(4) 希 —— Nozomu ——

 中学校を囲う無粋な高い塀が途切れて、視界が広がった。ここから小さな川の両岸に沿って南北に細長く、一キロほどに亘って公園が連なっている。


 小学生の頃は毎日のように遊びに来ていた。いつも大勢の子どもで賑わっていた記憶しかない。それが今は、新型肺炎ウイルス感染拡大防止のための外出自粛がこんなところにも行き渡っている。日の入りまでまだ余裕のある時間帯にもかかわらず、人の姿はまばらだ。


 川沿いの遊歩道に入ってすぐ、犬の散歩をしている人とぶつかりそうになった。


 小さな茶色の毛の塊のような犬を連れた中年の女性だ。こちらに気づいていたはずなのに、犬に引かれるまま目の前に飛び出して来た。


「おっと!」


 思わず声が出て、飛び跳ねるようにして身をかわした。それなのに、女性は何事もなかったかのように行ってしまう。


 愛犬しか目に入っていないみたいだ。


 それにしても、ひと言くらいあってもよさそうなものなのに。


 少し腹は立ったけど、呼び止めて怒りをぶつけるほどのことでもない。気持ちを入れ替えて、葉桜並木の下を走り続ける。


 散り去ったあとの桜に思いを馳せるのは、平安歌人くらいじゃないだろうか。子どもの頃に木の幹を蹴ったら何匹も毛虫が落ちてきた経験がトラウマで、葉桜となった桜の木には今でも出来るだけ近づきたくはない。


 トラウマといえば、小学四年の頃、この公園のすぐそばで交通事故を目の当たりにしたことがあった。


 友達との待ち合わせ場所へ自転車で向かう途中のことだ。片側一車線の道路が交差する、信号のない交差点だった。右側、見通しのいい公園側から近づいて来る乗用車に気がついてブレーキをかけたとき、僕のすぐ隣を猛スピードで追い抜いて行く自転車があった。乗っていたのは中学生の男子だ。彼はまるで競輪選手のような前傾姿勢で、ノーブレーキのまま、むしろ加速しながら交差点に進入した。


 右側から来ていた乗用車は急ブレーキで間一髪停車したものの、左側から来たトラックにねられて、彼は自転車ごと数メートル飛んで動かなくなった。


 猛スピードで颯爽と追い抜いて行った中学生が、急ブレーキと衝突の大音響の中、あっけなく飛ばされて動かなくなった光景は今も目に焼き付いて離れない。いろんな体験や思い出を少しずつ忘れていく中にあって、今でも鮮明な映像として脳裏に再現できてしまう。多分それはこの街を離れても変わらないだろう。


 六年間引き摺った彼女への想いは、それとは違う。桜が咲く前に散って消えてしまうはずのものだった。ほかの雑多な記憶と同じように、新しい生活の中で薄れていってくれるはずのものだった。


 彼女にまつわる具体的な思い出は、実はさほど多くない。中高の六年間同じ学校に通ったものの、同じクラスになれたのは中学一年のときだけだったし、部活も違ったせいだ。


 入学式の日、一人ずつ自己紹介をしていく中で、その名前に何やら縁のようなものを感じたのは確かだけれど、それ以上の感情は湧かなかった。


 彼女に対する感情が動いたのは、中学最初のゴールデンウィークが明けた頃のことだ。


 テニス部の練習中に足を滑らせて、咄嗟についた左手首を痛めてしまった。保健室で診てもらって来いと顧問の先生に言われて行ってはみたものの、保健の先生の姿が見えない。


 しばらくはおとなしく待ってみたけれど、戻って来る気配もない。手首は動かせば痛みはあるものの、腫れているわけでもない。利き腕は無傷だし、ラケットを振る分には支障もないように思えた。


 よし、顧問には大したことありませんでしたと報告しよう。


 そう決めて保健室を勢いよく出たところで、彼女と鉢合わせになった。


 ぶつかりそうになって、咄嗟に彼女の両肩に手を置く形になり、お互いの場所を入れ替わるようにして何とか身をかわした。


 瞬間、左手首には強い痛みが走った。


「いてっ!」

「きゃっ!」

 

 二人同時に声をあげていた。


 今では彼女の方が頭一つ分くらい背が低いけど、このときの二人は同じくらいの身長だった。


 ぎりぎりぶつからずに済んだものの、ごく至近距離に彼女の顔があって、次の瞬間にはもう手首の痛みよりも心臓の高鳴りが勝っていた。


「ごめんっ」

「ごめんなさいっ」


 今度は同時に謝って、一歩ずつ飛び退いて距離を取った。


 同じクラスの子だということは分かったし、個人的に印象的だった名前も記憶にあった。ただ、言葉を交わしたことはまだなかった。


 彼女の肩が思いのほか華奢きゃしゃだったことを、今でも両手にその感触が残っているかのごとく鮮明に憶えている。


 同じくらい印象に残った大きな瞳には、そのあとも何かの拍子に目が合うたび、どきまぎとさせられた。

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