0-04「夏の夕暮れ」

 ふと見上げると、空は赤みを帯びていた。

 昼食も忘れ、休憩しては投げ、休憩してはノックを打ち、休憩してはバットを振り。

 最後の時間を味がしなくなるまで噛み続けた結果、息をすることがもうやっとという状態になっていた。翌日から二学期だというのに、くたくただ。


「楽しかったなぁ」


「うん」


 ボールを通して話してはいたが、言葉の会話は実に六時間ぶりだということに気づいた大哉は「俺ら、ホント頭おかしいよな」と自分たちに呆れながらグローブを磨いていた。


「ホントにね」と一星も賛同し、大哉の隣に座って同じくグローブの手入れを始める。


 ブラシで細かい土や埃を落とし、クリーナーから雑巾でローションを少量取りしつこい汚れを落とす。


「こうやって二人でできるのも最後かもね」


 ふと、一星が呟く。


「……なんで?」


「いや、さ。なんとなく」


「いつでもできるじゃん。野球続けてたらさ」


 グローブを磨く手は止めないまま、トマトのように赤く熟した太陽をずっと見つめるだけの一星は「そうだね」と生返事をした。


 心ここにあらず、そんな表現がピッタリな幼馴染に業を煮やし、大哉は「もーらい!」と、一星が使用していたクリーナーを取り上げた。


「は? 何してんの?」


「そんな辛気臭い人間に使われたって、こいつがかわいそうだ」


「返してよ」


「いやだね。甲子園で会った時に返してやるよ。チャンスは三年間やるよ」


「意味わかんないよ」


「甲子園でまた会おうってことだよ!」


 そう言い残すと、本当にそのままクリーナーを持ったまま大哉は走り去っていってしまった。「待て!」と立ち上がるも、靴の紐がほどけており追いかけることはできず。夕日の方へ走っていく大哉の後姿をただ見つめるだけ。


 大哉の姿が見えなくなるまで立ち竦んでいた一星は「わかってたんだろうなぁ」と再びその場に座り込んだ。


 厳しい練習が嫌なわけじゃない。寧ろ、上手くなれる実感があるから、練習は好きだ。

 試合で結果が残せなかったわけでもない。あの世界一を決める大会でも、首位打者だった。

 別に、認められていないわけではない。その証拠に、複数の強豪校から推薦の話がある。

 ただ、敵わない存在と出会い、一番になることができないと知っただけ。

 二番でいいじゃない、という人もいるだろう。試合に出られればいい、そんな意見だってあるだろう。

 一星も、そういう考えがあること自体は理解できる。

 ただ、一星は、一番になるために野球をやっていた。どんな大会でも優勝を目指し、一番優れた選手であろうとすることが一星のモチベーションであり、野球を続けている理由だった。

 これまでは、練習すれば、経験をすれば追いつける。追い抜かせる。そんな確信があったから、どれだけ負けても次へと進むことができていた。


 ――それが、アレだもんなぁ。


 自信と確信で培って実力で、世代を代表する選手になりかけていた一星だったが、たった一人の怪物に打ち砕かれた。


 ――空野彗、か。


 決して勝てない。理屈のいらないその強さが、その存在がこれまで一星がもっていたこだわりを一蹴した。

 もしかしたら、大哉の言葉が心に変化を与えてくれるかもしれない。そんな淡い期待をもってのキャッチボールでも、心の火は燃えてくれない。


「潮時だね」


 シャツを着替え、道具もしまい、家へと戻る道すがら。

 何の気なしに、今朝時間つぶしのために開いた記事をもう一度開いてみた。

 内容は、怪物の分析記事。

 よくよく見てみると、記者が興奮して語り足らなかったのだろう。記事には二ページ目が存在していた。


 ――同級生から見た怪物の姿。


 恐る恐るに、一星はリンクを開いてみる。

 おまけ程度に、世界を戦った選手たちのコメントが掲載されている。


 あの球を打てなきゃ、次のステップに進めない、甲子園であの球を打ちたい、アイツを打つって目標ができました――皆が一様に、空野彗へ挑戦状とも言えるコメントを残している。


「すごいなぁ、みんな」


 そんな熱いコメントが並ぶ中、自分のコメントを見つけた一星は、呆れてしまった。


「〝最高の球を受けれて、いい思い出になりました〟か……」


 ライバルとしての言葉ではない。

 冷え切った、第三者から見た感想みたいなコメント。


 ――この時、もうダメだったんだな。


 そんなことを考えている自分が情けなくて。

 こんな挑むことさえできない自分が、酷く惨めで。

 涙を流しながら、一星は大哉にメッセージを送った。


 ――クリーナー、大切に使ってね。


 メッセージを送ると、すぐに返信がくる。


『なんでだよ』


 ――中学で野球はおしまいだから、甲子園には行けない。


 メッセージを送ると、今度は電話がかかってきた。けれど、受け取ることはできない。今の冷めきった自分では、大哉にとってマイナスになってしまう。


 野球との決別とともに携帯の電源を落とし、涙をぬぐいながら振り返ると、もう日が沈みかけていた。


 まるで、一星の情熱が消えていくように。

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