第27話 ちゃんと覚えといて

 結界の外に出て、レオナルドは何度かの《転移》を使用して自宅へ帰った。

ウォーウルフ家の屋敷は少し変わっている。自然派の美術館と称すのが近いだろうか。がっしりとした木造建築の中にガラス張りのドームが覗いていたり、壁から突如うねりを帯びた巨木が突き出ていたりする。小高い丘のような、一つの森のような様態であり、無造作に自然そのまま放置したようでいて、きちんと整っているような、不思議な調和が取れている。狼のねぐらなのである。

 巨木が左右から倒れかかるようにして重なった門をくぐる。玄関を抜け、近くにある呼び鈴を揺らし、叫ぶ。


「サツキさーん! 今、手ぇあいてるかー?」


 少しして、目の前にドロンと白い煙が上がった。現れたのは、白い割烹着を着た綺麗な女だ。赤地に矢絣模様の和服を下に着て、足元は黒いローファーブーツ。頭にはきつね色の獣耳がピョコンとついている。


「はぁい坊ちゃまおかえりなさ……きゃあ! 女の子お持ち帰り!」

「いや違うから。……んん、違うことはないのか?」

「あれ? 様子がおかしいですね。怪我してます?」


 横抱きにされたライラをサツキが覗き込む。百人が見れば百人が美人だと思うだろうサツキは妖狐である。高く通った鼻梁、薄く儚げな紅い唇、大きなアーモンド型の瞳は薄紅に色づいている。溌溂としたなかに艶やかな怪しさをもっていた。

百年前、魔界が別の異界と層が重なり繋がったとき、そこにいたのが妖達である。人間界で、異形であるお互いの存在は知っていたため、なんとか戦闘には至らずに今日まで共存できている。魔族とは少し創りが違うが、魔力を巡らせ使うところは同じである。

 サツキはウォーウルフ邸で家政婦をしているのであった。


「そんなところ。着替えとか回復とかお願いしたいんだけど、頼める?」

「ええ! 何だか色んな汚れや匂いもついてるみたいですから、全部まるっと綺麗にしますね、お任せくださいな! それとそうですね、この、足のやつはどうしますか?」

 鎖の千切れた足枷である。重そうなそれが両足首にガッチリと嵌ったままだ。

「これは……外せる?」

「んん、どうでしょう。彼女さんに傷がつかないようには、ちょっとサツキには無理ですね。これ、変な感じがしますし」

「だよなぁ。これはこのままで、頼みます」

「坊ちゃんも色んな匂いがついてますね。サツキは奥の浴場を使いますので、坊ちゃんはいつものお風呂にどうぞ。服も後で回収しますから置いといてください」

「うん。じゃあ、お願い」


 レオナルドからライラを抱き受けたサツキは、横抱きにしたまま軽やかな足取りで奥へ向かった。妖狐は戦闘能力が高く、サツキも例に漏れないが、何より彼女は家事魔術の達人である。彼女が綺麗にすると言ったら、ライラの肌も服も何もかもがピカピカに磨き上げられるだろう。

 レオナルドは靴を脱ぎ置き、のんびり歩いて自室に入り、黒地の七分丈クロップドパンツを出した。ルーズなラインに裾が少し絞られているデザインは動きやすくて気に入っている。衿ぐりの大きな藍色のTシャツも引っ張り出した。ストレッチがきいている素材で、肌触りも気持ちいい。


 風呂では念入りに体を洗った。ヘルムの地下室に充満していた泥のような甘い匂いが纏わりついていたからである。檜風呂に浸かり、心地いい温もりと香りに包まれた。

 風呂を出て、屋敷の中央部に設計されているドーム型の温室に寄る。屋敷全体の屋根をくり抜くように天井がせり出しており、燦燦と陽の光が降り注ぐようになっている。中は小さな森になっているような仕様で、ウォーウルフ家全員の憩いの場である。レオナルドは中でも気に入りの大木にひとっ跳びで登り、枝に腰をおろした。

 考えることが多いとき、大変なことがあったとき、悔しいとき、悲しいとき、レオナルドはこうやって大木に寄り添い、心を無にする。自分の心が凪ぐまでそうしている。内の中にいる狼の、燃え滾る本能を鎮めて向き合っているのだ。

 レオナルドは、ライラに言いたいことがあった。




「くっそ! 調子乗んなよこの女!」

 ヘルムの屋敷で地下への秘密階段を発見したとき、下から聞こえた怒鳴り声。その後の声もレオナルドにはちゃんと聞こえた。

「お前みたいな淫魔の出来損ない、誰も必要としてねぇんだよ! 大人しく俺らの役に立ってろや!」

「誰も必要としないことぐらい、知ってる」

 ライラははっきりと呟いていた。その声は諦観も哀しみもなく、ただ無色だった。



 自室に戻ると違和感があった。甘やかで瑞々しくて胸の奥がほんのり色づくような匂いがする。

 濃い色合いの無垢材のフローリング、壁と天井は白い無垢材で作られ、個室もそうだが屋敷全体が森の中の基地にいるような雰囲気がある。あたたかみのある絨毯を敷き、小さなローテーブル、机に椅子、一面の壁半分を占拠している本棚には本がきれいに収まっている。部屋の隅には大きなベッド。毎日レオナルドが眠るそこに、小さな先客がいた。


 いつもはまとめている髪は下ろされ、そこにだけ優しい光がおちているような空気をまとい、目を閉じている。学園の制服は着ておらず、袖のない白いワンピースを着ているだけだ。華奢な肩が露出し、白い手はお腹のあたりで組まれている。ふんわりとしたスカートから丸い膝小僧が見え、ふかふかしたベッドに横たわっている。肌には汚れも傷跡もなく、あの地下牢の不愉快な匂いも消えていた。両足首の足枷だけが、今日あった出来事の名残である。

 ライラが眠るまわりには、薄紫の小さな花と赤い花びらが、囲うようにして散らされていた。可愛らしく、少し神聖な心地すらする。レオナルドは知っている。ベッドの上に紫と赤の花を散らすのは、大狼族の新婚初夜で行う風習だと。

 ごくりと唾をのんだ後、さび付いた機械のような動きで踵を返した。


「サ―――ツ―――キ―――!」

「あら、どうされましたか坊ちゃん」

「何やってんだ、あれ!」

「よくなかったですか?」

 小首を傾げてレオナルドを見上げるサツキだが、瞳の奥でにんまり笑っているのが分かる。


「クラスメイトなだけだから!」

「あら。でも、家に女の子連れてきたの初めてじゃないですか。お姉さまにも、もし坊ちゃんが女の子を連れてきたときは丁重におもてなしするよう言われていますし」

「だからって、あれはないだろ! あれは!」

「坊ちゃんってなかなかの初心……ぷっくく……くくく……」

「笑うな!」

 耐え切れなくなったサツキはお腹を抱えながら笑い声をもらす。


「彼女の体の傷は治しておきましたよ。体力も魔力もすっからかんだったみたいで、体を洗っている最中もほぼ寝てました。服は今洗って乾燥中です。代わりに着てもらっているものはお姉さまのもので、好みじゃないって着ずに眠っていたワンピースなんですよ。もうサイズ的に着られないでしょうし、よければ彼女が貰ってください。そうそう、華奢にみえてねぇ、なかなか煽情的なところがあったんですよ、聞きたいです?」

「いらない!」

 サツキに言いたいことを言ったレオナルドは自室へ引き返す。その背中をサツキがにやにや笑いながら見ているだろうから振り返らない。


 ベッドではライラがすやすやと眠り、起きる気配はまだない。もうしばらく様子を見ようと、本棚から小説を取り出した。人間界で有名なSF大河ファンタジーを翻訳したシリーズの一冊である。匂いの立ち上るような描写やバトルシーンの熱も好きだが、秀逸な心理描写の群像劇であるところが好きで何度か読み返している。

 絨毯の上に座って脚を投げ出し、ちらりとベッドの方へ目をやる。窓から風が入り、カーテンを小さく揺らした。

 小説を半分近く読み進めたころ、ベッドの方でもぞりと動きがあった。レオナルドは本を閉じて近づく。ライラが目をこすりながら体を起こした。


「ん……ここどこ」

「俺の家」

 ベッドの足元の方に立っているレオナルドとばっちり目線が合い、ライラが固まる。

「どこまで覚えてる? あの地下室で倒れたんだよ、ライラ」

 数秒置いて静かに頷くところを見ると、ちゃんと覚えているようだ。

「そんで、俺の家に連れて帰った。体綺麗にしたり、着替えとかは家政婦のサツキさんに頼んだから、安心しろ。ライラの兄貴たちには許可をもらってる」

「う、うん」

「……それで、さぁ」

 レオナルドはベッドの端に腰かけた。ライラからは下を向く横顔しか見えないだろう。


「俺は、ライラを必要だと思ってる。知らなかった?」


 低い声が出た。軽く言おうと思っていたのに、少々の怒気が漂う。

ライラは動かない。

「俺だけじゃない、キャロンだってそうだろ。それくらい、俺だって分かる。――あのとき言ってたよな。自分を『誰も必要としないことぐらい、知ってる』って」

「それ、は」

「俺たちのこと信じてないって、そうとも取れるぞ?」

 自分がどんな顔をしているか分からないから、ライラの顔を見られない。怒りたいのじゃじゃない。責めたくもない。

悲しいのだ。

 ライラが布をぎゅっと握りしめたような音が聞こえた。


「……ずっと、私は、《羊の姫》であることしか価値がないと思ってた。家族は違う、家族だから、愛してくれる。でも、他は? 屋敷の皆が愛してくれる自分を肯定したいのに、できない。外に出れば、私が私であることだけで、肯定を……必要としてくれるなんてこと、どうしても思えなかった。私は自分に自信がない」

「うん」

「レオとキャロンちゃんのことは好き。私が好きだったら、それでいいって、思ってたの」


 レオナルドがライラの方を向く。視線がぶつかり、ライラの喉が一度ひくっと詰まった。


「それって、信じてないのと一緒だよね……。ごめん、ごめんなさい」

 ぽつりぽつりと、ライラの両目から透明な雫が落ちる。にじり寄ったレオナルドはライラの頭をぐりぐりと撫でつけ、その薄い肩を引き寄せて抱きしめた。

「心配した。無事でよかった。好きだ」

 震えるような押し殺した声が出た。

「……ありがとう、レオ」

 ライラの声には、後悔と安堵と、幸福があった。遠慮がちに、レオナルドの背中を抱き返してくる。拙くて、いじらしい。

「キャロンにも言っとけよ。それと……エリックも一緒にライラを探したぞ。兄貴たちに言われて留守番組だけど」

「うん」


 しばらく二人はそのままでいた。

 この状況にじりじりし始めたレオナルドが身を離し、ライラの頬を両手で捕らえる。自分の方へ無理矢理向かせ、そうされても特に拒絶の意思も警戒もないライラに、本能が炙られるように焦れた。


「……そんで、分かってないようだから、言っとく。ちゃんと言わないと全然伝わらないのが、分かったわ」

 ぱちぱち、とライラは瞬いた。レオナルドは深呼吸をする。

「俺、好きだから。恋愛感情でライラのことが好きだから。ちゃんと覚えといて」

「……うん?」

「朝から晩まで一緒にいたいし口づけもしたいし正直抱きたい。甘やかしたいのに少し苛めてみたくもなる、その瞳に映すものを俺だけにしたいくらいの、そういう意味の好き、だ。……こういう状態でそうやって無防備にしてたら、都合いいように考えるけど?」


 熱をはらむ甘やかさで囁いた。宣言しているようで、本当は懇願している。

意味を理解し始めたのか、目を見開いたライラの顔が真っ赤に染まっていく。

 レオナルドの、うわべだけの冷静さが剥がれ、少し魔が指す。

 ほんの一瞬、掠め取るようなキスをした。


「隙だらけなんだよ、馬鹿め」

「ばっ……」

「ここ、俺の部屋で、俺のベッドで、そんな防御力も何もない格好してんの、分かれ。少しは拒絶してくれないと、調子乗ってどこまでもするぞ」

「わわわわかった」


 ライラは慌てて後退し、距離をとった。自分で言ったこととはいえ、レオナルドは微妙な顔をする。


「……嫌だったか?」

「な、なにが」

「キス」

 ライラの肩がぴくりと揺れる。ぎゅっと両手を握りしめると、ライラは震えた声で言った。

「嫌では、なかった」

「……ふうん」

 レオナルドは満足気に相槌を打つ。生まれたての小鹿みたいにぷるぷる震えているのをこれ以上攻めるのは可哀想だ。このまま押せば、押し通せるような気もするが。


「さて。この足枷、どうする?」

「えっ、足枷? あ――壊しちゃおうかな」


 ライラはこともなげに言った。両手で足枷の手触りを確かめ、これならいけそうだと呟く。一方の足枷に左手をそえ、深呼吸している。

 様子を間近で見たレオナルドは、ライラの漆黒の瞳の中に小さな光が瞬いていることに気付いた。その様々な銀色の粒は、星々きらめく北嶺の夜空を眺めているような心地にさせる。

 ふっ、と小さく息を吐き、ライラは手刀を振り下ろした。ばきりと足枷が割れて壊れる。

「うわ、お見事」

 ライラはもう一つの足枷も同様に壊す。そんなに簡単に壊れるものではない。なにせ魔術封じがかかっているはずなのだ。しかも自分の足首には何らダメージは負っていないのである。不思議が過ぎる。


「うん。もう大丈夫かも。体力も戻ってきてるみたいだし、体も何だかすっきりしてる」

「俺んちの家政婦さん、補助系魔術超得意なんだよ。本人は妖術って呼称(よ)んでるけど。そろそろ洗濯乾燥も終わってるだろうし、ライラの制服もらいに行こう」

 レオナルドが立ち上がり、部屋のドアの方へと移動する。

ライラもベッドから下りてついていく。興味深げにレオナルドの部屋を見回している。

「レオナルドの部屋! って感じ。あたたかくて落ち着くね」

そわそわした様子で微笑むライラを見て、やっぱり――と、つい口が出てしまう。

「もっかいキスしてもいい?」

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