第201話

 天正十一年 九月 紀伊国 高野山 真田信繁






 待ち望んでいた報告に浮き足立ちながら、案内役を務めてくれる部下の後に続いて山道を行く。心做しか足が軽い。山道を全力で駆け、あれ程最前線で大立ち回りをしていたのに、不思議と疲れなんて一切感じなかった。


 現場の指揮は、斎藤殿が快く引き継いで下さった。油断は禁物とは言え、戦う気も無い相手に負ける道理は無い。あそこから挽回なんて無理な話だ。ろくに戦う準備もしておらず、ましてや戦う気力も体力も残っていない僧侶が、完全武装した武士に勝てる訳が無い。日々鍛錬に明け暮れている武士を侮り過ぎだ。


 ……まぁ、僧兵の存在だけが不安要素ではあったのだが、彼等の姿は影も形も無かった。きっと、位の高い僧侶と共に逃げ出したのだろう。嫌でも想像がつく。


 全く、危険な火消しを他の人に任せて、自分だけ安全な場所へ避難するなんて最低な奴らだ。仏の道を学ぶ前に人の道を学び直した方が良いだろう。うん。






 心の中で悪態をついていると、不意にこちらを伺うような視線を前方から感じた。そう言えば、先程も何やら言い淀んでいたような……。


 そんな疑問が浮かぶものの、視線が逸れると同時に消え去っていった。悪意は感じられ無かったし、何よりそんな些細なこと気にしていられなかった。


 この先に、私が追い求めていた答えがある。初めて、家の利や同情からでは無く、ただ一心に救いたいと思えた童がいる。私自身、自分の思いに戸惑っている。初めて抱いた感情。その名も分からない。家の事が第一、家を存続させる事こそが武士の本懐。それが常識だったから。


 故に、誰かの為に命をかける志がとても美しく思えた。事実、赤鬼隊の同期は深く考えずに、その輝かしい理想を共に追いたいと願って志願した者もいた。


 しかし、私は理解したかった。あの御方と同じ景色を見たかった。そこに、私が追い求めた答えがあると確信していたから――






 この思いに名を付けたかった。あの童を心から救いたいと願った。その身体を抱き締めたかった。絶望しか知らぬ瞳に希望を灯したかった。


 そんな私を待っていたのは、目を背けていた現実。


「……真田殿、こちらが攫われた者達を見付けた小屋にございます。少々立て込んでおりますが、事態が事態故に御了承下さいませ」


 深々と頭を下げてから横に捌ける部下。その身体の向こう側には、酷く汚れた小屋が建っていた。もう、何十年も放置されていたような外観。今にも倒壊しそうな小屋を、忙しなく行き来する兵士達。良く見てみれば、私が連れて来た衛生兵だった。彼等が向かう先には、何処からか持ってきたのか一枚の板と、そこに横たわる変わり果てた人々。


「そんな…………っ」


 最悪の想像が脳裏を駆けた。






 ***






 失念していた。浮かれていた。


 足元が崩れ落ちるような感覚。ふらふらと足元悪く前へと進む。そんな状態では、当然の事ながら転倒する――直前、案内役を務めてくれた部下が身体を支えてくれた。


「……真田殿、どうか御無理は為さらぬように。少し、ここから離れて呼吸を落ち着かせましょう」


 労るような眼差しが向けられる。しかし、私は小さく首を振って前を向いた。


「……いや、大丈夫だ。このまま進もう」


 冷や汗を流しながらも、視線は前から逸らさない。


「しかしっ」


 声を荒らげる部下。それが私を労る優しさから来ているモノだと察しながらも、彼と視線を合わせて我儘を通す。


「頼む」


「…………承知致しました」


 短くも確かな決意を感じ取ったのか、彼は深く溜め息をつくと私に肩を貸しながら前へと足を進める。ゆっくりと、ゆっくりと。一歩一歩を噛み締めるように進む。






 そして、私はその場所へ辿り着いた。


『真田様っ!? 』


 私がこの場所へ来ると思わなかったのか、慌ただしく平伏する衛生兵達。私は、ふらつく身体を堪えながらソレを制した。


「そんなに畏まらないで欲しい。私は、そなた等の同僚であり上司では無い。あくまでも、私は殿からそなた等を借り受けているのだ。故に、そのように平伏する必要は無い。それに……こうも畏まれては、私の方が困ってしまうよ」


『は、ははっ』


 困り顔で言うと、衛生兵達も眉を下げながら立ち上がった。どうも口調が固く感じるが、今はそれ以上に確かめなくてはいけない事がある。


 私は、ゆっくりと視線を落とす。


 そこに横たわっていたのは、かろうじて女性だと分かる遺体。顔は原型を留めておらず、頬は爛れ髪や歯が抜けている。変形した四肢は黒く澱んでおり、左腕は肘から先が無かった。


「…………っ! 」


 あまりにも無惨なその姿に、自然と歯を噛み締めていた。彼女だけでは無い。小屋の周りには、同じような光景が幾つも広がっていた。


 誰もが口を閉ざす中、私は静かに彼女の横へ座り込む。


「……身元は、特定出来たのか? 」


「…………いえ、残念ながら」


「…………そうか」


 無念そうに首を振る衛生兵を横目に、私は彼女の顔へ視線を向ける。この娘は、一体何をしたと言うのか。ただ、慎ましく日々を生きる事すら許され無い罪を犯したのか。絶望に染まりながら死なねばならない運命だったのか。


「それでは、あまりにも報われないでは無いか」


 私は、開いていた彼女の瞼を優しく閉じて呟く。俯く地面には、絶え間無く降り注ぐ雫で、しっとりと湿っていた。






 正直、この時の私は諦めかけていた。あの童は、もう死んでしまったのだ……と。


 全員を確認した訳では無くとも、此処に並べられた遺体と、あの夜に童から聞いた囚われた者達の数が殆ど同じだったから。


 考えたくは無いが、多少の人数の変動があったと考えても誤差の範囲。ひとたび遺体の身元を確認すれば、そこにあの童の姿が鮮明に思い浮かべてしまっていた。






 ――故に、その言葉は暗く沈んだ心に一筋の光を差し込んだ。






「……小屋に居た者達は、これで全てだろうか? 生存者はいなかったか? 」


 藁にもすがる思いで衛生兵に問う。すると、衛生兵は顔を伏せながら口を開いた。


「一人だけ……ですが、生きていた子がおりました。ですが、余程恐ろしい体験をしたのか、能面のような表情を浮かべながら口を閉ざしておりまして。あのような幼い子が……誠に、心苦しい事にございますっ」


「……何だと? 」


 信じ難い言葉に、勢い良く立ち上がって詰め寄る。衛生兵は、そんな私の行動に驚いたように目を見開いていたが、それに構わず衛生兵の肩を強く握り締めた。


「その童の特徴は!? 何処にいる!? 」


「は、はい。歳はおそらく十にも満たない幼子で、黒髪は肩まで乱雑に伸びており、ろくに食事を与えられなかったのか痩せ細った身体をしております。傷の見えない箇所は無く、常日頃から暴力を振るわれていたのかと。現在は、あちらの物陰にて汚れを落としております」


「……っ! 」


 衛生兵が指差す方向へ、ふらふらと歩み寄っていく。先程告げられた内容は、私が知る童の特徴と一致していた。勿論、他人の空似かも知れないが、それでも足を止める事は無かった。






 ***






 段々と近付いていく内に、少し声が聞こえてきた。きっと、衛生兵の一人が、この先に流れている小川で身体を拭いてあげているのだろう。


 少し躊躇い立ち止まる。心臓の音だけが嫌に耳に残る。右手が幾度も宙をかいた。一度、深呼吸をして気を整えると、意を決して茂みを横切った。






 そこには、小さな童の一所懸命に身体を拭いている女と、虚空を眺める能面のような幼子がいた。私に気付いた女が慌てて平伏すると、それに釣られるように幼子がこちらを向く。


 その何も通さない真っ黒な瞳は、まさにあの夜出会った童そっくり。私は、ゆっくりと傍に腰を下ろすと、震える手を幼子の頬へ添えた。


「…………私が、誰か分かるか? 」


 恐る恐る尋ねる。すると、幼子は小さく頷いた。


「はい。お久しぶりでございます。鈴木源二郎幸村様」


「…………あ、あぁ」


 その名は、その名は私が高野山へ訪れた時に名乗っていた偽名。その名を知る者は、極々限られている。少なくとも、このような幼子でその名を知る者は、あの夜に出会った童ただ一人。


「ぁああ……あぁぁあああぁぁぁっ!! 」


 涙を流しながら童を抱き締める。ほのかに伝わる熱が、これが嘘では無いと私に知らせる。小さく、今にも消えてしまいそうな焔は、確かに私の胸の中にあるのだ。


「あぁ……生きていて良かった。童だけでも救えてよかった。……ありがとう。本当に……ありがとう。……ありがとうっ」


 何度も何度も『ありがとう』を繰り返す。本当は、もっと色々言いたい事があった。謝りたかった。あの夜、置き去りにしてしまった事を謝りたかった。しかし、『ありがとう』しか出て来なかった。小さな手で縋り付くその姿を見ていると、どうしても『ごめん』では無く『ありがとう』が出てきてしまう。


 だから、私はいつまでも『ありがとう』を言い続ける。この温もりが消えてしまわないように。

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