第11話 無法区①
「というわけでだ。僕は有栖川さんの妹をまずは話し合いをすることになった」
「運がいいんだか、悪いんだか。本当、次は怪我してバイト行けませんは止めてよね。あ、お客さんお会計だからレジに行って」
「へーい」
悟はホールの後片付けを素早く済ませ、レジ台のほうへと向かった。
あの出来事から2週間がたち、悟の後頭部の打撲もすっかりと治り、痛みは完全になくなっていた。
だが、目に見える傷はなくなっても、目に見えない心の傷までもが消えたわけではない。
悟と詩は隣の席同士でありながら、2週間もの間、会話をしてはいなかった。
たまたま授業中に詩の消しゴムが落っこちってそれを悟が拾い上げた時に「ありがとう」彼女が言ったことぐらいではないだろうか。
悟は詩との距離感を掴めずに思い詰めていたこともあり、その悩みを打ち消すために平日と休日にとにかくバイトを入れた。
そのおかげか2週間足らずで、基礎的な業務はすべてこなせるようになり、厨房とホールのどちらも兼任するような形で仕事をするようになった。
梓と話をするため、バイトのある日は帰り道に例のゲームセンターに立ち寄っているが、あの事故から一度も彼女とは出会えていない。
かといって詩も居場所を知っているわけではない。だが、諦めるわけにはいかなかった。
悟は母からは「きっと詩ちゃんと梓ちゃんを繋ぐ点は悟にあるのかもしれないから、助けてあげなさい。男の子の役目よ」と言われ、背中を押されている。
"好きな子のために"という強い確固たる動機だけが悟の心の中で燃えていた。
退勤時間の21時となり、悟は「あがります」とほかのホールスタッフに声をかけ、事務室に向かった。
悟も当初は慣れない仕事にどっと疲れがたまっていたが、最近はそんなこともなくなり、むしろこれからなにしようかということ考える余力さえ出てきている。
ちょうど着替え終わったところで、遅れて退勤した恵が事務所へと入ってきた。
「今日も探しに行くの?」
「うん、まぁね。見つかる可能性は低いかもしれないけど」
「そっか。頑張ってね。あ、最近この繁華街でチンピラの暴力事件が起こったりしてるから気を付けてね」
「暴力事件?」
「うん。暴力事件っていってもおやじ狩りっぽいんだけどね。悟お金持ってなさそうだから大丈夫だとは思うけど」
「うるせ」
「ま、とにかく気を付けなよ。じゃ、おつかれさま」
そういうと恵は更衣室の中へと入り、扉を閉めた。ガチャリと鍵がかかる音を聞き、その音とともに悟も事務室から退室した。
彼はそのまま喫茶店を出て徒歩5分の距離にある葉月駅前の駐輪場に向かい、自身の青い自転車を取り出す。高校に入学したと同時に買ってもらったスポーツモデルの自転車で、乗りこなすのに最初は苦労したものの、今では相棒とも呼べるほどに彼は自転車に愛着を持っていた。
その自転車で悟が真っ先に向かったのは家ではなくゲームセンターであった。
もはや習慣化した足取りに期待などはなく、ゆっくりとした速度で2階へと階段を登る。
ほんのわずかでも期待を持ってしまえば悟は自分自身が正気を保つことが出来ないことぐらいわかっているためか、彼はわざと期待を捨てていた。
2階に到着し、スロット台のほうに視線を向けた。
「はぁ……」
やはりそこには想像通り、空白となった席が佇んでいた。
その席の様子に、彼の心の中の1%の期待がため息となって漏れだした。
もはやここにいる意味はないと、帰ろうとすると「あ、ちょっと待って!」と悟を呼び止める声が聞こえた。
悟が振り向くと、そこには先日悟が怪我をした際に、ゲームセンター内の事務所で手当てをしてくれた茶髪の若い男性スタッフが手を振りながら笑顔を向けている。
「久しぶりだね、頭の傷は大丈夫かい?」
「あ、はい……。おかげさまで。あの時はありがとうございました」
悟はぺこりとお辞儀をした。
見ず知らずの他人になんの見返りなく看病されたことなどなかったために、悟の中でこの男性スタッフの印象はとても強く残っていた。
「遠野……悟くんであってるよね?俺は小松 貴教っていうんだ。よろしく」
そういうと、小松は悟の前に手を差し出し、悟はその手を握り返した。
「ところで悟くん。もしかしてあの例の女の子探してるのかい?」
「はい……あの後、何度かこのゲームセンターに来てはいるんですけど、なかなか会えなくて。どうしても話したいことがあるんです」
「そうだったんだね。あの女の子だけど15分ぐらい前まではいたんだけど……」
「本当ですか!」
「あぁ、うん。スロット台で座って打ってた様子は見てたんだけど、スーツ姿のサラリーマン?と話してたかな。だいぶ年上っぽそうだったし、知り合いって感じじゃなさそうだったけど」
「お礼は後でします!小松さん!ありがとうございます!」
悟はやっとつかんだ足取りを離さぬように、急ぐようにして階段を駆け下りていった。
ここに15分前にいたってことはさほど遠くには行っていないはずだ。
悟はゲームセンターに自転車を乗り捨てたまま、繁華街を一目散に駆けていく。
駅のホームまで走っては見たが、いるのは仕事帰りのくたびれたサラリーマンばかりで梓の影などどこにもない。
ふと立ち止まって頭を冷やした。
「サラリーマンとなにやら話していた」
小松の言っていたその言葉に何か引っかかりのようなものを覚えた。
あるはずないと考えたいが、そもそも住む世界が違う住人は自分の想像を遥かに超えた現実を突き付けてくる。
もしそうであるのなら、一秒でも早く彼女に出会わなければならない。
悟は駅に背を向け、またもう一度、煌びやかな繁華街の中へと駆け出して行った。
この想像が思い当たらないでくれと、必死にバクバクと音を鳴らす心臓の音を抑えるが、その分額やら背中から冷や汗が流れ出す。
煌びやかな喧騒にまみれた繁華街であるが、それは全てではない。
葉月駅繁華街には通称"無法区"と呼ばれている区画が存在し、そこは昼間でも人があまり立ち入らないところであった。
闇金に風俗、ラブホテルに地下パブなどが古くから乱立し、行政による区画整備においても、規模は縮小したものの、その区画は消えたことはなかった。
子供のころから、両親や学校の先生からは絶対に立ち入らないように何度も言いつけられていることを思い出し、思わず悟は身震いを覚える。
その区画の入り口に境界線というものはないが、その区画の入り口前に立つと、その区画独特の腐敗臭が漂っており、冷たい空気が肌を撫でた。
ぽつりと水滴が鼻の上に垂れ、思わず上を見上げると、鉛色の夜空からは小雨が降り始めていた。
季節は6月である。
じっとりとした湿り気が悟の肌にまとわりつき、「逃げてもいいんだよ」と誘い出すが、それを振り払うように彼は無法区へと歩みだした。
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