☆4‐3
予鈴が鳴った時、まともに息をしている奴は一人もいなかった――主催者である辰生を除いて。
辰生だけがしれっとした顔で、のたうち回る連中を見下ろした。
「なんだよ皆、なっさけねぇなぁ」
橋谷がそれを睨む。
「なんでお前は平然としてんだよ、辰生……」
「残念だったな橋谷。俺もうこういうのは見慣れちゃってるし?」
「いつか絶対ぇ、ケツバットしてやる……」
「おーう、ま、頑張れ? 楽しみにしてるよ、ははっ」
辰生は飄々と橋谷をあしらって、床に座り込んでいる青尉の方を見た。
「おーい、少尉、大丈夫かー?」
「……はぁ……はぁ……っ……」
「うっわぁ、虫の息だ!」
「誰の所為だよ……」
青尉は胡坐をかいたまま辰生を睨み上げた。
(くそっ、辰生め、ものすごく楽しそうにしやがって……ふざけんなっての。こっちは怪我人だぞ? ったく……)
悪態をつきながら、けれど同時に感謝もしていた。今や教室の中はすっかり普段通りで、青尉が入って来た時の異様な空気は欠片も残っていない。狙ってやったのか、ただ単に遊びたかっただけなのか、辰生の真意は分からない。が、どちらにせよ、青尉は言わなければならないと思った。
一人の最強の味方は、千の敵を退ける。そういうものだと今初めて知った。
青尉は大きく息を吐いてから、傍らに立つ辰生を見上げた。無表情で気恥ずかしさを押し隠し、心の底から言う。
「黙ってて悪かった。あと、いろいろ、ありがとう」
辰生はにやりと笑った。自分の席に座り直し、腕と足を組んで偉そうに言う。
「ふむ、そうだな……鈴美庵の饅頭で手を打ってやろうか。あそこの饅頭うめぇのよ! 今度奢れ」
「いいよ。いくつでも奢ってやる」
「お? 言ったな? その言葉忘れんなよ少尉」
「いくつ食うつもりだよ。……お前って和菓子好きなんだな」
「あれ、知らなかったのか? 大っっっ好きだぜ! この世で一番、和菓子が好きだ! 愛してる!」
「へぇー、初めて知った」
「言わなかったっけか? ――ま、友人とはいえ、知らないことの一つや二つや三つや四つ、普通はあるもんだよな!」
さらっと言われたことに責められているような気がして、青尉は返す言葉を見失った。その青尉を気にしないで、辰生が続ける。
「だからあんまり気にすんなよ。知らないことを知ることに意味があんだからさ」
臭いセリフを吐いたと思ったのか、辰生は目線を彼方にやって、畳み掛けるように続けた。
「まぁ、知らない内にリア充になられたらさすがにキレるけどな!」
「……なんだそれ」
ようやく反応を返し、ようやく席に着いた青尉は窓の外を見た。晴れている冬空は透き通った水色で、小さな人間たちのくだらない争いなどには無関心な冷たい表情をしている。
つれない態度の青空に、青尉は柔らかく微笑みかけた。
「あ、そーだ、少尉?」
「ん?」
「お前、その怪我じゃあ部活行けねぇだろ? 明日……あ、明日って授業あったっけか?」
脈絡のない辰生の問いに、青尉は記憶を掘り返す。この高校、足りない授業数を“公開授業”という名目で土曜の午前を利用し補うことがあるのだが、明日はどうだったろうか。
「あー、うん、確かあった、かな」
「じゃあ、明後日だな。日曜日さ、暇だったら遊びに行かねぇ?」
「ああ、いいよ。どこ行く?」
「とりあえず適当なところで鉢合わせしようぜ」
「鉢合わせ? 待ち合わせじゃなく?」
「駅前のどこか、ってだけ指定して、あとは偶然に頼るってのどうよ」
「面倒くさいから却下」
「えー、なんだよ冷てぇなぁ」
拗ねた口ぶりでそう言って、辰生は少しだけ考えた。
「あ、じゃあ、さっきの約束果たしてくれ。鈴美庵で待ち合わせしよう」
「了解」
ちょうど青尉が頷いたその時に本鈴が鳴り、教科担任が入ってきた。
五体満足の有り難みを噛み締めながら午後の授業を終え、放課後。
「お前も大変だなぁ」
と苦笑する辰生に見送られ、青尉は教室を出た。遠い職員室へ足早に向かう。本日二度目の職員室だが、一度目と違って職員がほとんど揃っていた。入った途端、生徒たちよりは遠慮しているが、生徒たちより粘着質な視線が青尉に絡み付いた。丹田に力を込めて、足を進める。
二日前と同じように、
「来たか、刀堂。まぁ、座れ」
杜本先生に簡素な丸椅子を勧められ、腕を庇いながらそこに座る。
「さて、と……――何から話したらいいもんか」
迷いを見せる杜本先生に、青尉は、知りませんよ、と言う代わりに肩をすくめた。左腕が鈍く痛んだ。
「昨日は災難だったな。身体の具合はどうだ?」
「見ての通りです。左腕と肋骨の骨折、それから打撲に切り傷。それだけです」
青尉ははきはきと答えた。杜本先生が意外そうに眉を持ち上げる。きっともっと傷付いているとでも思っていたのだろう。青尉は挑みかかるような目付きになった。
「そうか。で、これからどうするんだ?」
「どうする、とは?」
「これでもう独り身ではいられなくなったぞ。この県に支部を持たない七大組織の『
杜本先生は一瞬口ごもった。
「……『賢老君主』の本部も、お前に興味を示して、増援を寄越すと連絡があった」
青尉は目を細めた。
「だから、『賢老君主』に入れ、と?」
「君の身の安全は保障する。他の輩どもに手出しはさせないぞ」
杜本先生は二日前と同じ台詞を返し、新たに付け足した。
「君だけじゃない、君の周りの人たちも、だ」
「聞き飽きましたよ、その文句」
冷たく言い放ち、青尉は太腿の上に頬杖を突いた。それからわざと、ゆっくり言い聞かせるような口調になる。
「『stardust・factory』の山瀬さんにも同じことを散々言われました」
「何っ?!」
杜本先生は大声を上げて腰を浮かせた。周りの目が一瞬集まり、すぐに離れていった。
「星屑の野郎が接触してきたのか?」
「はい、昨日の事件の直後に。わざわざ家にまで来てくれましたよ」
「それで、何の話をした?」
「今先生が言ったのとほぼ同じ内容を聞かされました」
「それで?」
「それで……『stardust・factory』に入れ、と」
「で?」
「……で?」
短すぎる問いに内容を推し量れず、青尉は眉をひそめて聞き返した。
杜本先生は腰を落ち着けて、丁寧に言い直した。
「お前は何て答えたんだ? 刀堂」
「……」
青尉は山瀬のことを思い出し、口をつぐんだ。山瀬に言われたことについて昨日一日中ずっと考えていたが、結局答えは出ないままであった。組織に入るか入らないか。入るならどの組織か。入らないならどうやって、自分と大切な人達の身を守るか。そもそも、どうして組織に入りたくないと思うのか。そして、能力を手にした者として、どうするべきなのか――
「刀堂」
業を煮やした杜本先生が返答を急かした。青尉は斜め下の方へ俯いて、小さな声で言う。
「……返事は、まだ。……どうしたらいいのか、分からなくて……」
弱々しい声音は職員室の小さなざわめきに紛れて、消え去ってしまいそうだった。口をへの字に曲げて俯く彼は、まるで泣き出す直前の子どものようだった。
「……そうか」
杜本先生が小さな相槌を打つ。
続いて訪れた沈黙に、青尉ははたと我に返って頬を薄く朱に染めた。
「あ、いや、だから、その、俺は……」
「これは教師としてのアドバイスだが」
唐突な喋り出しに青尉はちょっと眉を顰めた。杜本先生はいつになく真摯な目をしていた。
「困っているなら誰かを頼りなさい。家族でも友人でもいい。先生だって、組織のことが気になるなら俺たちを除いても、他にもたくさんいるだろう。頼ることは弱さじゃない。依存とは別のものだからな。お前を助けてくれるやつはたくさんいるはずだから、そういう人を頼れ」
「……」
「ま、組織の一員としちゃあ、今みたいな弱みに付け込んで引きずり込まなきゃいけないんだろうけど。さすがに、生徒相手にそこまですんのはなぁ」
あっけらかんと笑って言われて、青尉は少しだけムッとした。手加減されているように思ったのだ。けれど同時に“教師として”という前置きの意味も理解して、口をつぐむ。先生の優しさを受け入れられないほど、馬鹿でも狭量でもない。
「その気になったらいつでも来い。――行っていいぞ」
「はい。……失礼します」
青尉はきちんと礼をして、職員室を出ていった。
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