Menu 4 『Darjeeling Second Flash』

『Darjeeling Second Flash』①

 気づくと私は、かつて自らが営んでいたカフェ『TEAS 4u』の店先に立っていた。

 それは静かな夜だった。まるで雪のようにひそやかに降る霧雨が辺りの音の一切を飲み込んでしまっている。私の足音も、離れた街路を走る車の音も、はるか空の向こうに光る細い遠雷の音さえも。

 さて、営業時間はいったい何時までだったんだっけ。そんなことを考えながら入口扉に手をかける直前、裏口から傘を差して帰っていく制服姿の女の子が見えた。お客さんではなさそうだったから、もしやバイトでも雇ったのだろうか。あれ、じゃあバイトちゃんが帰ったってことはもう営業終了?

 いや、まあいっか。扉に掛けられたプレートはまだ『OPEN』のままだし、閉店間際に堂々と店に入れるというのも元店長の特権だろう。

 私が店内に足を踏み入れると、現店長はしっかりと気配に気づいてかこちらを見る。オレンジ色の光に包まれた空間の中で、彼の手はちょうど壁掛けのカレンダーをめくろうとしていたところだった。

「あれあれー、もう今日から十一月だってのに、一日めくり遅れてるじゃん」

 露骨に先輩面をしながら「気が抜けてるなぁ」と言ってカウンターの奥に陣取る。

 すると彼はゆっくりと戻ってきて、何も言わずに格子棚の一番左上に手を伸ばした。丁寧な所作で、白磁に銀細工のような花柄の入ったティーカップを布巾で拭き出す。そうして向かい合ったまま、店の奥の扉に細めた視線を移して言った。

「今年も、もう秋ですね。かえでさん」

「んー、そうだねぇ」

 彼は、扉の窓にわずかに映るバルコニーの木々を見ている。すっかり赤や橙に色づいた葉が揺れるカエデの樹。あれはその昔、私の生誕を祝って母が植樹したものだ。毎年、この季節になると絞り染めの帳のように艶やかに染まる。

「俺がここに来てから、今年でもう六年になりますね」

「六年? へぇ、もうそんなかぁ。時が経つのは早いねぇ」私は彼の手際一つ一つに注目しながら緩く笑む。「じゃあ、私がその場所に立ってたのはもう、三年くらい前になるのか。そりゃあんたも立派な店長になるってもんだよ」

「本当、自分でも見違えるようですよ」

 彼が棚から茶葉の入った缶を取る。私の頼みたい銘柄は言わなくてもわかるようだ。

 他にお客さんのいない落ち着いた店内。やはり営業終了間際だったのか既に音楽は流れておらず、この場は世界から隔離されたかのように深く静まり返っている。

 その心地よさに、私は自然と目を閉じた。私の中で過去と結びついている彼の声は、自分がまだこの店にいた頃の思い出を、記憶の海からゆっくりと掬い上げてくれる。


 あれは今から六年前の秋。とある晴れた午後のこと。

 私が営んでいたこのカフェに一人の少年がやってきた。

 平日の、ちょうど客足の引いた時間帯。雲の影が涼しげに落ちる店先にふらふらと迷い込んできた彼は、典型的な大学生らしい風貌をしていた。パーカーにスキニーパンツ、ちょうど大学の午後の講義が少し早めに終わりました、みたいな。

「ここ……カフェ、ですか?」

「ええ、いらっしゃい。お客さんは、うちは初めて?」

「あ、はい」

 不躾でない程度の右に左に首を捻り、店内を見渡しながら入ってくる。こういう店にはあまり慣れてなさそうな様子がなんだかとても可愛らしかった。

 だから私はあえて仰々しく、やや冗談めかしたお出迎えをしてみせる。片足を軽く後ろに引いて腰を落とし、ロングエプロンをスカートに見立ててカーテシー。

「ようこそ、カフェ『TEAS 4u』へ。あなたのために、紅茶をおいれいたします」

 それからカウンターに座った彼と話してみると、非常に落ち着いた、印象のいい若者だった。今年から大学一年生で、下宿がこの近くなのだという。とすれば、歳は私よりも三つか四つ下だろう。けれどその割には大人びていて、あまり年下の子と話している感じはしなかった。

 そんな穏やかな彼には、穏やかでシックな黒が似合いそう。重ねたイメージに一番近いデザインカップを、私は背後の格子棚からそっと取る。手元のメニューを見る彼は案の定首を傾げていたので、ひとまずは無難にブレンドダージリンを提案した。

 寡黙そうに見えたものの、話しかけると意外にテンポよく返答があり、なんでもない会話が心地よかった。メニューの準備や洗い物をしながらほどよい雑談に花が咲く。他にお客さんが訪れる様子もなく、店内に差し込む陽光が徐々に傾いていく光景は、時の流れをとても緩やかに感じさせた。

 そしてふとした沈黙の折、彼が壁の方を向いて言う。そこには、たった二日前に私が自作して貼り付けた『アルバイト募集』の紙が一枚。

「バイト、募集してるんですか?」

「ええ、そうなんですよ。一人だけ、いたらいいなぁって思って」

「あの……じゃあ俺、申し込んでもいいですか?」

「え、本当?」

「はい。ちょうどバイト探してたんで。もし、店長さんさえよかったら、ですけど」

 思いがけない提案に、私の洗い物をする手が一瞬止まった。

「んー……」

 それからカウンターに座る彼をすーっと上から下まで真顔で見て。

「うん。じゃ、採用」

 私がそう告げると、彼は途端に目を丸くした。

「え、そんないきなりですか? あの、面接とかは?」

「今したよ、面接。大丈夫。私、見る目はあるからさ」

 根拠はないけど確信はあった。彼はたぶん、カフェの店員に向いていると思った。

「君、名前は?」

「黒川、杏介といいますが」

「じゃあ黒川くん。私は楓、鶴里楓つるさとかえでね。好きに呼んで」

「は、はあ……」

 その顔は「自分から言い出したもののあまりに事が早く進んで困っています」とでも言いたげな顔だった。彼は戸惑いつつも、引き続き私のことを「店長」と呼んで礼儀正しく頭を下げる。

 こうして杏介――いや、この頃の私にとってはまだ黒川くん――はこのカフェのバイトとなった。

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