第2話 過去のトラブル
研究家の母は日本を飛び出して帰ってこない。医者の親父とはそりが合わない。
やっとひとり暮らしをはじめても、たった数年で「ここは駅前で大学に通いやすいから」と、香奈恵がやってきて親父からの電話が増えた。
最初はちょっとした医療事務の依頼。
小遣い稼ぎになるから快く引き受けたが、「奏人が医者になってくれたら」からはじまって、「香奈恵はどうしてる?」で、あとはずっと香奈恵の話。
親父は香奈恵のことが心配で、僕に仕事を運んでくる。
自分の娘なのに、わざわざ僕を通さないといけない不器用な人だ。母への不満も僕に押しつけて、愚痴ばかり。そんな親父の盾になるのが嫌で家を出たんだけどなぁ……。
まあ香奈恵の生活費として、なにかと資金援助してくれるのはありがたい。それなのにユイには「大人には大人の考え方がある」なんて偉そうに言って。
――水樹はいい先生だよ。
ふと必死になって慰めようとする、ユイの姿を思い出した。
いい先生は、叱られたことを生徒のせいにしないし、愚痴なんてこぼさないんだよ。
クビになるかも、なんて情けないことも言わない。
責任感の強いユイのことだから、僕の言葉を気にしているかもしれない。
悪いことしたなぁ。
『奏人、聞いてるのか?』
野太い親父の声にハッとした。
「聞いてます。今日は疲れてるのでまた……」
最近疲れやすくて、長時間立っていられない。
ふぅと肩で息をして、椅子に腰かけた。
「ねえ、やっぱりなにかあったでしょう」
香奈恵が心配半分、好奇心半分な顔で聞いてきた。
適当に誤魔化そうとしたが、じっと僕を見据える香奈恵の目は、小さなウソひとつ逃すまいと真剣だ。
「少し前に、生徒が突き飛ばされるところを見たんだ。助けに入ったら、翌日からクレームの嵐で、今日なんか」
「女子生徒を助けたの?」
ムッとした声に話が途切れた。
「今まで女子生徒に関わっていいことあった?」
「目の前でいじめがあったら、見逃せないだろ」
「大学の近くで、
「…………」
鋭利な刃物のように、鋭く突き刺さる言葉。
今川は、おとなしくて真面目な生徒だった。長い髪をおさげにして、前髪はきっちり眉毛の上。校則に文句を言う生徒が多いなか、誰よりも校則を守っていた。
あまりにも几帳面な性格だから、新任の僕が頼りなく見えたのだろう。指導教官役の先生よりも鋭い目を光らせて、僕が失敗する前に色々とフォローしてくれた。
頼りになる生徒、それが今川だった。だから自然と話す機会が増えていく。
だが、最初に違和感を覚えたのは「水樹先生の家にいきたい」と言い出したとき。
教壇に立っても、僕はまだ一年目。試用期間に過ぎない。公私ともに問題を起こせば、採用を取り消されることもある。
丁寧に断ったが、今川は諦めなかった。
偶然、街中で今川と出会った。
控えめなロングスカートだが、化粧をしている。学校では絶対に見せない、意外な姿で似合っていない。
軽く挨拶をして、その場を離れようとしたが「水樹先生、一枚だけ! 一緒に写真、お願いします」と、スマホを差し出した。
一枚ぐらいなら……、それが過ちだった。
おとなしくて控えめな今川が僕の腕にしがみつき、シャッター音がなる。
それからだ。教室の雰囲気がガラリと変わった。
生徒たちとの距離が微妙に開いた。ヒソヒソ話す声も聞こえる。
少し戸惑ったが、仕事が山のようにふってくる。若いからと言って、運動部をふたつも任された。働かない先生の仕事まで押しつけてくる。
休む暇もなく、がむしゃらに働いたが、校長室に呼び出された。
『今川桃佳くんと付き合ってるという話は、本当か?』
耳を疑った。
校長は一枚の写真を僕に突きつけた。
今川には色々と助けてもらっていたから、一枚ぐらいならと撮った写真。腕を組んでいるが、そんなんじゃない。
僕は激しく抗議した。
クラスのよそよそしい態度。デマがどこまで広がっているのか。そもそも誰がそんなウソを……。
今川しかいない。
厳重注意を受けたあと、僕の仕事がますます増える。
無意味な研修会に、無駄な出張。クラスの生徒と話す機会がぐんと減って、担任らしくない担任になっていた。
一生懸命になればなるほど、ズブズブと沈んでいく泥沼のような道。それでも助けてくれる先生の手を借りながら、必死に頑張っていた。
それなのに、また今川が――。
『水樹先生は、生徒を蔑ろにしてサボってる』
僕の忙しさを一ミリも知らないくせに、騒ぎ立てた。
ムカついた。腹が立った。そもそも誰のせいでこんなことに……いや、僕が悪かった。
今川が頼りになるから、都合よく甘えている部分もあった。
今川から大きく距離をとった。
これ以上のトラブルはごめんだから、他の生徒より冷たくなったかもしれない。
すると今川が狂いはじめた。
家の周りをウロウロしている。
妹の香奈恵を彼女と勘違いして、「未成年の女を連れ込んでいる」と警察に通報したり、あのときの写真をばらまいたり。
とうとう、保護者を呼び出しての話し合いになった。
そこでも今川は普通ではなかった。
血走った目を僕に向けて「私は水樹先生を愛してます!!」と。
付き合っている、結婚の約束をした、その証拠はこの写真。ビリビリと耳に響くほどの大声で、ウソばっかり。
はじめて女が怖いと思った。
今川の保護者もかんしゃく持ちで、「娘をたぶらかした」とか「洗脳した」とか理不尽な言葉がずらりと並ぶ。
僕はひとつずつ、丁寧に説明をして、今川の矛盾点をつくしかなかった。
最終的に、これまでのことはすべて今川の暴走で、付き合った事実はない。結婚の約束もしていない。ウソを暴くことに成功した。
でも、これだけのゴタゴタを起こせば、二年目はない。
そこの学校は一年間でさようなら。思い出しただけでも気が滅入るが、多くのことを学んだ。
「……結婚したい」
「はあぁ? カナ兄ぃ、頭がおかしくなったの。大丈夫?」
香奈恵が僕の胸ぐらをつかみ、容赦なく揺さぶった。
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