第302話
戦場は、混沌と化していた。
「織田信雄を捕らえろ!! 仲間を捨て石にして逃げ出すような痴れ者を決して許すな!! 」
「敵兵を食い止めろ! 決して、殿の下へ行かせてはならん! 」
「邪魔をするな! あんな奴を庇って死ぬ気か! お前達を見殺しにしたのだぞ!? 」
「目を覚ませ、こんの馬鹿野郎がぁ!! あんな奴の為に死ぬ気か!? 」
「……あぁ、本当に尾張守様は我らを見捨てたのか」
「無念……っ」
「――っ、流言に騙されるな! 今、武器を投げ捨てて何になる? あっという間に殺されるだけだぞ! 一度矛を交えた以上、最早戦うしか道はないのだ! 戦え、戦えぇぇぇえええっ!! 」
「逃げんじゃねぇぇぇぇえええ!! 織田信雄ぉぉぉぉおおおおおおっっ!!! 」
怒号が飛び交い、鮮血が大地を穢す。つい一時間程前まで膠着状態だった北の戦線は、総大将である織田信雄が敵前逃亡を図ったことを切っ掛けに、その拮抗はあっという間に崩れ落ちた。
隠し通せる筈がないのだ。総大将が逃げ出したなどという大事件を。
家臣達も、慌てて混乱を収めようとするも、新五郎の凄まじい剣幕に圧倒されてしまう。せめて、言葉で兵士達の退路を断ち、もう戦うしかないと奮起させようとしたが、それに被せるように発せられた怒号によって掻き消された。
最早、この流れを止められる者はいない。
「太郎! そのまま、十秒足止めしろ! 二郎は、部隊を率いて左へ向かえ! 盾を並べて即席の壁となれ! 」
新五郎の指揮が冴え渡る。少しずつ、少しずつ着実に兵士の壁を削っているようで、その実、それと並行しながら間者を忍び込ませる隙間を作っていた。
「――っ! 良し、行けっ!! 」
『御意』
新五郎の号令を合図に、黒い影が地を縫うように戦場を駆け抜ける。その姿を、誰も視認することは出来ない。ただただ、そこには残像が残るのみ。
彼らの使命はただ一つ、敵兵の戦意を挫くこと。
この大混戦の最中、一々味方全員の顔を確認したりはしない。覚えている奴もいない。掲げる旗と格好。それで、敵味方を判断するのだ。
……そして、戦い敗れた者の装備品は戦場の至る所に落ちている。その鎧を身に付け、敵の旗を掲げ、身分を偽って敵軍の内側に入る込むことは戦の常套手段である。
「おい! 尾張の殿様は、本当に逃げ出したみてぇだぞ!! 誰も、あの御方の姿を見てねぇって!! 」
「――っ!? や、やはり、その噂は誠だったのか」
「こんな時に総大将が逃げ出すなんて……」
「……んじゃあ、あの話も本当なんじゃねぇのか? 近江の若様が最前線に現れたってやつ。その場で殿様を断罪して、すげぇ騒ぎになってたって話だ」
「にわかには信じられんが……尾張守様の行動を見る限り、その噂は誠だったのじゃろう」
「……やはり、こちら側に大義は無い……のだな」
「……ならよ。俺達は、なんの為に戦ってんだよ」
『…………』
一人、また一人と戦意を喪失させていく。力無く頭を垂れ、返り血に染まった己が両手を視界に入れた途端、彼らは一様に地面に崩れ落ちた。その表情は絶望一色に染まっていた。
……さもありなん。
彼らは、理解してしまった。織田信雄は謀反人であり、それに組みする我らも悪なのだということを。自分達が、誰に弓を引いたのかを。誰を殺してしまったのかを。
騙されていた。
そんなつもりではなかった。
仕方がなかったんだ。
……そんな戯れ言など、口にすることすら赦されない。己が手を掛けた者達は、もう二度と戻らないのだから。
「……もう、終わりにしよう」
その言葉を最後に彼らは軍勢の波に飲み込まれ、二度と立ち上がることはなかった。もう一度立ち上がる気力はなかったのだ。
信雄が逃げ、それを追いかける新五郎軍とその行く手を阻む信雄の家臣達が衝突したことにより、大乱戦へと陥った北の戦線。
幸か不幸か、信雄は地を這いつくばりながらも軍勢の中へ紛れ込むことに成功。奇跡的に死角に潜り込めたが故に新五郎に見つかることはなく、所々踏みつけられながらも致命傷を負うこともなく、そのまま新五郎が放つ殺気から逃げるように軍勢の中を移動していく。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ、嫌だ……いや……だ。し、死にとうないっ、こんな……ところで、死にとうない……っ」
視界は半分暗闇に閉ざされ、虫にように泥に塗れながら這いずり回り、決死の思いでその場を脱する。ただただ、死にたくないという本能の赴くままに。
だが、神は織田信雄がこのまま逃げ延びることを良しとしなかったのだろう。
信雄は、軍勢に揉まれるうちに方向感覚が完全に狂わされ、いつしか西へ向けて進み始めていた。
その先に、何が待っているかも知らずに。
そして、遂にあの男が西の戦場へ降臨した。
***
西の戦場。
じわりじわりと、包囲網を狭めながら押し寄せる酒井軍を前に苦戦を強いられる森軍。最早、死に体。懸命に足掻いているものの、それは僅かに時間を稼いでいるだけに過ぎなかった。
「……無念だっ! 」
歯を食いしばる。力丸は、何とかこの状況を打開せんと指揮を振るっていたものの、酒井忠次はその全てを最善手で対応して封殺。まるで、最初から力丸がこうすると分かっているかのような捌きであった。
そう、全ては彼の手のひらの上。
「終わりだ。殿に歯向かう愚か者共よ」
不敵に笑う酒井忠次。既に、策は全て仕掛け終わった。事は、順調に進んでいる。兵力差は歴然。可児才蔵も封殺出来ている。最早、森軍にこの罠を食い破る力も気力もない。その瞳には、終局図とそこへ至る道筋がハッキリと見えていた。
――この瞬間までは。
「最早、これしかあるまいか」
力丸は、覚悟を決めたように目を見開く。彼の頭に、諦めの二文字はない。
父 森可成は、宇佐山城を護る為にたった数百の兵士を率いて、数万を超える浅井・朝倉連合軍と戦った。そして、己が命と引き換えに宇佐山城を守り通してみせた。
兄 森蘭丸は、主君を逃がす時間を稼ぐ為に、自ら腹を斬ってその死を偽装し、仲間へ後を託して紅蓮の中へ沈んだ。それが、己の最後のお勤めだと。
二人共、最後まで諦めずに足掻いてみせた。
「なら、俺が諦める訳にはいかんだろう!! 」
玉砕覚悟の突撃。己を一本の槍と化し、ただひたすらに酒井忠次の首だけを目指す。
(せめて一矢報いてから、皆の役に立ってから死ね! )
そう、己を奮い立たせて全軍に号令をかけようとした――刹那、それは唐突に現れた。
それを、最初に発見したのは周囲を警戒していた一般兵。
「――っ!? な、なんだ……あれはっ!? 」
長良川の方向から、一目散にこちらへ押し寄せてきている集団に気付いた兵士は、慌てて武将の下へひた走る。その数、約七百。当然、その話は直ぐに力丸の耳に入り、森軍は慌てて陣形を切り替えた。酒井忠次が放った伏兵だと思ったからだ。
しかし、それは違った。どんどん勢いを増す謎の集団。その先陣を切る一人の騎兵の姿を見た瞬間、力丸はカッと胸が熱くなり、ボロボロと涙を零した。
「り、力丸様? 如何なされました!? 」
「ば、馬鹿者! 何故、分からぬ!? あの御方は、あの御方は……っ」
(あぁ、そうだ。忘れる筈がない。父を亡くした我ら兄弟を、まるで自らの子供のように迎え入れて下さった日のことを。小姓として仕えた日々を。凛々しく政務に励まれる御姿を。筋が良いと、鍛錬に励む俺に声を掛けてくださった日を。……忘れる、筈がないっ! )
呆気にとられている周囲を置き去りに、力丸は軍勢を掻き分けて最後尾へ走った。そして、まるで力丸を待っていたかのように、森軍の直ぐ傍で立ち止まっていた騎兵の前に躍り出ると、深々と頭を下げて主君を出迎えた。
ずっと、待ち望んでいた主君を。
「う、上様……っ。良くぞ、良くぞお戻りに……っ! 」
『!!? 』
力丸の言葉に、様子を伺っていた者達は一様に目を見開いて頭を垂れる。力丸が、上様と仰ぐ人物などこの世に一人しかいない。
織田信長、その人である。
「すまない。遅くなってしまったな。……だが、良くここまで持ち堪えてくれた。後は、全て余に任せよ」
『ははっ!! 』
信長の言葉に、一同声を合わせて応える。
危機的状況なのは、依然として変わらない。だが、それでも織田信長ならば何とか出来るのではないか。そんな、確信にも似た感情が心を満たす。活力が、身体の芯から湧き上がる。
「さぁ、行こうか。全てを終わらせに」
『おおおおおおおおおッッ!!! 』
戦場全体を揺らす雄叫び。
今、第六天魔王が完全に復活した。
「良いか、お前達。織田信長が復活したと、戦場を駆け抜けながら騒ぎ立てろ。全ての者達に聞こえるように」
『御意』
そして、真田昌幸によって信長復活の一報が、戦場を駆け巡ることになる。当然、それは三法師と家康の耳へ届くことになる。
流れが、変わった。
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