プリント配布



 神町木乃香(かみまちこのか)とは、プリントを渡し合うだけの間柄だった。

 上村冬馬(かみむらとうま)という限りなく近い名前である僕の、常に前にいる存在。淡々とプリントを受け渡す作業は多分に味気ないものだったけど、それでもいちいち会釈や受け答えをするよりもずっと楽だ。それでいいと思っていたし、そんな関係が続くと確信していた。


『本物の悪は愛から始まる』

「……」


 テストの答案裏に書かれた、この文字を、見るまでは。


 実際、それは偶然だった。


 となりの松井さんがシャープペンを落として、神町木乃香がそれを拾おうとかがんだ時、釣られて舞い落ちるプリント。不意にそれが僕の目に飛び込んで来たのだから、完全なる不可抗力である。

 決して『ブラジャーが見えないか』と淡い期待を添えて眺めていたわけではない。


「……っは」

「……っ!」


 そして今の状況としては、その落書きを見た僕を、バッチリと目撃された形である。彼女は、信じられないくらい驚いた表情をしていた。

 普段から、物静かで、丁寧で、朗らかな雰囲気を持った彼女が、目を大きく広げて、大口を開けていた。下手をすれば喉〇〇〇まで見えていたくらいに。

 シャープペンを松井さんに渡した彼女は、素早く席へと座ったが、耳が噴火しそうなほど真っ赤く染まっていた。


 その時……厄介なことになった、と思った。


 ここの配布ラインは極力壊したくなかった。プリントを渡すだけという、機械的な作業。それに特化することによって、互いの感情的労力を減らすことができる。互いによく知らぬ間柄にとって、それはベストではないがベターである。そう思っていた。


 そもそも、この空輪館高校文系クラスは2つしかない。学年が上がるたび、2分の1の確率でこの並びになると考えると、必要以上の関係になるのはリスクがある。

 もし嫌われでもしたら、中間、期末テスト、体育祭、始業式、終業式など様々なイベントで嫌な想いをする可能性が高い。


 そんな中、厨二病よろしくなこのワードは明らかな不協和音。時期としては、高校2年の秋。明らかにこの時期は、青春ど真ん中折り返し地点であると言える。


 厄介なことになった。素直に、そう思った。


 でも、まだ取り返せる。僕がこれを見ていなかったことにすれば、それで終わりだ。その時、僕はそう安堵していたんだ……


『見た?』

「……っ」


 次のプリント配布時に、こんなメッセージが回ってくるまでは。


 ひどく淡々とした、文字。ミッフィーちゃんの、タッグメモ。


『見てない』


 当然、僕は次のプリント回収でそう返した。はい、これで試合終了ゲームセット。この件は、もうこれまで。完全にそう思い込んでいた。


 しかし、


『なにを?』

「……くっ」


 次の時間またしても回ってきたメッセージ。しつこい。第一、見てないのに、なにをもなにもないだろうに。


『なにも見てない』

『それってなにか見ている人の台詞』


 !?


 な、なんなんだ。見てないって言ってんのに、なんなんだ。いや、実際には見てしまっているので、その推理は名探偵並みではあるのだが。


 思わず神町木乃香の方を見るが、そこには背中しか映ってない。当然だ。彼女とは、50分間に一度、プリントを渡し合うだけの関係。それ以上でも、それ以下でもない。食い入るように見つめたからと言って、せいぜい淡いピンクのブラジャーが制服から透けるくらいのものだろう。


 そして僕は、不本意にもテスト時間を使って、言い訳を考える羽目になった。嘘をついてしまったがために、嘘を取り繕うための言い訳を。


『なにも見てないし、なにも知らない。それでいいだろう?』

『よくない』


 !?


 唖然とした。その華奢な背中を前に、思わず大口を開けてしまった。多分、喉〇〇〇を彼女の背中に遺憾なく晒していたので、文春の記者がいれば、必ずカメラにおさめていたであろう。


 しかし……こっちはスルーしようとしているのに、これでもかってほど食い下がってくる。そもそも、彼女が見られなければよかったのに。自分の不注意を棚上げにして、僕を責めるのは違うくないか?


「……」

『本物の悪ってなに?』


 ガタッ。


 プリントを回収した途端、飛び上がるような仕草と、椅子の歪な摩擦音が聞こえる。いい気味だと思った。そっちが喧嘩を売ってきたんだ。そのまま、互いに知らないフリをしていれば収められた問題だった。それをしつこく追求しているからこうなる。僕は、『平和的なプリント配布ライン』の破壊と引き換えに、小さな満足感を噛み締めた。


『なら、正義ってなに?』


 ガタッ。


「おい、上村。どうした?」

「い、いえ……なんでもないです。すいません」


 加藤先生の追求を慌ててかわして、席を座り直す。ヤベエ奴のヤベエ言葉に、思わず、反射的に身体が仰け反ってしまった。


 嘘だろ。お前、マジか。そんな質問よくできるな。高校生が一番ドン引く哲学的なやつを、むしろ堂々と返してきた。しかも、哲学のテストと一緒に返してきた。


「……」

『正しいこと』

『正しいことってなに?』

「……くっ」


 マジかよ。こいつ、マジか。


                  ・・・


『人に恥じないような行為』

「……」


 次に配布されたプリントには、なにも書かれていなかった。


 はい、論破。完全なる詰みチェックメイトだよ神町――いや、あえてあだ名である木乃(この)と呼ばせて頂こう。君は喧嘩を売る前に勝負する環境を考えねばいけなかった。


 プリントを配布して回収するまでは、実に50分もの時間がある。もちろん、それをまるまる使えはしないが、20分程度は考える時間を確保できた。

 しかし、プリントを回収してから休憩時間を挟み、次のプリントを配布するまでは10分程度(トイレ休憩挟む)。実に倍以上の時間が僕の味方である。そんな優位性を考慮することすらせずに、僕に喧嘩を挑んできた自身の浅はかさを悔いるがいい。ざまあみろ。


                  ・・・


『人の評価を気にするなんて、やはり正義って低脳ね。つまり、世間という得体のしれないものの声を気にしながら行動することが正しいという価値観ということでしょう? そうだとすれば、ヒーローってひどく見栄っ張りで、カッコつけで、自己満足野郎ね。要するに——』

「……っ」


 ちょ、長文。

 こいつ……イカれてる。小論文並みの論破文。小さな文字がびっしりと書かれたミッフィーちゃんのルーズリーフを、二つ折りにしたプリントの間に挟み込んできた。お前、歴史のテストをなんだと思ってるんだよ。


「フッ……」


 こ、この野郎……なにを勝ち誇ったように笑ってやがる。


                 ・・・


『それを低脳だと一概に斬り捨てるのはどうかなと思うよ。むしろ、それを『偽善』とかって斬り捨ててなにも行動を起こそうとしない人がいるけど、僕にとってはよっぽどそちらの方が低脳だと思う。人に善行を施すと言う行為自体には、人の役に立つ――」


「……っ」


 結局僕は古文の時間を犠牲にすることになった。

 

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