第3話
「うわぁぁぁ!」
家の中に引っ張り上げられたイリニだったが、その勢いを殺す術がない。結局そのまま、床に身体を強打した。
「ぐっ……」
「早く窓を!」
奥の方でロープを持った男が、声を抑えて叫ぶ。
「わ、わかった!」
イリニは背に乗せた少女をその場に下ろすと、窓に向かって走った。そして、両開きのそれを音を立てずに閉める。
身を屈めて下の様子を
どうやら危機は去ったようだ。彼は大きくため息を吐くと、壁に背中を預けてへたり込む。
「はぁ、ありがとう。助かったよ……」
「いや」
男は首を振ると、ゆっくりこちらに近寄ってくる。
「まさか君が走ってくるとは思わなかった。こんな偶然があるなんて。随分変わったな、イリニ」
「え?」
イリニは眉をひそめた。
「えっと…… 俺の知り合いの人?」
「なんだ。忘れてしまったのか…… ?」
男は照れるような、寂しいような表情で頭を掻く。
だが、本当に知らない男だ。
イリニの反応を尻目に、男は近くの棚から何かを取り出して、また戻ってきた。
「これで分かってくれなかったら、さすがに悲しいな」
そう言って、男は前髪をたくし上げ、片手に持った黒縁の眼鏡をかけてみせた。たったそれだけの変化。
しかし、イリニはその顔に、ある仲間の名前を見出した。
「お前…… ブレット!?」
「まったく。やっと思い出してくれたのか」
ブレットは小さく肩をすくめる。
「良かった…… ! 本当に良かった…… ! 生きてたんだな…… ! もう、みんな殺されちゃったのかと……」
「勝手に殺すんじゃない。でも、君も無事で良かった……」
二人はそのまま強く抱きしめあった。涙は容易に止まりそうもなかった。
「だけど、ブレットもだいぶ変わったな」
「まあな」
「そのクマ、ちゃんと眠れてるのか?」
「ああ、睡眠草を飲めばぐっすりだ」
ブレットは弱々しく笑う。冗談なのか、そうじゃないのか判然としない。
「それで、その子は?」
「えっと…… 太陽の神だ。俺を牢屋から逃してくれた」
「た、太陽の神…… ?」
全く理解できてない顔だが、生憎イリニはそれ以上説明できない。
「よく分からないが、彼女がさっきの騒ぎを起こし、君を助けてくれた人なんだな?」
「そう。たぶん」
「相変わらずそういう所は適当だな。まあいいさ。とりあえず、二階にいるのは危険だ。地下で話の続きをしよう」
ブレットの後に続いて部屋を出る。
地下というから、一度一階に降りるものだと思っていたが違った。彼が向かったのは、二階の廊下の突き当たりだ。
そして、そこに置いてあった木箱をどかす。一見すると、周りの床と変わらないが、手がかけられるように小さな穴が空いていた。それを開くと、
「さあ、行こう」
地下は地面を削っただけの、粗末な空間であった。広さはさっきの部屋と同じくらい。だが、天井がイリニの頭すれすれの高さで、薄暗いのも重り、かなり圧迫感を覚える。
「その子をここに」
ブレットが指差したのは、布が重なっただけの簡単なベッドだ。
「ここは隠し部屋なのか?」
「そうだ。一年半かけて、この前ようやく完成したんだ」
「一年半!? ま、待ってくれ。俺は牢屋に何年入ってたんだ?」
「ええと、大体二年といったところだ」
「二年……」
イリニは二の句が継げなかった。
かなりの月日が流れたことは自覚してたが、二年も経っていたなんて。毎日毎日同じ場所でじっとしていたから、時間に対する感覚が狂っていたらしい。
ということは、ブレットはもう二十歳、イリニは十八歳になるのだ。そういえば、ブレットも背が伸び、顔つきも幾分大人びたように映る。
それらを認識すると、急に強い虚無感に襲われた。
それもそのはず。自分だけ牢屋というなんの変化もない、いわば時間が停滞した空間に取り残されていたのだ。それが、ある日地中から顔を出したら、全てが歳月を重ねていた。知らない世界に放り出されたようなものだ。
「イリニ、イリニ!」
気づくと、ブレットの真剣な顔が眼前を埋めていた。
「な、なんだ?」
「君が混乱する気持ちもわかる。でも、今は少しでも早くこの国から逃げることを考えなければ。この国はイカれてる」
「逃げるって…… 待て。その前に、他のみんなは? みんな無事なのか?」
「そうだな。まずはそこから話を始めよう」
ブレットに勧められ、イリニは小さな丸椅子に腰掛けた。
「正直な話、俺もみんなが無事なのか全くわからない状況だ」
「どういうことだ?」
「実はあの日。君が連れて行かれた後、結局全員が拘束された」
「なんで…… ネクラの狙いは俺を捕らえることだったんじゃ……」
「俺もあいつの考えはよくわからない。全員が拘束された後、俺は別室に連行された。そこでこの腕輪をはめられたんだ」
ブレットは自分の右の手首を持ち上げた。確かに、そこには赤い透き通った腕輪がはめられていた。
それを見て、イリニはあっと思った。
「それ、俺もつけられた」
視線を落とすと、イリニの腕にも全く同じものが。投獄される前につけられたのだ。当初は囚人を識別するものだと考えていた。
「これが何なのか、未だに解明できていないが、ネクラ
「なんだそれ……」
聞いていて、なんだか不気味な感じがした。
「それで、腕輪をはめられた後、俺はこの家に住むことを強制されたんだ。それから二年の間、俺はこの国でほぼ毎日労働の日々だ」
イリニは改めてブレットのみすぼらしい姿を正視した。
それが意味しているのは、労働の過酷さなのか、十分な食事にありつけていないのか。もしくは、そのどちらも当てはまるのかもしれない。
「じゃあ、まずは他のみんなを探して、それから脱出しよう。みんなが揃えば、どうにかーー」
「無理だ」
「え?」
あまりにもキッパリ否定されたので、イリニは少したじろいだ。
「この国を見ただろ? 二年前とは規模が違いすぎる。少しでも下手な動きを見せれば、即刻周りに通報されて終わりだ。この国は全員が監視されてる」
質問したい事が山ほどあったが、ブレットは息を吐く間もなく続きを始めた。
「それに、チャンスは今しかないんだ。ちょうどネクラが側近を連れて、他国を訪問しているらしい。この機会を逃せば、もう二度とここから出られなくなる」
「どうしたんだ、そんなに弱気になって。いつものブレットらしくないぞ? 昔なら、俺が多少無茶な事を言っても、お前は嫌々賛同してくれたじゃないか。今回だってーー」
「聞き分けてくれ、イリニ。時間が経てば、全てが変わるんだ。この国も、俺も、もう昔とは違う……」
最後は消え入るような声だった。
「安心してくれ。この二年で、協力者ができた。この国のあり方に疑問を持つ者だ。彼の協力があれば、この国を抜け出せる。そうすれば、後はこっちのものだ。この非人道な所業を告発すれば、他国が助けてくれる。それでネクラも終わりだ」
イリニの肩に、ブレットの手が乗る。
「ここから逃げて、自由になろう」
ブレットの曇ったような瞳が、
それに、彼の言う事も一理ある。結局イリニは口出しする事ができなかった。
「もう、さっきから煩いんだけど……」
気怠げな女性の声が聞こえた。
驚いて振り向くと、さっきの少女が半身を上げ、眠たそうに目を擦っているところだった。
「太陽の神! 良かった、目を覚ましたんだ!」
「太陽の神…… ? んん…… あなたは……」
「俺はイリニ・エーナス。君が俺を助けてくれたんだよな?」
「私が? 何言って……」
少女はしょぼしょぼした目で何回か瞬きを繰り返す。そして、細目にこちらをじっと凝視した。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
突然、少女は勢いよく跳ね上がった。その拍子に、彼女の長い角が天井に突き刺さる。
固い地層に貫通するなんて、恐ろしい強度だ。と、そんな感心している場合ではない。
彼女は宙吊りの状態になると、さらに混乱したように身体をバタつかせる。
「人間無理ぃぃぃぃぃぃぃ!」
「た、太陽の神…… ? 落ち着いて、大丈夫。俺たちは味方でーー」
どうにか
「ぐぶっっっっ!?」
イリニの身体は真横に吹き飛び、そのまま壁に激突した。
「なっ!? イリニ! イリニ、しっかりしろ!」
「俺は先に自由になるよ……」
「そんな! イリニ、目を覚ましてくれ! イリニーーーーー!」
ブレットの呼ぶ声が段々と遠くなっていく。
この混乱が収まったのは、それから十分後の話だ。
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