第2話 ユイが来てくれた
骨髄液の吸引がはじまった。
ズズズッと、内臓を引っ張られるような感覚に襲われる。背中の骨もバキバキに砕かれて、そのまま吸引されそうな気持ち悪さ。
麻酔のおかげで痛みはないが、それを超えたとても不思議な感覚に支配される。まるで魂を吸い取られているようだった。
「はい、終わりました」
処置室に入ってから十分程度で骨髄穿刺が終わった。時間的には短い。あっという間だ。それでもぐったりしていた。
「検査結果はいつ頃、わかりますか?」
僕の問いに、ずんぐりとした医師はチラッと骨髄液を見た。それから看護師さんになにか指示をしている。
「あの……」
もう一度声をかけると、
「今日は家に帰ってもらって、明日は二、三日分の着替えを持ってきてください」
早口な回答が返ってきた。そして僕の顔を見ることなく、ずんぐりとした医師は処置室を出て行った。
「入院ですか?」
背中の止血をしている看護師さんに尋ねた。
「そうですね。早ければ三日、長くても二週間ぐらいの入院になります。今はしばらく安静にしてから、いったんお家に帰りましょう。翌日は十時から診察がありますので、それまでに入院手続きをすませて――」
看護師さんの言葉が耳に入ってこなかった。
抜き取った骨髄液をひと目見ただけで、入院が決まった。これにショックを受けている。
健康な人の骨髄液は濁らない。おそらく僕の骨髄液が濁っていたのだろう。これも智也と同じ。
兄に続いて僕までも……。
家族の悲しむ顔しか思い浮かばなかった。
翌日、入院手続きをすませてから診察室に入ると、ずんぐりとした医師はいなかった。
白髪の老婦人が、難しい顔をして座っている。
血液の病気に詳しい医師らしい。
「水樹さんの症状と検査結果から、白血病の可能性は低いと思われます。ですが……骨髄液に濁りがありますし、よくない病気の可能性も考えられますね」
奥歯にものが挟まったような言い方だ。
さらに詳しい検査が必要とかで、また採血。
CTスキャンや胸部エックス線調査で、他の場所に異常がないかをくまなく調べた。それなのに結果は、骨髄の血液を造る力が弱くなっている。白血球、赤血球、血小板のすべてが減少している。
初期の診断と変わらず、疲労だけが蓄積されていく。病名がハッキリしないので、具体的な治療方法が決まらないことも不安だった。
「病院、かえた方がいいよ」
毎日見舞いに来る香奈恵が、静かに言った。
ずんぐりとした医師よりも、白髪の老婦人の方が親身に話を聞いてくれた。血液の病気に詳しい医師だから、質問にもよく答えてくれる。
看護師さんたちもいい人で、居心地は悪くない。ただ医療設備が古い。もっと大きな病院なら、より詳しい検査ができる。
悩んでいると、ユイが病室に来た。
元気そうなので少しホッとしたが、なぜか怒っている。荒々しい靴音を立てて、かなり激しく怒っている。なぜだ?
一瞬、まだ今川のことで怒っていると思ったが、そうではなかった。
僕の胸ぐらをつかんだ、ユイの小さな手が震えていた。
平塚先生からデタラメなことを聞いたようで、責任を感じている様子だった。僕の胃に穴は開いていないのに……。
その日はゆっくり話す時間がなかった。
ユイが「明日もここに……、いいかな?」と、はにかみながらお願いする姿は、ほほ笑ましかった。香奈恵の陰にちょこんと隠れていたから、母親の後ろからチラッとこっちを見ている子どものようで和んだ。
ところが、翌日もユイは制服姿だった。
エレベーターの前で首を傾げて、なにか考え事をしている。
僕も同じように首を傾げた。
もう夏休みに入っているから、私服姿が見られると思ったのに、また制服だ。
ちょっぴり残念な気持ちになったが、あの制服を見ていると、僕はまた教師に戻れそうな気がしてくる。
荒波がすっと静まり返るような落ち着きを感じていた。
考え込んでいるユイの肩を突くと、これまた面白い反応が返ってきた。
わたわたと慌て顔になって、左右を見回す。それからもう一度、僕をじっと見て「本物だ!」と言いたそうな目をする。
思わず噴き出しそうになるが、くるくる変わる表情は見飽きない。
昨日話せなかった分を、取り戻したい気持ちに駆られた。しかし、病室に戻れば香奈恵がいる。病で苦しむ入院患者も。
そしてここは病院。生と死がとても近い場所。
幸い、死のうとするユイの顔は一度しか見ていなくても、またいつスイッチが入るかわからない。
死、というものからユイを遠ざけたかった。だからユイをコーヒーショップに誘った。
あそこなら病院らしさはない。楽しい時間を過ごせると考えたが、甘かった。
香奈恵が現れて、邪魔された。
まだココアを飲んでいないと、ささやかに抵抗しても白髪の老婦人が呼んでいるなら、行くしかない。
おそらく新たな検査結果が出たのだろう。
それは最悪な結果かもしれない。恐れもある。だが、病名がハッキリして治療がはじまれば、転院する必要もない。
遠くの病院に移ってユイに会えなくなるより、ここで入院していた方がいい気がする。ユイが制服でここに来る理由を、香奈恵がズバッと言い当てたから。
「ユイの奴、また赤点を取ったのか……」
頭が痛い。ため息が出そうだ。
僕は僕なりに頑張ってユイの勉強を見てきた。
いきなりクラスの上位にはなれないけど、必要最低限、赤点を取らない程度に底上げできたと思っていたが……。
明日から勉強道具を持ってこい。そう伝えておけばよかった。そのようなことを考えながら診察室に入ると、いきなり白髪の老婦人が頭を下げた。
「水樹さん、すみませんッ」
医師が患者に頭を下げるなんて、よっぽどのことだ。
漠然とした不安に襲われた。
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