございます」
なんと。小平治はそう答えて心底震えた。
うさぎ汁は妻おさきと小平治に共通の好物であったもの。また、滋養によいからと病の床に臥せってからも何度となく金を工面しては食べさせていたもの。
まさか、ここまでとは……。
「お嫌いでございますか」
小平治のただならぬ様子に、女は問う。
「い、いや、むしろ」
小平治は酒をあおった。
「好物である」
しかし、身延山に願を賭けたその時から、小平治はこのうさぎ汁だけは断っていたのだ。
たしかに、それほど良く食されるものではない故、うさぎ汁は断ち物には不向きだ。
普通、断ち物とは普段からよく口にするもの、または欠かせぬものを断つ。それこそ、塩だ酒だ茶だと言った物こそ、断ち物として成立する。しかし小平治にとって、うさぎ汁を断つことこそが正当のように思われた。
決して安くない銭を払って材料を集め、自ら仕立てて妻に食べさせる。
自らの欲を抑え、ただ妻の為だけに。
「どうぞ、召し上がってくださいな」
それだけに、おさきによく似た女が勧めるこのうさぎ汁に、小平治は心が乱れた。
おさきが臥せって以来、どれほどこの場面を夢に見続けてきただろう。
元気になったおさきと二人、鍋を囲んで互いに酒を酌み交わしつつ、笑顔と共にうさぎ汁を存分につつき合う光景を。
今、ここにある、この光景を。
幾度、幾晩。思い描いては涙しただろう。
「どう、なさいました」
女の言葉に、小平治は、自らが涙を流していることに気付いた。
「な、なんでもない」
「そうでございますか、ただ、ここは山中の一軒家。何をどうお話になってもだれが聞いているというわけでもありませぬ。それだけはお見知りおきくださいませ」
そう言うと、女はうさぎ汁を注いだ椀を差し出した。
「かたじけない」
そう言って粗末な椀を受け取った途端、小平治の鼻をうさぎ汁の何とも言えない香りが通り抜けた。
「ほぉ、根三つ葉を使ってあるか」
この言葉に、女は顔をほころばせた。
「まぁ、お詳しうございますこと」
詳しいも何も。小平治は顔をしかめる。
うさぎ汁に三つ葉の根を入れるやり方は、おさきの郷のやり方で、小平治はそれをおさきに教わったのだ。
これは、夢か。いや、物の怪の類か。
小平治は静かに目を閉じ心中で「妙法蓮華経」と、お題目を唱えた。
しかし、目の前の女は消えない。と、なれば。
「そなたの言う通り、これは御祖師様のお導きかもしれぬな」
そうつぶやくと小平治は開き直って椀の汁を啜った。
とたん、うさぎの出汁の旨味をふんだんに感じるみそ仕立ての汁の味が、滋味深い根三つ葉の香気をまとって口腔をくまなく覆いつくす。
「ああ、うまい」
これが物の怪であろうと夢であろうと、また狐狸の類であろうとかまわぬ。
小平治は一心に汁を啜り、そしてその身をかみしめた。
跳ね返すような弾力を持った肉が噛むごとに味わい深く旨味を染み出し、それが絶品の汁と混ざって何とも言えない旨味の塊となる。
「うまい、本当にうまい」
「それはようございました」
「ああ、亡き妻の物と遜色ない」
小平治はそう言うと、椀の汁を残らず飲み干し、大きく一つ「ほぉ」っと息を吐いた。
「うまいものというのは、心を平らかにするの」
「奥方様は、お亡くなりに」
「ああ、つい半年前の事よ」
小平治は目を細めた。
「何やらよくは分からぬがな、四年前に風邪がもとで寝付いて以来、立ち歩くのも難しくなって、三年寝付いたのちにぽっくりとな」
願掛けの甲斐も断ち物の
「妻が寝込んですぐ、朋輩の勧めもあって身延山に願を賭けたのだが、その甲斐もなく、な。もちろん普段から信心などしなかったこの身だ、何の文句も意趣もないが、とはいえ願を解かねばと思って、な」
「そうでございましたか、それはお気の毒に」
そう言いながら、女は静かに酒を注ぐ。
「ああ、いい女だった」
答えて、小平治はその酒をぐびりと一口飲んだ。
「おぬしにそっくりの、な」
「まぁ、そのようなことをおっしゃられては奥方様に……」
咎めだてをする女の言葉をさえぎって、小平治は薄く微笑みながら続けた。
「なに、死んだ者は妬きはせぬよ」
なぁ、おさき。かまわんよな。
小平治は今は亡きおさきに、心中で語り掛ける。
おさきがこの世を去って以来半年の間、小平治は毎晩の如く酒を食らっては泣き明かした。小なりとはいえ一端の侍である男のすることではないだろうが、唯一無二と心に決めていたおさきへの想いを流し切るのに、それだけの時と酒が要ったのは事実。
こうして願解きを思いついて旅だったのもまた、最後に残った心中の凝りを払うため。しかし。
「御祖師様も酷なことをなさる」
「まぁ、どうしてでございます」
「亡き妻の供養にと心に決めて身延山へ旅立ち、その途上で迷った挙句、たどり着いた先に亡き妻にうり二つの女と出食わしたのだ」
言い終えて、小平治は、女の顔を見つめた。
やはり、似ている。
「しかも、そこで、妻の好物であった根三つ葉の入ったうさぎ汁が出てこようとは、な」
そう言うと小平治は自嘲気味に笑った。
しかし、女はそんな小平治の言葉に意外な言葉を返してきた。
「お逃げになりたかったのでございましょう」
逃げる、だと。
「それはどういう意味だ」
小平治はそう言って女の顔を睨んだ。
「失礼を承知で申し上げます。お武家様はきっと、もう、わかっておいでなのですよ、自分がこのまま亡き奥方様への思いに捉われていてはいけないという事を」
言いながら女は空の椀にうさぎ汁を注ぐ。
「しかしながら、振り払えば振り払おうとするほどに、想いはその身にまとわりつく。そしてそれは何とも悲しく苦しく、それでいてどこか心地もよいもので、ふとした時に流されそうにもなる」
小平治は女の顔を見つめながら、新たに満たされた椀を持ち上げた。
一口すする。
そして、涙した。
女の言う通りであった。
死んでしまったものは帰ってはこない。それは、十分すぎるほどにわかっていた。わかってはいたものの、心のどこかに、確かにその中心に、おさきが生きているような気がしていたのだ。
いや、心の中だけではない。
いつも笑いあっていた居間の柱の陰に、台所のへっついの脇に、二人で歩いた横丁の板塀の向こうに、そして、鬢付の匂いの残る枕に。
そこかしこに、江戸の街のいたるところに。おさきはいた。
おさきの存在を感じていた。
「そう、かもしれぬな」
願を解きに身延山へ。それは、そんなおさきの残して行った甘やかで暖かな、おさきの生きた証の残る江戸から、逃げ出したかったからかもしれない。
この女の言う通りに。
「ええ、でも。それでいいのではございませんでしょうか」
「逃ぐるは士道不覚悟というぞ」
「奥方様は
女はそう言って、やさしげに笑った。
「さもありなん」
女の笑みを受け、小平治は再び汁を啜る。
こうして、暖かで柔らかな汁が染み入るように胃の腑に落ちて行くたびに、小平治の固く凝った心の皮が一枚づつ剥げ落ちていくような気がしていた。
「礼を、せねばの」
ゆっくりと汁を飲み込み小平治は言った。
「お礼、でございますか」
「ああ、そなたには本当に世話になってしまった」
素直な、気持であった。
命を救われたのはもちろんのこと、こうしてここに転がり込んだことが、本当に御祖師様のお導きであったと信じられるほどに、小平治の心は、つい先刻とは打って変わって軽く伸びやかであったからだ。
「何かないか」
小平治は問う。と、女は突然に表情を変え、深刻な面持ちで答えた。
「ならば、亭主を殺していただけませんか」
場の空気が、突如、ぴんと張り詰める。
「なんだと」
「うちの人を殺してください」
女の言葉に、小平治は、手に持った椀の汁が急に冷めていくような気がしていた。
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