日常探偵団

髙橋朔也

χとуの関係の解

 人間とは実に不思議な生物である。古来からの移動手段のひとつとして船があるが、なぜ船は浮かぶのかを考えずに古人は乗っていたと思う。また、そもそも宇宙という広い空間の中のひとつの「地球」という惑星に生物が誕生し、人類が進化し、現在ほどの文明を人類が築く確率は偶然といえるのだろうか?

 このように、人間は謎を謎のままにしている気がする。学者はちゃんと研究しているにしろ、一般人は趣味で人類が地球に誕生し文明を築く課程でのことは研究しない。それはある意味で怠惰(怠惰とは、すべきことをなまけるということ)といえるだろう。

 ちなみに、船が浮く原理は『アルキメデスの原理』によるものだ。水に沈んだ物体は自らが押しのけた水の重さの分だけ上向きの浮力を受けて浮かぼうとするのだ。

 彼、新島真(にいじままこと)も例に漏れず、謎を謎のままにする性分だ。新島は八坂(やさか)市立八坂中学校二年三組生徒だが、今は本日最後の授業である数学を学んでいた。

「──だから、この問題の答えは4χになるわけだ。......そうそう。今日は数学科から課題がでる。帰りのホームルームで配るからな。さて、数学の授業はここまで。気をつけ、礼!」

 数学の授業が終わって、新島の席にはある人物が訪れた。

「新島。今日は部活来るのか?」

 彼は新島のクラスメイトで同じ部活に籍を置く高田弘(たかだひろし)だ。

「ん? ああ。行くよ」

「そうか」

 高田は返事を聞くとそそくさと自分の席に帰っていった。それから十分後、ホームルームが始まった。

 数学科教師の八代(やしろ)は二年三組の担任教師でもあり、ホームルームの進行は八代が行った。

「数学の課題だが、俺のパソコンが壊れてしまった」

 教室に笑い声が響く。笑いがおさまると、八代が話しを続けた。

「パソコンが壊れたから、俺が手書きで問題を書いてコピーしてある。全五問だからちゃんとやってこいよ。明日の数学の授業でチェックするからな」

 八代は紙の束を手に取って、列ごとに配っていった。


 ホームルームも終わり、放課後になった。高田は急いで帰りの準備をすると、新島の席に行った。

「よお、新島。部活行くぞ」

「ちょっと待て。お前は早すぎるんだよ」

「そうか? 普通だぞ」

「普通ではないんだよ」

「まあ、いい。行くぞ」

「わかってるよ。急いでやるから」

 新島は教科書とノートをカバンに詰めて、最後に数学の課題プリントを入れた。

「おっ! 準備できたな? じゃあ、いくぞ」

「ああ」

 二人は教室を出ると、並んで歩き出した。

 彼らが入部している部活は『文芸部』だ。活動内容は文集を作成して、稲穂祭に発売することだ。それ以外にはほとんど活動と呼べる物はなく、ただダラダラと一日を過ごす。たが、本は意外とそろっており、飽きずにいることができる。

「新島は数学得意だっけ?」

「それなりにはできると思う」

「前回の中間テストで数学は何点だった?」

「確か......86点」

「可も不可もなく、だな。まあ、俺よりは普通に高いが」

「お前は何点なんだ?」

「それ聞くか? ......43点だよ」

「マジかよ」

「数学は苦手なんだよ」

「でも、今回は難しかったからな」

「連立方程式か」

「ああ。一番苦労したのは最後の問題だよな」

「あれは難しかった。......そして、連立方程式の章が終わったと思ったら一次関数だよ」

「今日配られた数学の課題プリントも一次関数だな」

「もう学校やだよ」

「じゃあ、なんで学校に来てんだよ」

「そりゃ、部長に会いに来てんだよ。当たり前だろーがっ!」

「まあ、見てくれは超絶美人だからな」

「性格キツいほうが、俺は好きだよ」

「そんなもんかね......」

「そんなもんだよ」

 二人のいう部長とは、文芸部の部長で三年五組の土方波(ひじかたなみ)という人物だ。

「そういえば」

「何だ?」

 高田はカバンに手を突っ込んで、一冊の本を取りだした。

「この本、部長のおすすめ。読んでみたけど、面白かった」

 高田は新島にその本を差し出した。新島は右手でゆっくりと受け取って、タイトルを見た。

「なんだ、アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』か」

「新島は知ってんのか?」

「いや、『アクロイド殺し』は名作だぞ。この作品がなかったら叙述トリックはどうなっていたことか......」

「叙述トリック?」

「知らないで読んだのか?」

「ああ」

「叙述トリックってのは『アクロイド殺し』同様に読者を騙くらかすトリックだ。『アクロイド殺し』は語り手が犯人だっただろ?」

「ああ。......本当に知っていたのか」

「当然だ。だが、叙述トリックは俺はあまり好きではない」新島は目の前に『アクロイド殺し』を持ってきて、見つめた。

「なんで、叙述トリックは好きじゃないんだ?」

「横溝正史(よこみぞせいし)が推理小説の三大トリックと呼ぶのは『密室殺人』と『一人二役』、『顔のない死体』だ。横溝正史の作品だと『本陣殺人事件(ほんじんさつじんじけん)』とか『黒猫亭事件(くろねこていじけん)』『真珠郎(しんじゅろう)』とかだ。ちょっと待ってろ──」

 新島は『アクロイド殺し』を高田に返すと、自分のカバンから黒色の本を取りだした。

「この本は『本陣殺人事件』(角川文庫)。だが、この本には『本陣殺人事件』の他に二作品収録されている。収録されているのは『車井戸(くるまいど)はなぜ軋(きし)る』と『黒猫亭事件』。読んでみろ」

「どれが密室殺人でどれが一人二役でどれが顔のない死体なんだ?」高田は本を新島から受け取ったあとで尋ねた。

「それは読んでからのお楽しみだ」

「そりゃ残念だ。まあ、借りとくよ」

 高田はカバンに『本陣殺人事件』を入れた。

「ああ、読み終わったら感想聞かせろよ?」

「わかった」

「お前は絶対驚くぞ」

「そ、そうなのか?」

「当たり前だ。何たって、横溝正史の作品だからな」

「そうか。なら、頑張って読んでみよう」

「お前は頑張らないと読めないのか......」

「まあ、気にするな」

「いや、気にするよ」

 そうこう話しているうちに文芸部の部室がある七階に着いた。高田が先頭を歩いて、部室の扉を開けた。すると、ソファに横になって毛布に包まっている人がいた。彼女が文芸部部長の土方で、今は眠っているようだった。

「部長!」

 高田の問いかけで土方は毛布を取って、起き上がった。

「ああ、新島と高田じゃないか。来てたの?」

「はいっす!」

 高田は元気のいい挨拶をした。

「それより、先輩。俺、数学の課題プリントをやりたいんだけど」高田の返事の後で新島が土方に尋ねた。

「そうねえ......机の上の本を本棚に戻しておいてくれる? そしたら、課題プリントをやってもいいよ」

「その本、先輩の散らかした──」

「今、何か言った?」

 土方はものすごい顔で新島を睨んだ。さすがの新島も、わかりました、と返事をして机に向かって歩き出した。

「新島。俺も手伝うよ」

 高田も机の前に立った。土方はあくびをして、また毛布に包まった。

「高田。あんなののどこがいいんだ?」

「意外と優しい一面もあるんだよ」

 二人は黙々と作業を続けた。十五分ほどで本を全て並べ終えた新島はカバンに手を入れて、数学の課題プリントを取りだした。

「先輩、本を並べ終わったんで課題プリントやるけど......」

「本を片付けたなら、好きにしていいよ」

「どうも」

 新島は椅子に座り、筆記用具を出して数学の課題プリントを始めた。


 ──五分後、新島は口を開いた。

「なあ、高田。数学の課題プリントの最後の五問目、ちょっと見てみろ」

「ん?」

 高田は新島に言われるまま、自分のカバンから課題プリントを出して五問目を見た。

「なんだこれ。解答欄に間違った答えが記入されてるぞ。しかも、手書きコピーだから八代先生がコピー前に書いたってわけだ」

「ああ。だが、あの先生は人に厳しく自分にはより厳しいことで有名だ。なぜ、間違えたんだ?」

 数学の課題プリントの最後の五問目の問題は以下のようなものだった。


(5) 次のものを関数の式に表して、( )内を埋めろ

    傾きが10で切片が0


              у=(χ)


「なあ、新島。この問題、どう見ても答えはу=10χだよな」

「ああ」

「新島。どういうことなんだ?」

「χの左側に10を書く可能性はあるけど、問題文でそれに触れていないのは不服だな。それにχの両側の空白は同じくらいだから、左側に10を記入する可能性は低いだろう」

 新島は問題文を眺めていた。二人で話していることに気づいた土方は口をはさんできた。

「どうしたの?」

「はいっす......数学の課題プリントの最後の五問目が少し変になってるんすよ」

「どれどれ......」

 土方は高田から課題プリントを受け取った。

「傾きと切片の概念が間違っているんじゃないの?」

「そうっすね......ええと──」

「いや、傾きと切片の理解は正しい。簡単に説明するとу=αχ+Ьの式に当てはめるけど、傾き=αで切片=Ьみたいなもんだから...」

「随分雑な説明......。まあ、いいか。私が思うにその数学科の教員は......バツ印(×)を書こうとしたんじゃない?」

「だとしたらこんなに両極端には反り返らないな。同じ説明で11と乗法(掛け算)の記号も違うことがわかる」

「なら、新島に考えはあるのか? 言っておくが、俺はない」

 新島は腕を組んで悩んだが、口を開いた。

「これといったものはないな。ただ、解決する方法を考えた」

「どんなのだ?」

「二年三組の生徒の中にも俺たちみたいに部活をしていて、放課後でも学校にいる奴もいる。そいつらに話しを聞いたらいいんじゃないか?」

 高田は指を鳴らした。

「いいアイディアだ。......部活に入っている三組生徒は五人。そのうちの二人は男子バスケットボール部にいる。体育館だ」

「さっそく、行ってみよう」

 三人は文芸部部室を出て、一階に降り、連絡通路から体育館に向かった。

 男子バスケットボール部の顧問は社会科の国松(くにまつ)で、新島は国松にまず尋ねた。

「三組の三上(みかみ)と関(せき)はいますか?」

「いるが、どうした?」

「数学科の課題プリントの件で話したいことがあるんです」

「わかった。......三上! 関!」

「「はい」」

 二人は同時に返事をして、国松の所に走ってきた。

「なんですか?」

「新島が三上と関に話したいことがあるそうだよ」

 咳払いをしてから新島は話し始めた。「今日配られた数学科の課題プリントの最後の五問目は見たか? すでに答えが記入されていた」

「関がなんか言ってたよな?」

「ええ。かっこ内にχがすでに記入されていました」

「そう、それだよ。俺たちは今、そのことで気になってるんだよ。なんか、知らないか?」

「掛け算の記号がひん曲がったんじゃないか?」

「両極端には反り返らないな」

「だとしたらわかんないや」

「ああ、すまない」

 新島は礼をすると、端で待っていた高田と土方に合流した。

「どうだった?」

「駄目だった」

「まあ、他の部活もあるから大丈夫じゃないかしら」

 その後、卓球部、女子テニス部、男子サッカー部、野球部を回ったが収穫はなく、文芸部部室に戻ってきていた。

「はあー。全然わかんねーな」

 椅子に座った高田は脱力して声を上げた。

 一方で、新島は真剣に考えているようだった。椅子に座ると目を閉じて黙った。土方はソファに横になって、またも毛布に包まった。

 三十分後、新島は立ち上がるとすぐに話し始めた。

「おそらく、先生は( )を二つ書いたんだ! それがχになったんだよ」

「どういうことだ?」

「かっこの右側部分とかっこの左側部分をくっつけて並べると、『)(』みたいになってχに見えなくもないだろ?」

「なるほど。だが、かっこをなんで二個も書いたんだ?」

「左側のかっこに10を、右側のかっこにχを書いてもらいたかったんじゃないかな?」

「ああー、そういうことか」

「新島。腕を上げたね」

「いや、ただの閃(ひらめ)きだよ」

 次の日、三時間目の数学の授業が始まった。

「昨日配った課題プリントだが、最後の五問目のかっこのところだ。かっこを二つ書いたんだが、近すぎてかっこの右部分とかっこの左部分がくっついてχになってしまっていた。......わかりにくかったと思う。だから、五問目は全員正解にする」

 教室の中が笑い声で包まれた。高田は新島に向けて、右手の親指を立ててグッドサインを出していた。


 同日の放課後のことである。高田は『本陣殺人事件』を持って、新島の席に向かった。新島が気づくと、高田は本を新島の前に差し出していた。

「読み終わったぜ」

「おお、そうか。早いな」

「ちょっと気になって読んでたら夜更(よふ)かししちゃったよ」

「なるほど。──で、どうだった?」

「この本か?」

「ああ」

「まさか、『本陣殺人事件』は密室にして一人二役だったとは思わなかった。『車井戸はなぜ軋る』と『黒猫亭事件』、面白かった」

「だろ? 横溝正史は面白いんだ」

「ちょっとだけ内容は怖かったがな」

「あの時代の推理小説作家はグロい描写を使って印象を強めたがるからな。江戸川乱歩とか良い例だぞ。『陰獣(いんじゅう)』とかだな」

「そ、そうなのか?」

「ああ。一度『陰獣』も読んでみろ」

「わかった」

 新島は高田から『本陣殺人事件』を受け取って、カバンにしまった。高田は本を渡すと、部活に行くを聞いてきた。新島が適当に答えて、高田はうなずいて教室を出ていった。

「部活行くか聞いておいて、先に行くとは......」

 新島はやや驚きながら、準備をして文芸部の向かった。

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