第304話


 


 その男は、天に愛された存在だった。


 心·技·体、その全てにおいて史上最高水準の才能を生まれ持ち、その眼は人の資質を見抜き、その豪運は数多の苦難を退け、その声は聞く人の魂に響かせる。


 まさに、生まれながらの王。王になるべくして生まれた者。それが、織田信長であった。


 父は朝廷と実力者達との親交を深め、栄えた湊は織田家に莫大な富を築かせた。その才能を存分に発揮出来るだけの下地が、既に備わっていたのである。まるで、神がお膳立てしたかのように。


 正しく、神童。


 それ故に、幼くして己の立場を理解していた。理解してしまった。この織田家が、どれ程危うい状況の上に成り立っているのかを。この尾張国の周囲を取り巻く敵の強大さを。身内通しで足を引っ張り合う織田家の脆さを。否が応でも理解させられた。




【強くならなければ、何も守ることは出来ない】




 それが、偉大な父の背から最初に学んだ教訓。


 だから、父 織田信秀が死んだ時も人前では決して涙を流さなかった。うつけの仮面を被り、抹香を仏前に投げつけて気丈に振る舞った。


 今、自分が弱い所を見せれば、忽ち他の勢力が軍勢を率いて押し寄せてくる。今川家や斎藤家だけでは無い。本当の敵は、虎視眈々とこちらの隙を伺う親類縁者なのだ。


 織田家を守る為に、父の遺志を継ぐ為に、信長は敢えてあのような行動に出た。家臣達の中に紛れ込んでいる間者に悟られぬように、聡い者達へ投げかけたのだ。こんな盛大な葬儀をしている場合ではないと。


 信長は、自身の王としての素質を隠す為に、父の死でさえも利用してみせた。


 無論、父のしを冒涜する気など微塵もない。抹香を掴んだ瞬間、胸が張り裂けそうだった。


 ……だが、それでもやらねばならなかった。


 当時の織田家に、今川家や斎藤家と渡り合うだけの武力が、財力が、知識が圧倒的に足りていなかった。尾張一国すら統一出来ていない状態で、大国と渡り合うなど夢物語にもならない。


 戦えば、間違いなく負けるだろう。


 誰もが、そう思っていた。






 しかし、信長はそんな追い込まれた状況に活路を見出した。


 確かに、現状では織田家に勝ち目は無い。


 ――そう、現状では……だ。時間をかけて力を蓄えることが出来ればその限りではない。その才能が花開いた時、神童はこの世の全てを統べる覇者となるだろう。どんな強敵でも怖くない。真正面からやり合える。それだけの可能性があった。


 それ故に、信長は道化を演じ続けたのだ。


 うつけだと侮ってくれれば、わざわざ攻めて来ることもない。特に、今川家は武田家や北条家との関係がある。斎藤家も露骨に隙を見せなければ大丈夫だろう。


 数年は稼げる。そう、確信した。


(その為ならば、薄っぺらい見栄なぞ犬にでも食わしておけば良い。そのような些事に囚われて国が滅んでしまったら、死んだ父上に顔向けが出来んわ……っ! )


 信長は、誇りよりも将来的な利を取った。その時代では実に異端な、合理的な思考を持っていたのだ。


 そして、家臣達のことも信じていた。


 きっと、分かってくれる。理解出来る。何故なら、これしか織田家がこの乱世を生き抜く道は無いのだから。






 ……しかし、その行動の真意を理解出来る者は少なく、殆どの者達が信長へ不信感を抱いてしまった。


『やはり、アレはただのバカか』


『何を考えているのやら』


『家督を継ぐべきだったのは、弟の方ではないのか』


「――っ」


 ボソリボソリと聞こえてくる言葉に、信長は怒りと嘆きを同時に感じた。信長からしてみれば、何故家臣達がこちらの意図を理解出来ないのかが分からなかったのだ。それ以外の選択肢は考えられないというのに。


 異端なのだ、信長の思考は。


 天才故に、凡人の思考を理解出来ない。凡人故に、天才の思考についていけない。


 ……そのすれ違いが、信長の進む道を決めてしまったのかもしれない。


 利を説いても理解されず、情に訴えても離れていき、母に命を狙われ、家臣達の心は離れていき、その果てには実の弟を担いで謀反を起こされた。


 弟の首を刎ねた瞬間、信長の中から人として大切なモノが零れ落ちた。






 その後、信長は神が決めた運命に身を任せるように覇道を突き進んだ。何者かの思惑に乗せられるのは些か癪に障ったが、最早この乱世を終わらせることが出来るのは自分だけだと思い立ち、天下を統一する為に名乗りを上げた。


 それが、悲劇の始まりである。


 織田信長ほど、信頼していた者に裏切られた男はいないだろう。足利、浅井、松永、荒木……。誰にも理解されない苦しみは、次第に信長の思考にまで多大な影響を及ぼした。




【君臣の交々計るなり】




【信賞必罰】




 孫子と韓非子の言葉である。この二人の思想に感銘を受けた信長は、次々と織田家内部の改革を推し進めた。


 人を動かすのは、仁や義でなく利益である。裏切り者には死を、忠義を尽くす者には褒美を。過去の栄光に縋る者を追放し、若くて力のある者に領土を分け与える。信長は、家臣達に成果を出し続けることを強要した。


 すると、瞬く間に効果が出始めた。天下取りへ邁進する中で、多くの大名家が織田家の傘下へと下っていったのだ。


 圧倒的な兵力と財力に、死に物狂いで手柄を求めてくる武将達。そんな、世にも恐ろしき修羅達が季節を問わずに遠征してくるという悪夢に、誰もが己の敗北を悟ったのが一番の要因であったという。






 何はともあれ、結果が出てしまった。


 信長は、やはりこの考え方は間違っていないのだと確信してしまう。


「敵に情けなど無用。使えぬ家臣に情など無用。天下布武。このまま覇道を突き進むには、韓非子が説く【法治主義】を徹底せねばならぬ。その先に、泰平の世があるのだ。……その為ならば、宿老とて容赦はせぬ。改革を推し進めねば」


 より一層、信長は周りから人を遠ざけた。心を閉ざしてしまった。傍に控えているのは、限られたごく一部の者達のみ。人ではなく、結果のみを見るようになってしまった。


 ……その道の先にあるのは、血と恐怖によって国を縛り付ける独裁者だというのに。確かに、その歩みを制する声があったというのに。信長は、進み続けた。奈落の底へと。


 覇王は、魔王へと堕ちた。


 多くの裏切りが、信長を変えてしまったのだ。


 あの頃の笑顔を、家臣達は一人も浮かべていない。


「上様っ! どうか、お考え直し下さいませ! このような仕打ち、家臣達も酷く動揺しております! 」


「黙れ! 貴様は、余の言う通りに動けば良いのだ! 」


「う、上様!? 上様ーっ!!! 」


 光秀の嘆きは、信長の耳へ入らなかった。


 それが、彼が辿る運命を定めた。










 天正十年、織田家は最大の栄華を築いたその年、腹心であった明智光秀が謀反を起こした。……朝廷の指示であった。あれ程までに尽くしたというのに、朝廷は信長を切り捨てた。人の心を理解出来ぬ怪物を畏れたのだ。


 燃え盛る本能寺を取り囲む万を超える軍勢。対して、信長の手勢は百にも満たない。多勢に無勢。最早、これまで。誰もがそう思った――その時、運命が覆った。


 三法師。


 一人の転生者が起こした行動が、信長の命を救ってみせたのだ。多くの者を失い、記憶までも失ってしまったが、その命だけは助かった。足掻いた先に、未来へと希望を繋いだ。


 そのバトンを継いだ帰蝶の一途な愛が、失われていた記憶を取り戻した。家臣達の変わらぬ忠義が、もう一度だけ信じてみようと思わせた。


 誰一人欠けても成し得なかった奇跡。


 人の心を失った怪物が、その強さを引き継いだまま今一度正道へと引き返す。そんなこと、普通ではありえない。ありえないからこそ、奇跡なのだ。






 人と人が繋いだ絆が、最強の覇王を蘇らせた。


 もう、何も憂う必要はない。


 信長の最大にして最後の力が、今、戦場に解き放たれる。






 ***






 時は、満ちた。


「今こそ、我らが友の敵を討つ時! 無念を晴らす時だ! 皆の者! 人の道を外れ、外道に堕ちた徳川軍の者達に見せつけてやれ! 人の想いの強さを!! 」


『――っ! 』


 叫べ、兵士達よ。戦え、兵士達よ。今こそ、王の名のもとに集い時。己が武勇を示す時。


「これは、正義の為の戦いである! これは、今を生きる者達を守る為の戦いである! これは、日ノ本の未来を切り開く戦いである! ――大義は我らにありっ!!! 」


『オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オッッ!! 』


 快哉を上げよ。刮目せよ。


 覇王の出陣である。



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