☆7‐8


 階下がうるさい。

 いつの間に寝てしまっていたのかは分からないが、青尉は目を覚ました。時計を見ると、午前一時過ぎを指している。開けた記憶がないのに開いていた窓から、冷たい風がするりと入り込んできて、青尉の頬を撫でた。青尉は寝返りを打って天井を仰ぐと、耳を澄ました。

 隣の部屋から響いてくる親父のいびき。その向こうから黄ぃ兄の声が聞こえる。内容までは聞き取れなかったが、ひどく真剣な声音であることは窺えた。

 何があったんだろう。青尉は気になって、そっとベッドから抜け出した。

 階段を猛然と駆け上がってくる音がして、隣の部屋が開く。

 青尉は自室のドアを少し開けて、顔だけを突き出した。

 両手に大量の荷物を抱えた黄佐が、ひどく慌てている雰囲気でありながら、何故か笑顔でそこにいた。


「……どうしたの、黄ぃ兄?」

「あぁ、青尉――ごめん、今ちょっと説明してらんないんだ。あ、でももし動けるようだったら下に来てちょっと手伝って。無理しない範囲で」


 と、まくしたて、黄佐は落ちるように階段を下りていった。


(……何があったんだろう。黄ぃ兄があれだけ動いてるってことは、怪我人だな。それも大量にいるみたいだ。こういうの久しぶりだな……)


 黄佐が大勢の患者を一気に診るような事態なんて、朱将が高校生だった時以来である。それを思い出して、青尉はふと、思い至った。


(もしかして、朱兄? 朱兄に何かあったのか?)


 散々喧嘩した後である。それも内容が内容だった。もしも、もしもだ。朱兄がマッド=グレムリンと戦って、怪我でもしてきたのなら――そう思うと居ても立っても居られなくなって、青尉は部屋を出た。


 ――いや、出ようとした、その時。


「っあ!」


 キィンッ、と脳を劈くような耳鳴りが彼を襲った。視界がぐっと狭まり、手足の感覚が消失する。堪らず青尉は膝を突いて、床に倒れ臥した。


「っ……んだ、これ……?」


 途轍もなく強い頭痛と吐き気がする。止まない耳鳴りが脳味噌を揺らし、ごく局地的な地震を起こす。全身が微弱な痺れに包まれて、上手く身体を動かせない。重要な知覚の一つを無理やり切り取られたような感覚だった。


(やばい。やばいやばいやばい。何か知らんけどこれはヤバい! 黄ぃ兄……黄ぃ兄に、早く、知らせないと……!)


 朦朧とする頭を抱えて這うように部屋から出ようとする青尉の後ろで、数人の男たちが窓から侵入してきた。当然のごとく青尉は彼らの存在を感知したが、対処するどころか振り返ることすらままならずに歯噛みする。マズイ、これは非常にまずい。

 侵入者の内の一人がインカムに向かって何事か話している。

 謎の頭痛は少しずつ治まってきていた。吐き気や震えは、もうほとんど無い。


(……よし、これなら戦える)


 青尉は侵入者たちを刺激しないように、ゆっくりと体勢を整え、そっとポケットに指を伸ばした。

 シャーシンの蓋を開ける。


「……っ?」


 ――が、いつものようにシャーシンを操ろうとして、まったく操れる気配がないことに愕然とした。


(え? なんだこれ? どういうことだ?)


 腕があるのは確かなのに、脳が動かし方をすっかり忘れてしまったかのような喪失感。いくらやっても膨らまない風船に、延々と息を吹き込んでいるような空回り感。青尉は咄嗟に『神経が切れた』と思った。腕があっても、電気信号が伝わらなければそれは動かない、というのと同じだと、直感的に悟った。


 つまり今の自分は――能力が使えない。


 別の一人が青尉を取り押さえた。骨折した腕を抱えている身ではろくな抵抗も出来ず、腕を背後に捩じり取られた上に口まで塞がれて、青尉は痛みと悔しさに小さな呻き声を上げる。


(……くそっ、何が能力者だよ。なんで俺がこんな目に……っ)


 インカムに向かっていた男が、青尉の方を見て頷いた。それに応じて、青尉の首筋に注射針が刺し込まれた。

 暗闇が青尉を塗り潰した。



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