伍、 襲撃 2

「もうっ! なんでこうなるのよ! あたしは早く帰りたいのに!」

 地団駄を踏んで叫ぶのはアオ。所はマンション最上階、月見里の部屋、そのリビング。一度この場所から帰ろうとしたアオと俺は、ものの見事にとんぼ返りを果たしていた。

 もちろん、あんな降って湧いた天災のような襲撃に遭って、じゃあ運良く生き延びたんでこれにてさよなら、とはならない。戦いの果てに雨水泥水に塗れて気力体力からっきしになったあとでは、再び月見里の厚意を賜る他に選択肢がなかった。

 俺は風呂と着替えを借り、アオは風呂だけを借りた。着慣れた自分の着物しか着ないとわがままを言ったアオのために洗濯乾燥機が使われた。

 ちなみに負傷し気絶していた哀れな天兎の部下二人――いつしか兎姿になっていた二匹は、月見里たち地兎が別の場所で匿い、手当てをするらしい。

 日が昇った翌日は月曜だったが、当然、学校は欠席。

 各々身なりを整え、短い休息ののち、午後になって月見里の部屋のリビングに集まった。卓上にはささやかな昼食として、数枚の皿にサンドイッチが並べられている。食べ物を目にして空腹を思い出した俺が、立ったままそれに手をつけようとすると、アオにペシッと叩かれた。

「いってーなおい!」

「何言ってんの。ちょっとは警戒とかないわけ? 真っ先に食べようとしてんじゃないわよ!」

 そんなアオを、あくまで落ち着いた様子で制すのは月見里だ。

「こちらに敵意はありません。アオさん、どうぞお座りください」

「どうして座る必要があるのよ」

「私の記憶によれば、昨夜のお話は、まだ途中であったかと」

 非常に礼儀正しく言いながら、彼女はさらに、杏朱の手から大皿をもう一つ受け取る。

「それからこちらもお召し上がりください。ここの屋上で、月光をよく浴びて育った花々です」

 そこには、摘まれてからおそらく何の加工もされていない、数種の白い花びらがあった。

 俺は屋上庭園での光景を思い出す。八種ほど植えられていた夜咲きの白い花たち。闇の中で微光に映える様は十分に観賞用として耐えうるものだが、まさか食用だったとは。確かにああして屋外で月光に照らされ、丁寧に育てられたのならば、アオや月見里たち兎にとっては、この上ないユエの補給源かもしれない。

 アオは細い指でうち一枚を摘み上げ、訝しげな顔で睨んだ。表裏を何度か注意深く眺め、やがて慎重に口へと運ぶ。シャクっと一、二度の咀嚼……のち。

「ふんっ。まあ、家にあるお酒の方が美味しいけど、一応もらっとくわ」

 どうやらある程度はお気に召したらしい。すぐに数枚をぺろりと平らげ、それで気を良くしたのか、すとんとソファに腰を落とした。

 次に月見里は俺へと向き直る。

「宮東さんも、よろしければいかがですか? あなたは、人間でありながらユエを使うことができると聞いています。驚くべきことですが、もしそうであるならば、ユエの補給でいくらか身体の回復が早まるかもしれません」

「あ、ああ」

 勧められるままに、俺も一枚。しかしあいにく、顔が歪んだ。口の中は想像通りの花の味だ。率直に言って不味い。

 ただ、ユエと聞いて俺の手には、先の襲撃で自身のユエを斬撃に乗せたあの感覚が蘇った。これまではせいぜい指先に灯すくらいだったのに、あんなことができるようになっていたなんて自分でも驚きだ。まあ、もう一度やれと言われても自信はないので、ちゃんと実用するには、機を見てまたアオに教えてもらう必要があるだろうが……。

 いや、だとするなら、この花も少しは足しになったりするのだろうか。

 悩んだ末、俺はさらに数枚を口に詰め込んでから、アオの方へと皿を動かしておいた。

「そうよ。話が途中だったかは忘れたけど、ユエで思い出したわ」アオは長く白い脚を組み替えながら、唐突に尋ねる。「あんた、紅音っていったわよね。結局のところ何者なの。なんであんなにたくさんのユエが使えるのよ」

 そして、それについては俺もずっと気になっていた。何しろ先の襲撃は、月見里の問答無用の一撃を最後に幕を下ろしたのだ。忘れるにはあまりにインパクトが強すぎる光景。彼女は普通の地兎ではないと、俺でさえなんとなく感じ取っている。

 アオに言わせれば、月見里が『指輪』を使ったとき、あれほど大きな水弾を平然と放ってみせたのは、その身に膨大なユエを宿していなければできないことらしい。しかし通常、地兎の宿すユエはごくわずかとされている。月見里に関して辻褄が合わない。

 月見里は目を閉じると居住まいを正し、あらかじめ用意していたかのように静かに答えた。

「私が多くのユエを持っているのは……お母様のユエを継いだからです。アオさん、例えばあなたがお母様の容姿とお父様のユエを継いだのであれば、私がお父様の容姿とお母様のユエを継いでいても、なんらおかしなことはないかと」

 それを聞いてオアは言葉に詰まり、そして俺は息を呑んだ。固まった俺たちに月見里は続ける。「ここから先は私事ですが、聞いてください」と。

「千二百年前、私はこの地で、天兎であるお母様と、地兎であるお父様の子として生まれました。そのときの名は、紅眼比売(クレナヰノマナコノヒメ)。地兎として黒い容姿でありながら、不自然に多くのユエを持って生まれたことで、最初は周囲から極めて阻害され、また忌避されました」

 千二百年前といえば平安の世だ。いつの時代も、人も兎も、はみ出し者の肩身は狭いらしい。

「そんな私を、お父様が守ってくれました。お父様は、その土地では非常に影響力を持つ地兎でした。人間に紛れて地位を得て、立場を生かし、個々で細々と生きていた地兎が集団や組織の単位で暮らしやすいよう、その地盤を作ったのです。そうするうちにだんだん、天兎の教えは間違っているのだと、地兎の皆が信じてくれるようになりました」

 天兎の教えは間違っている。月見里はそう、なんでもないことのようにさらりと述べた。

「私という存在がいたからです」

 俺から見る限り、アオはさすがに無反応ではいられなかったようだが、しかし同時に、言葉も出ないようだった。

 確かにその通り。月見里はまさしく、天兎の教えの反例だ。

 そしてそれは、見方によってはアオも――教えの摂理に反しているというアオも同様。天兎として白い容姿でありながら、ユエの少ないアオ。地兎として黒い容姿でありながら、ユエの多い月見里。ベクトルは真逆だが、両者ともに、意味するところは同じなのだ。

 例えば一つの学説、教義、定理――なんらかの主張があったとして、目の前にそれと相反する事実が現れたとき、どちらが正でどちらが偽が。本来は考えるまでもない。事実を否定することはできない。現実を否定することはできない。だから間違っているのは、主張の方だ。

 月見里は、目を見開いて黙すアオと俺を順に見据え「いいですか」と念を押すように言った。

「あのような教えは嘘八百。大昔、空腹の人間に扮した神様に自らその身を捧げたという兎が、たまたま白兎だったというだけなのです。あのような捻じ曲がった教えがあるから、白兎と黒兎の住む場所が分かれてしまった。そのせいで『白い容姿』と『豊富なユエ』という二つの遺伝性が重なってしまった。それだけの話なのです。地兎や天兎という呼び方はただの後付け。本来は二者に差などない。ですから、私は申し上げたのです。あなたはもちろん私も、そしてこの地上に生きる地兎と呼ばれた黒兎たちも皆、劣等種などでは、ないのだと」

 月見里はあくまで落ち着いた様子で話す。しかし、その語りに込められた想いを推し量るには十分な、深い声音だ。彼女たちの、兎たちの事情は、俺にはわからない。でも、月見里の瞳は真実を語っていると、少なくとも俺は信じることができた。

 一方、アオは不承不承といった様子で、それでも、口からは肯定の言葉が出た。

「あんたの話……嘘とは、思わないわ。でもね」テーブルに右手を着いて、身を乗り出しながら問う。「信じるには一つだけ、どうしても説明してもらわないといけないことがある。紅音、あんたに類い稀なる多くのユエが宿っていることはわかった。だけど、それだけでこの地上に千二百年間、生きているとは言わせないわよ。どういうこと?」

 いつだかアオは言っていた。天兎は、月に住む場合に限って、ほとんど永遠に生きることができる。逆に月の光の乏しい地上では、せいぜい人間と同じ程度の寿命しかないと。

 もし天兎も地兎も関係なく、皆が同じ兎なのだとしても、月見山が千二百年前に生まれて、ずっと今日まで地上で生きている理由は謎のままだ。

 月見里は答えた。「私は一度、眠りました」と。彼女の様子を見るに、きっとこれも、想定内の質問なのだろう。

「お父様はこの地上で、兎の世界を変えるために、できる限りのことをしました。けれどいくら事を急いでも、全てを生きているうちに成すのは難しい。ですからお父様は、いっそゆっくりと着実に、世代を跨いで準備をできるようにしたのです。遠い遠い未来の、革命の準備を」

 ――革命。

 その毅然とした語気に、俺は月見里の意志の強さを垣間見る。

「お父様は言いました。私という存在が、革命のその瞬間にこそ、必要となる。私は兎の世界を変える鍵なのだと。その言葉を信じ、私は十二を迎えたとき、仮死状態となって眠りました」

「仮死? そんなこと、どうやって」

「お母様の残した不死の薬で」

「不死の薬……」

 俺の呟きにアオが続く。「それ、紫苑の先祖が飲んだっていうあれね」と。

 記憶によれば、それは不死の薬といいつつ、実際にはある果実から作られたという、ユエを与える薬だったはずだ。ユエを与えることで寿命が伸びるかもしれない、みたいな……そんな程度の話だった。仮死状態なんて、そんなことができる代物なのだろうか。

 いまいち納得できていない俺を見て、月見里は続けた。

「不死の薬は、本来、劇薬。多量の摂取は、到底身体が耐えられません。服用者がもともと持っているよりも極端に多くのユエを得ようとすると、供給過多で害となる。ですが逆に言えば、量さえ摂れば名前の通りの効果もしっかり得られる。そういうものです。多量かつ致死量未満を摂取することで到達する仮死状態。それは事実上の不老不死とも言える」

「不死って……そういう意味かよ」

「私が再び目覚めたのは、今から五年前。知らぬうちに私は地兎の中で、革命の象徴などというものになっていました。それを広めたのがお父様かどうかはわかりませんが……もしそうであるならば、いささか過ぎた親馬鹿ですね」

 月見里は表情に、クスッと少しだけ笑顔を浮かべる。

「とにかくあまりの変わりように驚いたものですが、同時に、時代の変わりようにも驚きました。この地上で生きるには、兎にも角にも人間に紛れなければいけません。拠点は元あった土地からこの街へ移ったと聞き、言葉遣いや生活などについては、一から教えて頂きました。さらに学生を装うのであれば勉学も必要です。それらを含め、丁寧に私の世話をしてくれた杏朱には感謝しています。月見里紅音という今の名前も、杏朱が考えてくれたものです」

 そして月見里はこう言って語りを締めた。

「以上が、私のこれまでの千二百年の生涯です――とはいえ、ほとんどは死んでいたのですが」

 それはささやかな冗談だったのかもしれないが、とても素直に笑えるようなものではなかった。スケールが大きすぎて、ついていくだけでも精一杯だ。

 アオもくすりともせず、真剣な表情で何かを考えていたようだが、やがて言った。

「革命のために薬で眠って、千二百年の時を超える……か。まあ、信憑性は辛うじて。一応のところ矛盾はない。もし本当なら、ほとんど狂気の沙汰だけどね」

「ええ、もちろん本当です。そうでもしなければ成し遂げられることではありませんし、無論、私たちは本気です」

「そうね。きっと母さんも本気だった……自分の命をなげうつほどに」

 アオはそう零すと、少しだけ目を細めた。呼応するように、月見里も同じような表情をする。

「あなたからお母様のことを聞いたときは、胸が張り裂けそうなほど悲しく、けれど同時に、嬉しくもありました。お母様が、私と同じ世界で生きるために必死だったということですから」

 こうして見ると二人は似ている。よく、似ている。

「昔に比べ、さらに見違えるほど仲間も増えました。この街だけでなく、他の様々な場所にいる地兎とも、いくらかの連携が取れています。お父様とお母様の願いは、地兎が月で生きられる世界は……今はもう、私にとって使命も同義。そしてこれまでに生きてきた多くの地兎の、千二百年越しの希望です」

 月見里はそこで改めて息を吸い、今度はアオを、しかと正視する。

「アオさん。どうか私たちに、協力して頂けないでしょうか。先刻、天兎の方々と戦ったということは、もう月へ帰ることはないと、そういうおつもりでいるのでは?」

 アオは一瞬、戸惑いを見せる。けれどもすぐにそれを隠して答えた。

「……協力って、あんたたちの革命の準備とやらに?」

「準備は、もうほとんど終わっています。ここ最近では、地上に来る天兎たちから情報や宝具を奪えることもあるくらいです。もちろん、先刻の戦いからも、いくらか」

 月見里は「よろしければどうぞ」と告げながら、視線で杏朱を呼び寄せる。杏朱がテーブルに並べたのは、二枚の手鏡と一つの指輪だ。先の襲撃で天兎の連中が持っていた宝具だろう。

 思わぬ具体的な物品の提示に、アオはやや警戒の色を強めた。

「……これを受け取ったら、協力の要請に承諾したってことになるのかしら?」

「いいえ。これは純粋に、戦果の分配です」

 落ち着き払った月見里の答えに、なるほどと思う。そうだ、これは正確に分配なのだ。先の襲撃を経て地兎たちが得た手鏡の数は知らないが、少なくとも指輪は全部で三つあったはず。でも今、指輪はここに一つのみ。並べられたのは、アオに提供できる分の戦果ということだ。

「あっそ。じゃあこっちだけもらうわ」

 アオはいささか乱暴に手鏡の方だけを掴み取り、対して月見里は、意外そうな顔を見せた。

「何よ」

「いえ、思っていたよりも寡欲でしたので」

「ふんっ! もともと寡欲よ、失礼ね。だいいち、そっちはあたしじゃあ上手く使えないの。だからいらない。それだけよ」

 アオはふてくされたように二枚の手鏡を袖にしまうと、右手で頬杖をついて尋ねた。

「で? 準備が終わってるなら、あたしに何を手伝えってのよ」

 テーブルの指輪を丁寧に回収した月見里が答える。「戦力です」と。

「本当は真っ先に私が月へ出向いて『地兎でも多くのユエを持つ兎がいる。天兎の教えは間違っている』ということを示せたらよいのですが、そう上手くいく保証はありません。あちらから抵抗を受け、戦うことになった場合、戦力はあるに越したことはないと考えています」

「はぁ!? 待って、戦う? わざわざ月へ出向いて天兎と? 正気?」

 驚いたアオがソファから飛ぶように立ち上がる。

「あんた、何度か地上で天兎を相手にしてるって言ったわね。数匹の天兎相手に上手いことやって得意になって、だからそんなことが言えるのかしら。あんたたちユエの少ない地兎が、ユエの多い天兎とやり合う? しかも月で? そんなのは到底不可能よ。その差は、どれほど頭数と武器を並べても、覆るようなものじゃない。仮にあたし一匹が加わったとして、それでどうなるって言うの。揃って無駄死にがいいとこよ」

「ですが、何もしなければいつまでもこのままです。多くの地兎が望んでいるのです。月で生きることを。そして私も望んでいます。お母様と一緒に生きられる世界を」

「でももう母さんはいないわ」

「それでもっ!」

 月見里は唐突に、アオの言葉尻に重ねるようにして声を張った。

「それでも、私とお母様が一緒にいること、いられたかもしれなかったこと、それが許される世界にしたいのです。私の生きる世界は、お母様の生きた世界と、同じであってほしいのです」

 月見里の声音は静かで、しかしながら、そこには隠しきれない切実さが滲んでいた。揺れる紅い瞳が、強く強く、アオを見つめている。

「もちろん、あなたも。私が姉として、妹であるあなたと一緒に生きたいと言っても、おかしくはないはずです。天兎も地兎も、ともにいられる世界がほしい。どうしても、です」

 その言葉を耳にしたとき、アオの蒼い瞳がはっと見開かれた。まるで雷に打たれたように固まって、直後、苦い顔で眉根を寄せる。

「姉として……? そんな……そんな建前はどうでもいいわよ」

 下を向いて目蓋を伏せ、アオは呟く。冷たいその瞳の奥で、何かを思い出しているとわかる。

「あんたは……母さんと同じ目をしてる。それに……」

 苦しそうな表情のまま、アオは俺を見た。

「……な、なんだよ?」

 しかしアオは、尋ねる俺を露骨に無視して、溜息と同時に肩を落とした。

「どうしても……か。本当、似てるわね。誰も彼も、似た者同士の愚か者よ……」

 そして数秒、ただ黙し、下を向いたままアオは問う。

「……ねぇ、このままの何が悪いの? 今、決して幸福ではなくても、慎ましく穏やかにこの地上で暮らすことの、どこに不満があるっていうの? より大きな幸福の追求は、小さな日常を不幸にするわ。どうせ何を手に入れたって満たされなんてしないんだから、喘ぎ苦しんで多くの犠牲を払い、そうまでして手にするものに、いったい何の価値があるのよ」

 淡々とした、アオの口調。

 月見里は、それと対極にあるような、熱のこもった声ではっきりと告げた。

「地兎も天兎も、そしてきっと人間も、生きる限り何を手にするか、何を失うかわからない明日を迎え続けることになる。いいえ、そういう不確定な明日を迎え続けること、本来はそれこそを、生きると呼ぶのです。手にしたいもの、失いたくないもの、そのために戦うことが、生きるということです」

 月見里はアオを見つめ続ける。

「そして、あなたへの答えは簡単です。思い出してください。あなたは数日前、ここまで飛んで来たのではないですか。地兎の巣であるこの場所まで、罠と知りながら、危険を冒し、たった一匹で、あなたの望むもののために……。答えは、それで十分でしょう」

 そのとき再び、下を向いたアオの瞳が大きく揺れた。言葉を返さず、ただぼんやりと足元に視線を投げながら……声にならない想いを口元で紡ぎ続けている。自問している。

 月見里は、もうそれ以上、何も言わなかった。静かにただ、アオを待っていた。

 何秒、何分……いや、体感的には何十分だったかもしれない。いつまでも続くかのような沈黙の果てに、アオは何度目かの溜息をつく。

 俺には、それがどういう溜息なのかわかった気がした。だから訊いた。

「協力……することにしたか?」

 アオは怪訝な顔で俺を見た。

「……はぁ? 何よ。なんでそうなるのよ」

「いや、今のはそういう溜息かと思って」

「なっ……!」

 するとアオの右足がタシッと鳴らす。

「あんた、もしかして他人事だと思ってんの? まさか忘れてないでしょうね、あんたはあたしの飼い主なのよ? もしあたしが協力するってなったら、あんただって同じなんだから!」

「え、俺も!?」

「当たり前じゃない! あんた、あたしのこと一回拾ったんだから、途中でほっぽりだすなんてなしよ! ちゃんと面倒見てくれなきゃ嫌!」

 面倒って……そんなわかりやすく唇をつんとされても。

「でも……飯や洗濯とは訳が違うだろ。俺は月になんて行け――」

「行けるわ!」アオは途端、ずいっとこちらに顔を寄せてくる。「だってあんたは、ユエが使えるもの。あんたに限っては、人間でも月の世界に行くことができるのよ」

 なんと。ユエが使えれば月に? ロケットいらずか。

 さらにアオは、唖然としている俺の首を抱え込んで月見里に背を向けた。声を潜ませつつ、けれどそこに、わずかな悪戯っぽさを滲ませて言う。

「そ、れ、に、さ。そもそもこれは紅音が言い出したことよ。あんただって、協力できるもんならしたいんじゃないの?」

 抱えられたアオの胸の中、俺は考えた。もちろんそう問われれば、悩む理由は、ないはずで。

「そりゃあさ。できるものなら、してやりたいけど……」

「それができるって言ってんじゃない。むしろあんたにとっちゃ朗報よ朗報!」

 詰め寄られるほど苦しくなる首をよそに俺は、もしかしたらアオの言にも一理あるのかもしれない、と思い始める。

 やがて俺が、納得半分、諦め半分で零した「……わかったよ」という言葉を、アオはすかさず拾い上げて前を向いた。

「よし! じゃあ決まり! もう取り消し無効だからね」

 そしてついでのように「しっかしあんたみたいなオスは、こういうときほんと、扱いやすいわ」などと言う。

 対して俺は、解放された首をさすりながらせめてもの反論をしておいた。

「まあ、お前みたいな危なっかしいのを、勝手に行かせるわけにもいかないしな」

「いえ、待ってください!」そこに月見里が慌てて割り込んでくる。「確かにユエが使えれば、月には行けます。ですが、さすがに……お気持ちは大変嬉しいですが、危険すぎます」

「別に、危険はみんなおんなじよ」

「もちろんそうですが、特にです。いくら天兎の教えでは神の代行と言われていても、実際には、宮東さんは、人間なわけですから」

「地兎だってあんた以外はみんな、おまけにユエが使える程度のもんでしょ。人間とさして変わらないわよ」

「だとしても……」

「うるさいわね。あたしに協力させたいんでしょう? あたしは紫苑と一緒がいいの!」

「それでも、これは兎の問題で」

 まとまったと思ったら、何やら月見里とアオがまた揉め始めてしまった。やはりこれは、彼女たち兎の間の話。俺のような人間が関わっては不都合が……ん? 人間?

 喧々囂々たる声飛ぶ一方、しかしふと俺は、そんな疑問を胸に抱いた。

「なあ、あのさ。ちょっと、思ったんだけど……」

 おずおずと切り出す。そしてその疑問は、やがて俺の中で一つの提案という形を成した。

 もちろん俺は、人間だ。でも、その俺が月に行けるのなら……。

 結果、そんな俺の提案は、彼女たちの言い争いをピタリと止めることとなった。困り顔の月見里と意地を張った顔のアオは、どちらも最初はゆっくり、けれどやがてみるみるうちに、そっくりの驚き顔へと変わっていったのだ。

 単なる思いつきの提案が思わぬ方向に功を奏し、彼女たちの向かうべき意外な道筋を示したようである。天兎と地兎、月を巡って争う兎たちにまつわる御伽噺の、その辿る道筋を。

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