モラトリアムの檻
ナナイ
プロローグ
第xx話
「水穂泰樹」
厳かな空気に包まれた体育館に、自分の名前が響いた。
「はい」
意識して声を張り、待機していたステージ左の袖から中央へ向かう。
緊張している。耳に入って来た自分の声は震えていたし、膝も笑っている。
ステージ中央で、腰高の壇を挟んで白髪のめがねをかけた校長先生と向き合う。お辞儀をする。壇上に用意されていた、ちょっとした金色の刺繍が施された紺色のカバーを両手で差し出され、同じく両手で丁寧に受け取った。これが卒業証書だ。
「おめでとう」
そう声を掛けられ、一歩後ろに下がり、証書を片手に持ち替える。体の向きを戻し、ステージ右袖へ。そこにある階段を下りるため、体を九十度回転し、正面に返す。
不意に、体育館全体の景色が飛び込んでくる。整然と並んだ大勢の人が一帯を埋めている。みなパイプ椅子に座っている。周囲に張られている紅白幕が、いつもとは違う特別な雰囲気をつくりだす。
普段はもちろん、寝る前でも起きた直後でも、否応なしに思考が向かってしまうような考え事があっても、今この場は、緊張だけが全身を支配した。手のひらが嫌な感じにぬめり、心臓はバクバクと痛いくらいに脈を打つ。
県立東戸ノ上高校の体育館で行われている卒業式。六百人ほどの全校生徒と、その保護者たち、教師、その人数を合わせると、八百人くらいにはなるだろう。
しかしそんな景色が目に入るのも数秒。僕は式の流れに従い、ステージを下りた。直後に次の生徒の名前が呼ばれる。その生徒は、同じようにステージ中央で卒業証書を丁寧に受け取っているはずだ。
自分の席に戻ると、腰を下ろし、卒業証書を椅子の下に置く。ステージ上では、生徒たちが次々と卒業証書を受け取っていく。
そんな様子を見ているうちに、徐々に緊張は解けていくと同時に、色々な要因が絡みに絡んだ事実が頭に浮かび上がって来る。元々あった思考があらわになっただけとも言える。ここ数日、普段はもちろん、寝る前でも起きた直後でも、そのことばかりに思考が向かっていた。
体育館内には、知っている名前も知らない名前も次々と響いていく。数少ない友人の名前が呼ばれると少なからず気になるが、今はそれよりも、瀬川くんが、今日、学校に来ているかが気になった。
瀬川くんは五組。僕は二組。順番はもう少し先になる。
瀬川竜。
その名前が呼ばれるか否か。ステージ上にその生徒が姿を見せるか見せないか。それを待つ間、ただもどかしく、ここ数日で起きた急な出来事を思い返す行為に、抗うことはできなかった。
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