(3) 高嶺の部下 -2

「すみませんでした。お忙しいのに、ほとんど一日潰してしまうことになってしまって」


 帰りの電車に乗り、二人並んで座ったところで、立花絵里子があらためて頭を下げてきた。


「謝らなくていいよ。ミスしたわけでもないし、これも仕事なんだから」


「ありがとうございます。あの社長がどのラインで怒り始めるか、もう掴んだつもりだったんですけどね。まだまだ未熟だなあと思います」


「立花さんがそんなこと言ったら、歴代の担当者なんて目も当てられないよ。クレームを次に活かすことは大事だけど、立花さんはもっと自信を持っていい」


 そうは言っても、こんな仕事のあとは呑まずには帰れない。おあつらえ向きに週末でもある。担当者が男なら多少強引に付き合わせてもいいのだが、女子社員と二人ではそうもいかない。実は彼女には聞いておきたいこともあったのだが、なかなか機会を作れずにいた。


「次長はまっすぐ帰られるんですか?」


「どこかで呑んで憂さを晴らしてから帰るよ」


 彼女の方が乗ってくればゆっくりと話をするチャンスだと思ったが、そうはならなかった。


「すみません。お付き合いするべきなんでしょうけど、今日は先約がありまして」


 彼女はこのあたりの断り方もそつがない。


「いいよいいよ。立花さんと二人で飲んだりしたらあとが怖い」


「どういう意味ですか?」


 ちょっと口を尖らせた表情は、似つかわしくない幼さを感じさせた。


「いや。立花さんが怖いんじゃなくて、周囲の目が怖いってことだよ」


「もちろん相手にもよりますけど、わたしは男性と二人で飲むことにさほど抵抗はありませんよ。でも、次長の方は既婚者だし上司だし、気にしますよね。セクハラだなんだとうるさいご時勢ですし」


「まあ、それもあるけど、もっと怖いのは周りの男どもの目だよ」


 思い切って、少しさぐりを入れてみることにした。


「立花さんは石本部長にずいぶん気に入られているようだけど、大丈夫?」


「え。どういう意味ですか?」


 彼女の視線が泳ぎ、その表情にほんの一瞬だけではあるが動揺が走ったのを見逃さなかった。


「いや。それこそセクハラとかパワハラとかさ、そういう困ったことがなければいいんだけど。そうでなくても雑用やらおつかいやら、部長から頼まれる機会が多いみたいだから、業務に支障が出ていなければいいんだけど」


「ああ、ええ。もちろん大丈夫です。部長にもよくしてもらってますから。各務次長といい、わたしは上司に恵まれています」


 優等生過ぎる回答は、逆に説得力がないことがよく分かる。

 石本部長と立花絵里子。この二人の間には何かあるような気がしてならなかった。はっきり言えば、男女の仲ということだ。いくら年齢が離れていようが上司と部下だろうが、双方が独身で、お互い想い合ってのことであれば何も問題はない。だが、石本は妻帯者だ。それに彼女におつかいを言いつける頻度やタイミングが、どうも不自然な気がしてならなかった。

 

「だったらいいんだけど。もし何かあって、言いにくいことだったら相談専用のホットラインもあるからさ、自分ひとりで抱え込まないようにしてくれよ」


「はい。ありがとうございます」


「ところで、先約ってデート?」


「次長。そんな質問もセクハラって言われるんですよ」


「ああ、そうだね。ごめん。キャンセルするよ。答えなくていい」


 確かに研修でも典型的な例として挙げられていた覚えがある。

 けれど、彼女は免罪符のような笑顔で空気を浄化してくれた。


「次長だから特別に答えますけど、まあ、デートといえばデートかもしれません」


「へえ。そうなんだ」


 少し安心した。そういう相手がいるのだとしたら、部長とのことは取り越し苦労だったのかもしれない。

 彼女の降りる駅がアナウンスされると、彼女は悪戯っぽい視線を投げてきた。


「わたし、なかなか恋愛が長続きしないタイプみたいです」


「へえ、そうなんだ」

 

 何を言ってもまたセクハラだと返されそうで、さっきと同じ短い台詞しか口にできない。

 電車がホームに滑り込み、彼女が立ち上がった。


「また長続きしなかったときは、次長、慰めてくださいね」


 やはり何も言い返せずに片手を上げて応じる。

 彼女が笑いを噛み殺しているように見えたのは気のせいだろうと思うことにした。


「おつかれさまでした。失礼します」


「おつかれさま。気をつけて」


 ホームに降り立った彼女は、電車が動き出すと目が覚めるような笑顔を放ってからまた頭を下げた。それにまた片手を上げて応える。

 その姿が後方へ流れて見えなくなってから、自分の表情が緩んでいることを自覚した。

 いつの時代も女は強く、男はだらしない。

 ますますアルコールに頼りたい気分になった。

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