第13話 変化してゆく学園生活(6)

 レオナルドは迷っていた。行くべきか、行かざるべきか。

 昼休みに入り、ライラとキャロンは昼食を持って教室を出て行った。そのときキャロンがレオナルドを見て、意味深に笑った。狼の姿でのこのこやって来るのかさぞ見物ですわ――といったところだろうか。

 正直言えば、行きたくない。……いや、行きたいのだが。

 隣の席にいるライラの存在に、体が疼いてしょうがない。顔を見たいけれどずっと横を向くのもおかしい。それにライラはなかなかこちらを見ようとはしない――そもそもレオナルドが悪いのは分かっている。こちらを見られないような原因を作ったのは自分だ。あれだけ脅して威圧したのだから。

 目を合わせたところで求めるような笑顔は向けてもらえない。嫌悪や憎しみがないのも知っているが、狼のときのような笑顔を見ることはできない。

 もしも今、嫌悪を向けてこられたら……と考えると、胃が重たくなった。それとももしも狼のときのように、信頼しきった表情で抱き着いてきたら、人型の腕で抱きしめ返せたらどんな心地がするのだろう、と考え……何馬鹿な想像をしている、と自分で自分を殴りたくなるレオナルドだった。


 ライラとゆったり過ごしてきた癒しのあの場所へ行けば、キャロンに勝ち誇ったような笑みを向けられるだろう。腹立たしい。でも行かなければライラがきっと悲しむ。

 結果、二人が談笑しているところに狼姿を現すことになった。案の定キャロンはしたり顔だった。

 ライラの横に、少し距離をおいて伏せる。ライラがわざわざ狼の方ににじり寄り、頭から体にかけて毛並みを撫で始める。甘やかな匂いが近づき、狼の本性は満足気だ。ライラの手つきも気持ちいい。されるがまま、目を閉じた。


「ほんっと、ライラに懐いてますのね」

 キャロンが皮肉げに言った。レオナルドは無視を決め込む。

「懐いてるっていうか……触らせてもらってるんだよ~」

 控えめに言うライラに気を良くする。そう、触らせてやっているのだ。

 そうしたレオナルドの態度にキャロンが苛立ったのだろう。

「ライラはその狼の正体、気になりません?」

「正体?」

 ライラが狼をちらりと見やる。

「何か秘密を持ってるの?」

 片目をぱちりと開けてライラと目を合わし、すぐ閉じた。冷静に見えるといいが。レオナルドの心臓は凄まじい勢いで早鐘を打ち始めている。

 否定しない狼に、ライラはそれが本当だと理解する。


「もしそうなら、狼さんが自ら教えてくれるまで、秘密でいいや」

「ライラは優しいですわねぇ」

 クスッとキャロンが笑った。その笑い声には「命拾いしましたわね、レオナルド・ウォーウルフ」という言葉が含まれている。レオナルドには分かる。

(くっそ、信条には反するがこの女殴りてぇぇぇ)

 尻尾をぼすんと振り下ろした。



 また別の日には。

「ねぇ、私ずっと思ってたのですけど……ライラの精気ってどうしてそんなに美味しそうなのです?」

「えっ?」

 これはレオナルドも唖然とした台詞だった。キャロンはまるで淫魔のようなことを言う。

「少し、食べてみたいのです……」

 キャロンは上目遣いになり、懇願の表情を作る。地面に手をついて、上半身だけライラの方へ寄っていく。ライラを落としにかかっている。

「あ、あの、キャロンちゃん。キャロンちゃんって、大猫族だよね? 淫魔じゃないよね?」

「純度百パーセントの大猫族ですわ。もしかして、精気を食べるのは淫魔だけだと思ってますの?」

「え、違うの?」


 これもまたレオナルドは吃驚した。そんなことも知らないのか。ライラの周りは何を教えているんだ――淫魔だらけで育ったからそうなるのか? こんな甘い匂いをしているのに、家族は注意しなかったのだろうか。


「淫魔ほど精気を食べることも、それを自身のエネルギーに変換することもできませんけど、魔族だったら精気は好物ですわよ?」

「そ、そうなんだ……」

 つくづく無知だなぁ、と肩を落とすライラに、狼のレオナルドが慰めるように尻尾で彼女の背中を撫でる。

「そこの狼だって、勝手に食べてると思いますけど」

『してない』

 苛ついたレオナルドは、つい喋ってしまった。勝手に精気を頂くような無粋な輩と思われているとは。金色の瞳でキャロンを睨み付ける。

「あら、ごめんなさい。てっきり」

 キャロンは素直に謝った。「案外ちゃんとしてますのね」とポツリと呟いた。

「ええと、キャロンちゃん、どうぞ」


 キャロンはライラの首元へと顔を近づけ、柔らかそうな白い素肌をぺろりと舐めた。ライラは「ひゃっ」と可愛らしい声をあげる。聞いているレオナルドの方が恥ずかしくなった。

 ライラの首筋を舐めたキャロンは頬を赤くした。まるで強い酒でも呷ったような赤みだ。手を広げてぱたぱたと顔を仰ぐ。驚きの表情でライラを見た。


「す、すごいですわ。ものすごく濃厚で、幸福感に酔うように甘くて……ええと、何て言うんでしょう、とにかく、すごい」

「あんまり良くなかった?」

「逆ですわ! これは、中毒性がありますわ……でも私には濃厚過ぎて、た、倒れそう」

「えええ! ごご、ごめんねキャロンちゃん! 大丈夫!?」

「ライラが謝ることは何一つないですわ……」

『そのとおり。そいつが悪い』

「うるさいですわ狼。でもライラ、これ、注意した方がよろしいですの。狙われるかもしれません」

「狙われるって?」

「この味を知ったら、貴方の精気目当ての輩や、よからぬことを企てるような輩も……。ご家族から何か言われてはいませんの?」


 それはレオナルドも気になっていた。


「兄様や屋敷の皆からは、男共に注意しろってうるさい。関わり持たなくていい、喋らなくていい、とか言われてる。何かあったら容赦なく拳を振り下ろせ、そして俺たちを呼べって。過保護でしょう」

「まぁ、そう言いたくなるのも分かりますわ。だからあんなことが――この前の魔術基礎演習のことですけど、お兄様たちに鍛えられたのですね?」

「兄様たちにそういう意図があったってのは最近知ったんだけどね。だって兄様たちが一番精気奪っていくんだもん」

「その気持ちも分からなくはないですわ。ましてや淫魔ですものね」

 ライラは狼に振り返った。

「狼さんも私の精気食べてみる?」

 狼はびくっと耳を立てた。

「不用意にそういうこと言わない方がよろしいですわよライラ」

「だって狼さんだもん」

 どうする? と首を傾げるライラに、レオナルドはすぐにでも押し倒して飛びかかりたくなる。


(いやいやいや、獣か俺は)

『……今日は、やめておく』

「そっか。私、精気有り余ってるみたいだから、試してみたいときは遠慮なく言ってね」

 さぞかし甘く美味しいのだろう。下手すると酩酊状態になりそうだ。それを、キャロンの目の前で晒すようなことはしたくない。

(何より、始終こいつを求めるような、中毒になるのが怖い)

「今日は、ねぇ」

 未だ顔が赤いままのキャロンが、狼を意味深に見下ろしていた。



 ライラが近い距離にいると、レオナルドは匂いですぐ分かる。

授業合間の休み時間、選択科目の移動中にライラの香りがした。惹きつけられてやまないので、どこにいるのか探してしまうのも仕方ない。

薔薇園になっている中庭をコの字型に囲んだ廊下の隅から、対角線上にライラの姿が見えた。赤やピンクの濃厚な薔薇の匂いが立ち込めるなか、ライラの匂いは甘いのに凛と透き通るようにかぐわしい。少し辺鄙な場所にあるためか、今ここに他の魔族はいなかった。

 もしもライラがこちらに気付いたら、さり気なく話しかけてみようか――と思っていた矢先、ライラがいる近くの出入り口から誰かが現れた。


「ライラちゃーん!」


 銀色にオレンジ色を溶かし込んだ髪を持つ美丈夫が、ライラに抱きついた。銀髪ということは淫魔、しかもやけに体格が良い。抱きつかれたライラの方は、一瞬身を強張らせたものの、相手が分かったのか身を委ねている。

 レオナルドは腹の奥がグラグラと煮えたような感覚がした。

 美丈夫は身を離すと、今度はライラの頬を両手で掴み、鼻先にキスをした。レオナルドの瞳が、狼の金色のものへと変わっていく。

(誰だ、あいつ)

 知れず、握った拳に力が入った。体の内に収めている膨大な魔力が滲み出ようとし――すると、ライラが右腕を振りかぶって美丈夫を殴った。美丈夫は慣れた様子で防御魔術を発動し、打撃を受け止める。レオナルドの方まで重い音が響いた。


(容赦ねぇ……)

「学園ではやめてって言ってるじゃん!」

「だってライラちゃんが可愛いからさ~」

 ようやく美丈夫の顔がちゃんと見えた。淫魔の中でも美しく、かつ珍しいおおらかさを持つトゥーリエント家の次男だ。名前は確かファルマス。

 兄だと知って、レオナルドはどこかホッとした。

(いつもあんなことやってんのか)

 二人は仲良く談笑しながら、回廊から出て行った。ファルマスにちらりと見られた気もする。間違いでなければ、その目はとても鋭かった。

(シスコンか……)

 ライラがいなくなったことで、薔薇の匂いが強くなった。



 ライラ・トゥーリエントというのは至って無防備であるらしい。

 放課後に入り、ライラはキャロンからお茶会部になるものに誘われていた。まだ同世代に慣れていないのか、突然の誘いに気が引けたのか、「今日は図書館に寄ろうと思って……」と断っている。何でも選択科目で取っている薬学で気になることがあるのだと。

(真面目だな)

「また誘ってもよろしい? 色んな情報も得られるからお勧めですの」

「うん! 是非また誘って。次からは心構えしておくから」

「心構えって。取って食われたりしませんわよ? ふふふ」

 情報が得られるとか言っていたが、フォレストのような腹黒女子の集まりなのだろう。恐ろしい。


 一人で歩いて行くライラを見て、ふいにレオナルドは不安を感じた。今日、ライラを一人で行かせてはいけないような――我ながら阿呆らしい。けれど先日のデヴォン似非教師の一件もある。

 気になってしまうのなら、それを取り除く方がいいだろうと考え、レオナルドはライラを見守ることにした。

 校舎から出て舗道された白い道を歩いていく。多くの生徒たちが縦横無尽に歩いているため、何気なく歩いているレオナルドはライラをけているようには見えない。ライラの方もまさかレオナルドが尾行しているとは思わないだろう。彼女はオリーブの木の角を曲がり、図書館へ入って行った。


 やはり心配し過ぎだ、ここまできたら大丈夫だろう――と思ったが、胸の内の不安はまだ消えない。ため息をついてライラを追った。

 図書館は床や柱、棚やテーブル、椅子等全て木調で作られており、深い色合いで重厚な雰囲気を醸し出している。ぼんやり眺めながら歩いていたら、目的の書架を見失って迷うほどに広い。

 館内案内図を確認したライラは吹き抜けの玄関ホールを抜け、階段を上っていった。吹き抜けの天井には、まるで海の底から覗いている気持ちを起こす、大海を描いた大きなステンドグラスが嵌っている。

(魔族の誰が考案したのか……まぁ、悪くない)

 ライラに気付かれない程度の距離を空け、レオナルドも階段を上がった。

 着いた四階でライラは本を選び始める。


(なんか俺ストーカーみたいだな)


 じっと眺めていると本当にただのストーカーなので、レオナルドも適当に本を選び始めた。薬学と魔力を組み合わせた魔術式の本に興味がわき、内容も興味深かったので一時夢中になる。

「おや? そこにいるのは一回生のライラちゃんー?」

 軽薄な声に、レオナルドの体が反応する。デヴォンだ。三つ向こうの書棚でライラに声をかけている。

「あ、先生」

 ライラの声には少しの警戒が交じっていた。

「勉強? 熱心だねぇ。俺に協力してくれるのか、考えてくれた?」

「協力って、何の協力なのかさっぱり分からないのですが」

「痛いことはしないよ? そうだなー、君が望むのなら、気持ちイイことしてあげてもいいよ? 百戦錬磨の先生だから、それなりに期待出来ると思うよ~」

 レオナルドは持っている本を破りそうになった。


「先生この前、私に《魅惑》かけようとしました、よね?」

(あいつ、単刀直入に聞いたな!)

「んー、やっぱり分かっちゃった? それで、どうして君はかからなかったのかな? 俺のお誘いにも興味ないみたいだし。おかしいなぁ、結構イケてると思うんだけど。それともやせ我慢?」

 デヴォンの纏う気配が変わる。直接見なくとも感じる。またライラに《魅惑》をかけようとしているのだ。ライラが二度目も耐えきれる保証なんてない。レオナルドは急いでライラの元へと駆けた。細い肩を抱き寄せるようにして、デヴォンから引き離す。頭もぎゅっと引き寄せ、自身の胸に押し付けた。


「お前、またやろうとしただろ! もう見逃せねぇぞ」

「おおっと、またまたウォーウルフ君か。君、この子の騎士ナイトか何かなの?」

「誤魔化すな似非教師」

「似非教師とは! 確かにその通りかもね~。でもここ、図書館だから、静かにね~」

「てっめ」

「ハイハイごめんね。本気で《魅惑》かけようとしたんじゃないから。この子の耐性が強そうだから実験っていうか~まぁ、この前は研究協力の言質取ろうと思ったんだけど失敗しちゃったし。それに今回もかからなかったみたいだしね。本当に興味深い。じゃ、またねライラちゃん。俺、別にそこまで悪い奴じゃないから~ほどほどに信用してね」


 デヴォンはペラペラ言うだけ言って姿を消した。教師には学園内の《転移》魔術が許されている。

 レオナルドは苛立ちがおさまらないまま、腕の中にいるライラをぎゅっと抱きしめた。無自覚に。

 苦しかったのか、ライラがトントンとレオナルドの胸を叩く。そこでようやく、レオナルドはライラを抱きしめてしまっていることに気付く。腕の中の華奢で柔らかな感触と、立ち上る甘美な匂いに、突然心臓が騒ぎ出す。

 レオナルドはぱっと両手を離し、一歩引いた。ライラがはぁっと大きな息を吸う。

 そして目の前にいるレオナルドに、少し顔を赤らめてにっこり笑った。


「また、かばってくれてありがとう」

 狼ではなく、レオナルドに向けて花が綻んだように笑った。

 ドキリと心臓が跳ねた自分を戒めるように、レオナルドは近くの書棚のへりにゴツンと頭突きをした。

「!?」

 突然の奇行に驚くライラに対し、レオナルドは涼しい顔を取り繕って向き直る。

「いや、別に、あいつデヴォンが嫌いなだけ」

「うん。でも、私は嬉しかった。レオナルド君は、やっぱり優しいね」

 その言葉の語尾には『やっぱり優しいね、私のことが嫌いなのに助けてくれるなんて』と続くのだろう。レオナルドは眩暈がしそうになった。

「あんたは……あいつに狙われてるだろうから、気を付けた方が、いい」

 レオナルドはぼそぼそと喋る。

「そうみたいだね。何故そんなに興味持たれてるのか分からないけど……。ありがとう」

「あ、ああ」


 両者の間で暫く沈黙が続いた。先に口を開いたのはライラだった。

「あ、あんなこともあったし、そろそろ帰ることに、します」

「そうだな。……校門まで、送る」

 レオナルドは口走ってから後悔したが、ライラが嬉しそうにして頷いたので、言って良かったと思い直した。

 ライラは二冊本を借りてから、玄関ホールで佇んでいるレオナルドに駆け寄った。頷いたレオナルドが歩き出し、それから特に会話することなく、微妙な距離を保ったまま校門まで二人で歩いた。

 ライラがレオナルドに向き直り、背の高い彼を見上げておずおず口を開く。

「あの、今日はありがとう。また、明日……レオナルド君」

「……おう」


 冷たく聞こえたかもしれない、とレオナルドは焦った。

 ライラはほっとしたように笑い、拙い転移魔術でその場から消えた。

 ライラが消えてようやく、レオナルドは体の緊張が解けた。

 嫌いなはずなのに。

(なんだあの可愛い生き物……)

 腕の中に閉じ込めたときの柔らかさが、体から離れなかった。

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