とびだつ鳥の向かう先(1)

 七月末某日、ルカヤは初めて兄に嘘をついた。


 彼女は「学校に行く」とごまかして、ガエタノの就職先がある街にやってきた。

 派手な施設は見当たらないが、不便しない程度に多様な店が並ぶさまは好ましい。都市に近すぎず、遠すぎずのちょうどいい立地だ。


 町並みもよい。赤いレンガ造りの家が連々と続く。

 時刻は真っ昼間。日を受けて焼けた赤みを強める街は、日常的な陽気で満ちている。ルカヤは手で額に日陰を作り、空を見上げた。


「眩しい……こっちは空が高いのね」


 ガエタノの好きそうな街だ。

 駅から降りたルカヤは、携帯でガエタノの電話番号を押す。

 ルカヤが使うのはもっぱらメールであったから、慣れない作業だ。数回のコールの後、ノイズのかかった懐かしい声が鼓膜を揺らす。


「よ。着いた?」


 ガエタノの第一声は軽かった。昨日も会ったかのように当たり前に話しかけてくる。最後の勉強会と地続きのようだ。久しぶりに送ったメールの返信と同じだ。

 ガエタノの態度は卒業前とちっとも変わらない。「あんなの口約束だから」とそでにされることなく、ルカヤはガエタノと会う約束をとりつけた。


「はい。言われた通り、駅前で動いてません」

「うん。それがいい。知らない街で動き回ると迷子になるぜ。迎えに行くから待ってな」


 電話越しでは見えないのに、ルカヤはコクコク頷く。

 そして大人しく待つ。大学前と変わったのは、再会した後だった。

 やってきたガエタノをみて、ルカヤは普段伏せがちな目を見開いてしまった。


「先輩……髪、のばしたんですね」

「大学だと怒られるからさ。似合うだろ、こっちのが」


 ガエタノは波のある黒髪を、こじんまりとしたポニーテールにまとめていた。

 兄と観戦したサッカーの選手を思い出す。確かに以前の髪型より似合っている。だがのびた【髪】だ。ルカヤは口をまごつかせた。


「素敵だと思います。思うんですが、その。医者的にはいいんですか? 衛生とか……」

「相変わらず真面目だねえ。ま、それについちゃ後々な。まずはオレの職場においで」


 ルカヤはガエタノの数歩後ろを着いていく。

 駅から見渡した時は真っ赤に思えた街は、いざなかを歩いてみると、壁の色は穏やかな濃いベージュに近かった。


 経年劣化により、白い粉をまぶしたように色あせた石の通路は素朴で美しい。

 ルカヤは道いく人に目を向ける。すぐそばを犬の散歩をする男性が通り過ぎていった。

 まだ早い時間なので、老人や夫婦と思われる人々が思い思いに優しい時間を過ごしている。


 見知らぬ街にときめいているうちに、ガエタノは奥まったほうへ入り込んだ。住民でなければ入り込まないようなところだ。

 兄は「こういうところに隠れた名店があったりするのだ」と言っていた。


「ここ、ここ。入っといで」

「あ、はい。お邪魔します」


 ガエタノが腕をさしだして、店内に入るよう促した。アーチ型に象られた赤レンガの玄関が可愛らしい。だが看板がない。

 これでは、言われなければ一軒家だと思い過ごしてしまう。


 なかにはいると、日光の少なさに目を剥いた。

 案の定、湿った匂いが強い。ガエタノが電気をつける。しかしながら内装が見えるようになったぐらいで、視界が明瞭に開かれはしなかった。


 我が身を守るように、手提げ鞄のとってを両手で握る。初めて新しい学校の教室に入ったときの気分だ。そして納得する。

 室内には動物の像が点々とおかれていた。等身大の大きさと漂う薬品の香り。教室で嗅いだ覚えがある。剥製だ。


「汚いとこだけどゆっくりしてくれ」

「は、はい……あ、汚なくはないです!」


 一歩足を踏み出すと、靴の裏が滑るものを踏んだ。足下に目を落とせば、脱いだと思わしき上着と書類が落ちたままになっていた。

 ……もしかすると、彼は片付けが苦手なのかもしれない。


「あ、悪い悪い。普段客なんか来ないから。すぐ片付けるから、とりあえずあっちの応接室で待っててくれ」


 応接室は小綺麗だった。

 それでもよく見れば、重なった紙の角がバラバラだったり、物の置き方もナナメになっていたり乱雑だ。片付けたい欲求でウズウズする。

 やがてガエタノがやってきて、コーヒーカップをテーブルに並べた。テーブルを挟み、対面にガエタノが座る。

 いよいよ話が始まるのだ。


「えっと。ガエタノ先輩。改めて、今日は急にすみません」

「いいよ、オレとオマエさんの仲だろ。こっちこそなんか急がせちゃったみたいでわりいな。八月でもよかったんだぜ。まだ七月のうちなのに、テストのほうは大丈夫なのか」

「八月だと兄に説明しないと出かけられなさそうだったので……テストは、やるだけならば、ギリギリ」


 ルカヤはこの日に備え、死ぬほど机にかじりついた。

 そのかいあって、年の最後を飾るテスト週間を予定より早く乗り越えられた。

 大学のテスト週間は、六月半ばから七月末まで。実に約六週間に及ぶ。単位を得るためには、科目ひとつにつき二~三種類のテストをクリアする。


 テストじたい難しいのだが、これで落ちれば、夏休み明けに再挑戦するか、来年の春に先延ばしになってしまう。

 それにルカヤとしては、本当に、自分が医者になれないのか測る分水嶺でもあった。


「次回は厳しいかもしれません」


 なるべく平気そうに振る舞いたかったのに、顔は勝手に深くうつむく。自己採点でなんとなく結果はわかる。

 イタリアの学費は安いとはいえ、使えば金は減る。

 受からない資格試験と、早くからの就職――二つを天秤にかけ、ルカヤは自分自身で決断を下そうとしていた。


「なので……以前、場所をくださるといった話、お聞きしたくて。我ながら情けなく、図々しいのはわかってます……でももう、なるべく早く就職したいんです」


 恥ずかしさに消え入りたくなる。ガエタノは「ふうん」と相づちを打つ。


「まあ、いつかそんなことになる気はしていたが。思ったより早かったよなあ。オマエさんは真面目だからさ。もっとボロボロになるまでやって、ダメだったら来るかと」

「すみません……」

「謝る必要はねえって。なんかあったのかなってだけ」

「その、実は……はい。なくはなかったです」

「例えば?」


 ルカヤは鞄から、使い慣れた携帯を取り出した。手が少々汗ばんでいる。


「私のプライベートな話になってしまうんですが」


 前置きをして、机上に携帯を滑らせる。ディスプレイに電話帳が表示した。

 羅列された名前は決して多くない。使ったのはほとんど家族のものばかりだ。いまや、使い道は一層かたよりつつある。


「これ、わたしの携帯電話なんですけれど」

「うん」

「前はよく母からメールが来たんです。仕事が大変らしくて、愚痴を聞いて欲しかったみたいで。大学生になってから急に連絡がなくなったと思ったら……あの」

「いいよ。言ってご覧」


 家族事情について語るのは初めてだ。

 ルカヤは他人の家庭を知らない。だから自分の家族関係のどこが異常でどこが平常なのかも予測がつかなかった。

 不安だった。「そんなのは普通だ、オマエが意識しすぎなだけだ」と突き放され、嫌われてしまっても受け入れるしかない。

 ガエタノが続きを許さなければ、話をそこで切り上げ、帰ってしまっただろう。ルカヤは勇気を振り絞った。


「……いつの間にか着信拒否設定に」

「全く気付かないうちに?」

「はい」


 ルカヤが母を拒否する理由はない。人に個人情報の塊である携帯を渡すわけもない。

 知らぬまにいじくられるほど、外部で携帯を手放したことや、同じ時間を過ごした相手もいなかった。

 こんなことができる心当たりは、ひとりだけだ。

 その疑惑は、もうひとつ、ある別の要因で深まっていた。


「それに……元は両親が学費を支払ってくれる話だったはずなのに、調べてみたら、そちらも兄が支払いをしていて」


 金払いだけは人並み以上に豊かだった両親だ。なかでも医者となれば、両親は進路相談の場でなんの不満もなく「金は出す」と言ってくれた。

 あって困るものではないはずなのに、手間をかけてまで仕様を変更した。エヴァンは完全にルカヤと両親の関係を断ちにかかっている。


 一軒家。学費。連絡先。

 ルカヤを囲む世界の構成が、兄エヴァンによって成(な)されつつある。

 これらのために、兄が違法な手段で金銭を稼いでいることは、ほぼほぼ確信していた。


 ルカヤはそれ自体には嫌悪を持てなかった。

 百歩譲って、職業はいい。無辜の人々を傷つけているのなら、妹として戒めねばならないが、どの世界にもルールと理由があるものだ。

 なにより、唯一ルカヤを愛してくれた大好きな兄をどうしても嫌えなかった。


 とはいえ、このままでは、永遠にルカヤは兄に世話を焼かれ続けそうで、恐ろしい。

 ルカヤでは足下にも及ばない巨大な可能性を持っているはずのエヴァンの人生を奪い続けるようで、いたたまれなくてたまらない。


 学業を諦め、尊敬する先輩にすがる情けなさ以上に、兄の未来を奪う罪悪感がルカヤを責め苛む。

 複雑な感情が絡むこれらの動機を吐露する。ガエタノは不器用なルカヤの説明を辛抱強く聞き取った。


「普通に聞いたら両親が情けないって相談に聞こえるけどさ。お兄さんが君を家族から隔離しようとしてるみたいで不安ってとこ?」

「はい」


 ついには、ルカヤの願いを完全に理解した。驚くべきことに、ガエタノはその間、一度も嫌そうな顔をしなかった。


「成程ね。事情はわかったぜ」

「引かないんですか……?」

「うん。もっとエグい話も色々知っとるしな。そんぐらいでは驚かねえわ」


 綺麗に剃った顎を撫で、ガエタノは考え込む。


「加えていえば、ま、オレも同じ穴の狢ってヤツだ」

「え?」

「ここ、外から見てなんの店かわかった?」


 急な話題転換に面食らう。頭に「?」を浮かべて、ルカヤは素直に感想をのべた。


「外から見るとわかりづらかったです。普通の一軒家に見えました」

「なかにはいるとどう見える?」

「そう、ですね。剥製を売るお店ですか」

「そ。オレ、動物好きだからさ。まー、副業なんで、半分趣味だがね」

「副業?」

「ん。剥製製作の名目で結構でっかいシャワーとか器具とか入れててさ。それに剥製て資格とらなくていいし。たまに人もいれてんの。普通の病院なんざやってらんねえって人。南イタリアでは怪我人に事欠かないから」


 ルカヤはガエタノと違い、話をすぐさま理解して受け入れられなかった。

時間をかけ、さらりと告げられた言葉の意味をのみこむ。


「それって、あの」

「なんだ? いってごらん」

「……俗にいう闇医者ですか?」

「おお。カタギとはいえねえなぁ」


 口をあけて笑ったガエタノの顔は朗らかだった。


「どうして先輩がそんなことを」


 人当たりがよく、頭もよい。

 今まさにそれを見せつけたところで、彼の思わぬ暗部をつきつけられてしまったルカヤはどもった。


「だってなあ。医者ってきちんとした収入が得られるまで長いんだもんよ。オレぁ家族がいねえから、それじゃあ生きていけなくってさ」


 初めてガエタノの家庭事情を明かすさまは、天気の話をしたようにあっけらかんとしていた。

 表情もあいまり、本音か疑う。混乱するルカヤの瞳を逃さぬように、モスグリーンの虹彩が彼女の目に合わさり貫いた。


「研修医として地道に働いて、まとまった額の金を得られるようになるまでは相当かかるぜ。患者からしてもひでえもんだ。世界二位の医療制度! なんて言われるけどよー、各科の連携はわるいわ、待ち時間が長くってしょうがねえわ。国立病院で数ヶ月かけて診察の予約をするか、私立で高い金払って診てもらうか。地域差もやばい。それじゃあ待てねえ、あるいはもっと安くないと無理って人間は多いだろうよ」


 ガエタノが言っているのは事実だ。

 一時期、闇医者の横行への対策として医者の道が推奨されたが、今度は医者が増えすぎてひとりあたりの収入が激減してしまったという経緯もある。

 ガエタノが言っていることが本当ならば、闇商売も必要にかられて――なのかもしれない。


 だったら、許されても仕方がないのではないか?

 だって、生きていけないのだから。


 闇のおかげで生かされているルカヤは、そう思ってしまった。

 ガエタノは、あくまで優しくルカヤに話しかける。甘く迷う背をおして、より深く沼へつきおとさんばかりに。


「困ってるんだろ? うちで働こうぜ……言っただろ、欲しいんだよ。優秀な解剖医が。これからもずっとオレが育ててやるからさあ。な?」

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