とびだつ鳥の向かう先(3)

 二日後。エヴァンが握りしめた腕は、グロテスクな青紫に染まった。形は見事にくっきり兄の手形である。


 ルカヤ自身は「こんな痣ができることがあるのだなあ」と脳天気であった。

 触らなければ痛みはない。兄を責めたところで青あざが消えないので、それ以上考える気にならなかったのだ。


 一方で、エヴァンは気にした。表面上は強気で我の強いままであったが、内心、いたく気に病んだらしい。

 あれほど反対した就職を許してくれた。門限、帰宅の連絡といった条件はいまだあったものの、ルカヤは飛び上がって喜んだ。


 こうしてルカヤは先輩ガエタノのもとに就職したのである。

 場所は家から大学よりもやや近い。その気になればボローニャにも行ける、可愛らしい町だ。名をカピリジナという。


 ルカヤは掃除や剥製の整理をこなし、裏で標本作りや『治療』を手伝った。

 最初は罪悪感に悩むも、毎日着実に積み重ねる『救った命』に、上達する技術に、早くもなじんでいった。



 そのニュースが流れたのは、このような折りであった。

 就職から数ヶ月。あらかたの業務が終わり、ルカヤの定時が目前になった夏の夕方。ルカヤはホウキをもってゴミをはき、忘れた仕事がないかチェックしていた。

 仕事場に置かれた古びたラジオから、いつになく真面目なパーソナリティーの読み上げが響く。


《カピリジナでまたしても若い女性の遺体が発見されました。うら若き乙女ばかりを狙う怪人の一年ぶりの凶行に、またしても胡乱な風が吹き始めています》


 いつもならこの時間帯は、よく知らないアーティストの名前と流行りの歌だのを延々流しているというのに。

 親父臭いジョークを好む陽気な司会者は、今日はやたら熱心に注意喚起を繰り返す。


 ルカヤは無意識に腕をさすった。

 青あざは消え、わずかに黄色を残すのみになっている。さすったのは、恐怖に煽られて薄ら寒さを感じたからだ。

 生活圏内の町で事件が起きたときいては心がざわつくのはやむをえない。


 ましてや今のルカヤにとって、その事件は非常に身近な話題だった。――物理的に。

 職場は雇い主の自宅でもある。ガエタノは店を完全に私物化していた。ルカヤは勝手に、親類から受け継いだ遺産なのかもしれないと思っている。

 事実は、物騒な話が飛び出てきそうで、たずねられなかった。


 なかでも主な『作業場』は家の奥に隠されるようにある。

 ついでに整理整頓が苦手な雇い主の荷物も片付けていた手が止まる。

 いそいそと作業場から顔を出すと、一仕事終えてソファで飲み物を飲んでいるガエタノに声をかけた。


「ガエタノせんぱ……先生。さっきのかた、ひとり・・・ですか。それともふたりめとか?」


 壁が邪魔で見えないだろうに、作業台の上を指さす。

 そこには先ほどまで、一人の若い女性の遺体が乗せられていた。

 死に際によほど恐ろしい目にあったのか。ブルネットのなかに白髪がまじっていたのを思い出し、ぶるりと震えた。

 先生と呼びかたを変えた雇い主はルカヤと反対に、まのびした声で答える。


「さあねえ。もしかしたら三人目かもしらんなぁ」

「先生!」

「いや、悪い悪い。ないない。その子はニュースにはならねえさ。うちにくる時点で非公式な遺体だもの。娼婦だし、出所が出所だ」


 けらけら笑うガエタノに溜息をつき、ルカヤは遺体の乗っていた作業台にホースで水をまく。床に散った水や毛がタイルの床をくるくると泳ぎ、排水溝へ流れる。


「あの遺体の解剖ってどこの依頼なんです?」

「んー。秘密。オマエさんがもっと助手として上達したらな」


 流石にある程度付き合い方もわかっている。彼が隠す気もなくはぐらかす時は「きいても無駄」という意味だ。

 無言で片付けを再開する。作業場の片付けは終わりだ。だが、ガエタノが適当に床に脱ぎ捨てている靴下やシャツが気になる。

 できれば拾い上げて洗濯機に投げ入れてしまいたかった。


 足の踏み場もなくなる前に片付けるというのがガエタノの常套句だ。しかしルカヤの方が我慢ならない。

 ガエタノが常に綺麗にするのは仕事道具と趣味で集めている標本達だけだ。


「あ、そうだ。ルカヤちゃん」


 せかせか動き回るルカヤの背に今度はガエタノの方から声をかけた。

 ほんわりとしたホットミルクの乳臭さに、チョコレートにも似た芳しい匂いが鼻腔を過ぎ去る。


 ガエタノは夜だというのに、のんびりコーヒーを煎れていた。

 ルカヤは彼に対して「手伝いをしろ」とは思わなかった。

 ルカヤが勝手にやっていることだ。くわえて彼はきちんと後で礼をいってくれる人間だから。兄と二人で暮らす我が家と同じくらい過ごしやすい。


「なんですか、先生?」

「ラジオきいて最近物騒だなあって思ってさ。オマエさんも気をつけなよ」

「ありがとうございます。はい、兄にもきつくいわれているので、気をつけ――」


 思いやりに緩みかけた頬が硬直する。


「いっ、いま何時ですかッ!?」


 慌てて壁時計を見上げれば、時間はいつもの帰宅時間を30分もオーバーしていた。

 ラジオの時も変わらなかった顔からさああっと血の気が引く。


「わっわっ、ど、どうしよう、解剖と片付けに夢中で……!」

「あれ。大丈夫? 珍しいなぁ、いつもは何があっても定時で帰るのに」

「だって見たことのないご遺体だったんですもの!」


 室内で失礼とは承知で、衣服を詰めた籠を抱えて走り出す。

 暴力的な勢いで洗濯機に中身を詰め込むと、慌てて玄関に向かおうとした。


「先生ッ、今日もお疲れ様でした! お先に失礼します!」

「ちょ、ルカヤちゃん、そんな慌てちゃあ怪我するよー」


 ちょうどドアノブに手をかけたところで、チャイムが鳴る。

 時間はすっかり夜だ。急患にしては焦りがない。自動的に導き出された推論に、ルカヤの体が錆びた鉄人形のように軋む。


 二度目のチャイムは急かすように鳴らされた。

 ルカヤの肩がはねる。恐る恐る、いましがた出ようとした玄関を押し開き、尋ね人を出迎えた。


 現われた人物をルカヤ越しにみて、ガエタノが軽く口笛を吹く。

 金髪碧眼の稀に見る美丈夫がルカヤをじいと見下ろしていた。

 艶めかしいラピス色《ラズリ》の瞳を飾る凜々しい眉がクイ、と不機嫌につりあげられる。


「ルカヤ」

「ご、ごめんなさい。わざとじゃないの。うっかり夢中になっちゃって」

「何度も電話したんだぜ」

「本当にごめん……」


 しゅんとするルカヤに一つだけ溜息をつくと、エヴァンはガエタノに挨拶をした。


「どうも。うちのルカヤが世話になりました」

「こっちこそお世話になりっぱなしだよ。いい妹さんだな。毎日お迎えご苦労さん」

「どうも。あんまりいい子なもんだから、いつか天使が迎えにくるんじゃないかって心配なんですよ。ちゃんと手を繋いでやらなきゃあ」


 エヴァンはにこやかにガエタノに挨拶を返す。

 就職してから、エヴァンのガエタノへの態度は軟化した。

 ルカヤはそれでもヒヤヒヤする。あたたかなのは口だけ。兄の目は以前、冷たいままだ。


「まあ、俺が色々手伝わしてしまったんでね。あんまり怒らんでやってください」

「ええ。そんなことだろうとは思いました。ルカヤは昔からうっかりが多いから」


 呆れたような表情もさまになっている。兄妹でなければ、隠している悪感情に気づくまい。

 恐縮しているルカヤを見る目には、言葉とは裏腹に深い愛着が滲んでいた。

 そして自然な動きでルカヤの腰に手を回して抱き寄せる。


「じゃあ早速ですが失礼します。最近は物騒ですからね」

「あの、に、兄さん!」


 ルカヤは顔を赤くしてエヴァンの胸を押す。ガエタノの前で密着されるのは嫌だ。燃えるように恥ずかしい。

 そんな二人を揶揄するようにガエタノは笑い、外に追い出した。

 彼なりの暖かさで見送られたエヴァンは衣服の乱れを直す。


「……ま、信用はならねえが、案外わかってるヤツじゃねえか」

「そう?」

「ああ。空気が読めるっていうかよ」


 思ったよりあっさりしたエヴァンの様子に、こっそりルカヤは胸を撫で下ろした。


(思ったより怒ってないみたい。よかった)


 自宅へ向かう足が急ぐ。エヴァンはルカヤの腰から手を離さなかった。

 そのせいでゆきかう人々から目線が突き刺さる。特に、若い女性。

 どうみても釣り合わない男女だから、無理もないと思う。


 頭からつま先まで美意識の塊のように整えられた伊達男に、女だというのに華に欠けた小娘である。

 ルカヤは黒髪でせめて顔が隠れればいいと軽く俯く。

 早く家に帰りたかった。視線から――エヴァンの腕から解放されたい。


 二人で借りている家に辿り着く。

 ルカヤは遂に、本当に肩からちからをぬいてしまう。

 だが、エヴァンに「ただいま」と話しかけようとした瞬間、いきなり壁に体を押しつけられた。細い息がもれる。


「ひゅっ」

「ルカヤ…」


 先ほどまで柔らかだったエヴァンの相貌には明らかに怒気が込められていた。

 美貌が冷気を帯びてますます鋭く磨かれている。


「ルカヤ。オレはいったよな? 外に働きにでるんなら、オレとの約束は守れと」


 一段低い声にルカヤはコクコク首肯する。


「本当にわかってンのか? 言ってみろ」

「も、門限には帰る。定時連絡には必ず出る。一緒にいるのを見られている時は堂々としていること……」

「そうだ。よく覚えてたな? なのに全て破るとは。とんだおてんばだな、え?」

「ごめんなさい……」

「謝って済むとは限らないって自分が一番わかってるんだろ。オレが約束を守ってるのにテメーが守らねぇってのは筋が通らねぇぜ」


 いたずらに両頬を交互に叩かれる。ちからはみじんもこもっていない。手遊びのようなそれに、ルカヤは大袈裟に身を震わせる。

 まなじりに涙を浮かべて震えるルカヤに、エヴァンは数拍沈黙を保った。

 やがて満足げにルカヤをおさえこんでいた手をどけて、ルカヤの黒髪をゆっくり撫でた。


「ったく。今回は許す。次から気をつけな」


 いつ爆発するとも知れぬ怒りの気配は消えていた。


「ルカヤは本当にうっかりしてるし、ツイてねぇから。オレはもしも何かあったらと思うと気が気じゃねえんだよ。わかってくれとはいわねぇ。だが理解はしろ」


 ルカヤは自由になったというのにまだ怯えている。

 その小動物のような姿にエヴァンは肩をすくめると、ルカヤの顎をすくいあげ、彼女のラピスラズリの瞳を無理矢理自分と合わせる。


「わかったな?」

「……うん……」


 有無を言わせぬ迫力に、ルカヤはこの失敗が綺麗さっぱり消えてしまうまで、二度とくりかえすまいと誓った。


 兄は就職を許した。しかし、門限は外での自由時間はほとんどないものとなった。直接職場にやってきて、家に直行させられる。そばには常に兄がいた。

 かつてルカヤを守った保護は、激しい過保護に深まっていた。


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