46 イファックス本社

 桐島礼二には幼き頃から見てきた夢があった。それは一族の男が決まってみる夢だった。暗黒の世界で黒いバケモノが人々を襲っている。バケモノに触れると彼らの意識がどっと流れ込む。黒の潜在意識に存在するのは『深谷村』という言葉だ。それが日本にかつてあった山奥の村の名前だと調べた上げたのは、同じ夢に悩まされ続けた礼二の祖父だった。


 黒のバケモノは夢の中で呪うように叫ぶ。


――我々を開放して欲しい。


――光の地で暮らしたい。


 自身も飲み込まれようという時に、いつも恐怖で目覚める。起きると寝汗を掻いて自身がひどく怯えていたことを知る。礼二は嘆息するとベッドルームを出た。




 都内某所にあるイファックス本社、トイレ業界で3番手の大企業に成長させたのは祖父の功績であった。出社してすれ違う人々に元気よく挨拶する。皆にこやかな笑顔で「おはようございます」と返してくれる。エレベーターに乗ると最上階のボタンを押して隅に控えた。数多の階で停止し終えて、ようやく到着した最上階で降りる。


「おはようございます、社長!」

 社長室のドアをくぐると秘書の水野が丁寧にお辞儀をした。


「おはよう」


 そう言って机の上にかばんを置くと書類を取り出した。自宅に持ち帰ってこなしていた仕事だ。その書類を水野へと渡す。あとの処理は彼女がやることになっている。


 その時電話が鳴った。ドキリとする。社長室への直通電話の外線が鳴ることはあまりない。


「はい、イファックスお客様センターでございます」


 相手の名前を聞いた水野が目くばせで礼二に伝える。例のとこからの電話だと。礼二は手でこちらに回してくれと合図する。


「お待たせいたしました、イファックスお客様相談室担当、桐島でございます」

 相手は子供の声だった。


『すみません、友達に聞いたんですが自宅の土地にオタクの会社が勝手にトイレを設置していると聞いたんですが』


「ああ、大変申し訳ございません。こちらの手違いでございまして。行き違いがあったようです」


『行き違いってどんな行き違いですか』

「えっとですね、それに関しましては……」

『あの、聞きたいんですけど。この世界何なんですか』


 単刀直入な質問に身が引き締まる。前置きはどうやら不要なようだ。


「恐れながらそちらに関しては我々も存じ上げておりません。この世界とは具体的にどのような世界でございましょう」

『人魔って生き物がいたり、世界中の漂流物が流れ着いたり。今すぐ戻してくれませんか』


 礼二はメモを取り出すと即座に書きつける。


「失礼ですが人魔とはどのような生き物ですか」

『知らないですよ。でもこちらの人々は皆怯えているんだ』


「人が他にもいらっしゃるのですね。どの位いますか」

『知らないですよ。国が4つあってメチャクチャいます』

「そうですか」


 その情報もまたメモをする。


「私共の方としましても今帰還の方法を全力で解析……いえ、調査しているところでございます」

『方法が分かったら、すぐに対処してくれないと困ります』


「はい、それはもう重々承知しております」

『だったら……』


 その後、相手がぐちぐちと文句をいうのを聞き流し、でも最後は丁寧に電話を切った。


 礼二は自身の書きなぐったメモを見ながら呟く。


「そうか、あれは人魔というのか」


 大きな嘆息でそれは水野にも聞こえていた。


「夢で現れるというバケモノのことですね」


 礼二は頷く。先祖代々見てきた夢のことを話している人物はそんなにいない。プロジェクトに協力してもらうという負い目もあって彼女には真実を話した。


 礼二は椅子をクルリと横に回すと社長室の左壁を独占する大きな古地図を見つめる。ガラスで大事に保護されてきた先祖代々の宝――田吾作の書き記した地図だった。


 500年前、深谷村を彼の地へと流した田吾作は恐ろしき夢を時折見るようになった。真っ黒なバケモノに襲われ身も心も腐敗する夢だ。地図と夢は引き継がれて、500年後の今日にも桐島家に怨恨として残っている。


 夢を断つために立ち上がったのは祖父だったがその祖父はもういない。祖父の一人娘である礼二の母には引き継がれず、今はそれを礼二1人で引き継いでいる。


「世界の漂流物があるというのは予想通りだったね」


 礼二はパソコンを開く。モニターに表示されたのは世界地図のデータファイルだ。世界各地で起きる神隠しの事象を具に記録している。


「そろそろ彼らに事情を話して協力してもらってはどうでしょう」

「その手も考えなくてはいけないね」


 そういうと礼二は世界地図から視線を外して古地図を見上げた。


「あちら側の世界にはバケモノがいる。それは事実。でも呪いを断ち切るにはどうすればいい」


 その問いに答えてくれる者はいない。ならばするべきことは1つ。礼二は立ち上がると本社に隣接する総合科学研究所へと向かった。




「意味分かんねえ」


 通話を終えた聡司はうんざりした様子でソファに身を凭す。今、家にいるのは聡司と君江だけ、他の家族は仕事で留守だ。


「聡ちゃん、おばあちゃんが電話しようか」

「ああ、いいよ。ばあちゃんがいっても一緒だって」


 普段君江は電話に出ない。耳が聞こえないと理由づけをしている。でも今はそんなこと関係なしに心が疼くようだ。聡司はスマホ画面を見つめた。ここはWi-Fi環境にある。なのに元の世界ではない、その事実が重くのしかかる。


「お父さんが戻って来ると何か分かるかもしれないけれどね」

「父さんでも一緒だよ」


 苛立ちを紛れさせるようにソファに寝転がる。自身の中で整理しなければならないことが多すぎる。ライフラインが生きていて、電波も通じる。なのにここは元の世界ではない。聡司はぎゅっとクッションを握り占めて目を閉じた。

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