『Dimbula』⑦
勢いで午後の授業をバックレたオレは、翌日になって担任からしっかりお叱りを受けた。ついでにその件はマリ姉の耳にも入ったらしく、ちくちくと小言を食らわされる。どちらも決め台詞はまったく同じで「中間試験も近いのになんてこと!」
十月は高校生にとってそういう時期だ。うちの学校では二週目から試験週間、その次の週の火曜から金曜までを使って試験本番が行われる。試験週間は授業の進行が一旦止まり、宿題の量も減って、試験当日は午前の登校のみとなる。部活、同好会は当然、禁止。これに倣ってオレは、マリ姉にピアノ教室監督役の一時休業を申し出た。
「試験週間だし、ちゃんと勉強したいからさ」
まあ嘘だ。
でもマリ姉は、こういう真面目な言い方をするとオレの嘘に感づかない。たぶんオレの声にちゃんとやる気が出ていたせいもあるだろう。そのやる気自体は嘘じゃないのだ。
そうして試験勉強のためという名目で与えられた多くの時間を、オレは今回だけ、別の目的のために使う。
ピアノのブランクの回復のため。
何しろ思い立ったら吉日が信条。鉄は熱いうちに打て。あと、この時期ならマリ姉と自然に距離を取れるのも理由の一つだ。
目標として練習する曲はすぐ決めた。クラシックの、技術的にはそれほどだがしっかり雰囲気を出すとなると難しい曲。
オレとマリ姉の間には、ピアノという共通の表現がある。言葉とはまた別の、あるいは言葉よりももっと、心の中を直接ありのまま見せられる手段。それがあることを、オレは今ほど幸運に感じたことはない。
家で自由になる時間は全てピアノの前での練習に費やした。もちろん曲一辺倒ではなく、スケールやアルペジオなど基礎の動きも欠かさず行う。登下校中はミュージックプレイヤーで曲を聞き、授業中は頭の中でイメージトレーニング。あとついでに、寝てる間も夢で練習。
幸い、ピアノを離れてからもバンドでキーボードの助っ人をしていたためか、想像したより指は動いた。けれどやはり、重い鍵盤をしっかりとらえるのに苦労する。打鍵の強弱が難しい。それからクラシックを弾くとなると“間”も重要で、アップテンポなロックに比べて繊細な表現がメインになるから、ノリがまったく違ってくる。課題の多さを痛感した。
そんな調子で始まったオレの試験週間は、みるみるうちに過ぎ去っていく。四日間の試験当日なんてむしろ清々しい気分だった。どの教科も一分とて勉強していないのだからわかるはずがなく、手は早々にペンを放り出して、机を鍵盤に見立てて動いた。
やがて迎えた金曜、正午過ぎ。
オレはホームルームを終えてすぐに特別教室棟三階の音楽室へ向かった。ようやく中間試験の全日程を終え、窓からは解放感による笑顔を浮かべて帰っていく生徒が見えたが、ここはそんな喧騒から少し遠のいている。
そしてオレの表情も、解放からはまだ遠い。オレの本当の“試験“はこれからなのだ。
待ち人には事前にメッセージを送っておいた。緊張と向かい合う数分ののち、耳に届いた扉の開かれる音。オレは振り返り、現れたその人を正視する。
「来てくれてありがとう、マリ姉」
自分でも妙にかしこまったそんな言葉。部屋に入ってきたマリ姉はきょとんとした表情を見せる。その無言の間に、オレはピアノの前へと移動した。
「いったいどうしたんですか。突然スマホで『音楽室に来てほしい』だなんて」
「聞いてほしいことがあるんだ」
「聞いてほしいこと?」
「うん」
ゆっくりと椅子を引き、ピアノの蓋を持ち上げて言う。
「オレの、告白」
するとマリ姉は目を見開いた。
オレはその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「マリ姉……いや、麻理子さん。聞いてください。これが、オレの気持ちです」
そうして両手を、そっと白と黒の鍵盤に乗せた。短く息を吸い込んで、語りかけるように音を奏でる。
弾き始めてすぐ、マリ姉が小さな声で呟くのがわかった。
「これ……」
そう。この曲は十九世紀にフランスで活躍した作曲家、エリック・サティによるワルツ『ジュ・トゥ・ヴー』。彼が二十六歳のとき経験した、生涯一度の大恋愛を元に作られたと言われている。その経緯を知れば頷けよう、曲のタイトルの意味するところは『あなたが欲しい』だ。
透き通った玲瓏なメロディ。けれどその中には確かな強い情熱が見え隠れする。まるで胸の内に想いを秘めながら相手に優しく語りかけるような、音が軽快に踊っているかのような小気味よいリズム。思えばそれは、マリ姉を前にしたときのオレの心そのものだった。
安らぎ、高揚、憧れ、恍惚……それらの感情が一斉に言う。
オレは、マリ姉が欲しい。その艶めいた宇宙のように黒い髪が。その雪のように光る滑らかな白い肌が。その瞳が。その指が。マリ姉の全部が、ずっと欲しくてたまらない。
だからオレは、この気持ちを伝えようと鍵盤の上を一心に走る。いつも近くにいた、けれど決して届くことのなかった遠いその人に触れたくて。
もどかしい距離にただ嘆いてばかりだったオレはもういない。本当に欲しいと願うのなら迷わず全力で手を伸ばすしかないと知ったから。
目を閉じて、触れる指先からピアノの細部を感じ取る。鍵の沈み、ハンマーの動き、弦の鳴動。そうして生まれる音が空気に乗って響いていき、オレの胸にある景色を鮮明に描き出していく。
マリ姉は、幼いオレの手を引いて音楽の世界へと連れていってくれた。その美しさを、いつも微笑みながら優しく丁寧に教えてくれた。だからこそ突然の別れはオレをいっとき挫いたが、こうして今、再び会って、力を与えてくれている。
身体が軽い。腹の底から湧き上がってくる全能感が次に奏でるべき音を明確にする。その一音一音が思い起こす記憶の解像度を引き上げていく。
昔から、いつだってオレがピアノを弾く理由はマリ姉だった。そしてこの先、もしオレが何度ピアノを弾くとしても、たぶんずっと、それは変わらない。オレはこれからもマリ姉のためだけに弾く。
ああ、そうすれば――とオレは思う。そうすれば、オレはきっと、この白と黒で連なる果てのない階段をどこまでも、どこまでも高く上り続けていくことができるだろう。
そうして全長五分にも満たない曲が終わりを迎えた。さてオレは、この短い演奏にいったい、抱き続けてきた想いの何年分を込められたのか。そんなことを考えながらゆっくりと両手を戻して目蓋を開けた。
途端、オレは目の前に立っていたマリ姉を見て声を上げる。
「えっ……!」
驚いたことに、マリ姉は何かに耐えるかのように両手で顔を覆って俯いていた。隠されても明らかに耳まで真っ赤だ。まるで湯気でも出るんじゃないかってくらいに紅潮している。
「あっ、あの……これは、その……私、びっくりするとすぐこうなっちゃって……恥ずかしいから見ないでください」
こんなマリ姉は今まで一度も見たことがない。
するとつられて、オレの顔まで熱くなった。沸騰した頭で考えてもわかる。めちゃくちゃ恥ずかしいことをしているのはオレの方だ。
でも、ここまできたら引くという選択肢はなかった。痛いくらいに背筋を張り、立ち上がって腰を折る。
「ごめんなさい。だけどオレ、本気なんだ。オレはずっと昔から、あなたのことが好きなんだ!」
はっきりと発音された好きという言葉でマリ姉の全身がびくんとはねる。
オレは構わず先を続ける。
「だからっ……もしオレに希望があるなら、明日、デートしてください! それで答えを決めてほしい。ちゃんとエスコートするから。明日の朝、前に車で言ってた丘の上のカフェで待ってます!」
捲し立てるようにそう告げきったオレは、まともに顔を上げられないまま脱兎のごとき逃げ足で音楽室を去った。だって今、もう一度マリ姉の姿を見てしまったら、怖くて恥ずかしくて胸がつまって……この呼吸さえ、止まってしまいそうだったから。
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