第9話 涙

 私が自室に戻り寝支度をしていると、こんな時間に珍しく私の部屋のドアがノックされました。


 夜分な事もあってか弱々しく遠慮気味なノックから、ドアの向こうに立つ人物に大方の見当をつけ返事をします。


「ーーーーはい。どうぞ」


 言いながら、一向に開く気配がないドアへと近づきドアノブに手を掛け少し捻ると金属が擦れる小さな音がしました。そのままドアを開けようとしたところ、突然ドアの向こうに立つ人物に声をかけられました。


「お嬢様……アンナです。こんな時間に申し訳ありません」


 やはり、ドアの向こうにいるのは私の予想通りアンナでした。


「アンナ、どうしたの?」


「ごめんなさい……ありがとうございました……お嬢様……」


 ドア越しに聞こえてくるアンナの声からは彼女が今、何を考えどう思っているのかが手に取るように簡単に、また鮮明に色濃く伝わってきました。


 それくらい、感情的なものでした。


 ですから私は自身が感じとったアンナの気持ちに確信を持って、すぐさま部屋のドアを開けました。


 するとそこには目を真っ赤にして鼻を鳴らすアンナの姿があって、その姿を見た私はどうにも抑えられない衝動に駆られアンナの手を強く握るとすぐさま自分の部屋の中へと引き込みました。


 驚いた表情で数歩分、私の部屋の中に入ったアンナは更に大粒の涙を流しながら『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と、まるで小さな子供が叱られてそうするように身体を縮めて泣き続けるのでした。


 それから少し経って、ようやく落ち着きを取り戻したアンナは目元を拭いながら言いました。


「あの……あの時、お嬢様が助けてくれなければ私は、きっ、きっとメイド長のマイヤーさんにすごく怒られていたでしょうし……ジェラール様には解……解雇を言い渡されていたかもしれません」


 やはり、今日の夕食の時の事を言っているようです。


「待って、待って、アンナ。いったい何の話をしているの?」


「今日の、夕食の……時の話です。私が……私が、ワインを零してしまったから……お嬢様が……」


「あぁ! あれは私がうっかりグラスを倒してしまって、それにビックリしたあなたがワインを零してしまった。ただそれだけの事でしょう? 私がいつあなたを助けたの?」


「違います! あれは私が先にワインをーーーー」


 語気を強めるアンナを無理矢理に引き寄せ抱きしめました。


「お、お嬢様……何を、離してください」


「嫌よ」


「苦しいです、痛いです、離して……」


「ダメ。だってアンナが分かってくれないから……」


「分かって……いえ、分かったんです。私、ドジだからいつも失敗ばかりしてみんなに迷惑をかけてばっかりだから、だから私はこのお屋敷にいない方がいいんです。その方が絶対にいいんです。明日、ジェラール様にお話ししてお許しを頂いたら実家に帰ろうと……痛っ」


「じゃあ、なおさら離せない」


「なぜですかっ! 私がいない方がお嬢様にとってもいい筈です。それに私なんかよりももっとお役に立てるメイドがいた方が良いじゃないですか! それなのになぜですかっ!」


「言ったじゃない、昼間に……」


「え……?」


「あなたの事が大好きだからよ。アンナ」


「…………」


 私は強く力を込めたままだった腕を少しだけ緩め、アンナの綺麗な栗色の髪を撫でながら言いました。


「アンナは私の事、嫌い?」


 私の言葉にアンナはすぐに首を横に振りました。なので私とアンナの頬が擦れ合います。


「……大好きです。とっても、とっても。私、お嬢様の事が……大好きです」


 そんなアンナの言葉がゆっくりと私の胸の奥の方まで染み込んでいって、私の心がアンナの言葉と想いで満たされていくのを感じます。


「良かった。じゃあ辞めるなんて言わないで、ずっと私の側にいてくれる?」


「…………」


「あ、やっぱり嫌なんだ……」


「ーーーー違いますっ! 私、嫌なんかじゃありません。私だってこのお屋敷でずっと働いていたいです。死ぬまでお嬢様と一緒にいたいです。私、お仕事ももっともっと頑張りたいんです!」


 大粒の涙を零しながらそう語るアンナの耳元で私は囁きます。


「ありがとう、これからも一緒に頑張りましょうねアンナ」


「……ひっ、ひぐっ……はい……」


 そのままアンナの呼吸が落ち着くまでの間、その綺麗な栗色の髪を撫で続けました。そして数分が経った頃、


「それじゃあ、そろそろ寝ましょうか? 今日は色々あったから私、疲れちゃった」


 私の言葉にアンナは今が夜遅くである事を思い出したようで、ハッと肩をビクつかせ足早に私の部屋から出て行きました。


「…………」


 アンナがいなくなると部屋の中は妙に静まり返ってしまって、寂しささえ感じてしまうくらいでした。


 私はゆっくりとベッドに腰掛け、窓へ視線を送ります。


 窓の外にはいつもよりも深い闇があって、空で輝く星の光さえも飲み込んでしまいそうなほど辺り一面を支配しているようでした。


 そしてーーーー私はなぜかその暗闇に飲み込まれたいと思いました。


 していると、たった今、自分がそう望んだ筈なのに窓の外の暗闇が部屋中に一気に流れ込んでくる気がして、途端に怖くなってしまいました。


 私は窓の外から視線を外し、ベッドに横になって蝋燭の火を消し目を閉じました。


「…………」


 今日は本当に色んな事がありました。


 私は今日の出来事をひとつひとつ頭に思い浮かべます。


 泣きじゃくる大切な友人。


 重たい空気感の中での食事。


 ドジっ子な可愛いアンナ。


 ネイブルさんの優しい笑顔。


 元気を無くしたお父様。


 成功したシンクロバード。


 なんだか不思議なナイトハルト様。


 素敵な庭園とテラス。


 突き刺さる視線。


 アシュトレイ様とのーーーー婚約破棄。


 その日は結局、太陽が昇り始める頃まで涙が止まりませんでした。




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